彼は昨年、仕事中の事故で記憶を失くしてしまった。

 何も分からない状態でいる。

 人伝に聞いていたが、今日逢って実感した。

 もう、彼の中に自分はいない。

 美也子は震える手で箱を開ける。予想通りのエンゲージリング。


「うぅ…っ」


 彼の弟が気を利かせてくれたのだろう。

 何の記憶も持たない彼に、このようにして渡せと。

 美也子は彼の弟に感謝した。


 寄り添おうとは思わなかった。

 今でも好きだが、寄り添おうとは思えなかった。

 記憶を失くし、不安な毎日を送っているだろう彼に、昔付き合っていましたと言い、彼の感情を無視出来ない。

 冷たい女だと思われるかもしれない。

 しかし、記憶を失くした彼は、別の女性に好意を抱くかもしれないのだ。

 事実、彼は美也子に逢っても動じる事なく去って行った。

 彼はこれから、新しい道を歩いていくのだ。


 美也子は受け取ったエンゲージリングを右手の薬指に填める。

 冷たくなり色のない指に、冷たい銀の指輪。

 それは冷たさを増すどころか、温かみを帯びた。


「さようなら…」


 今まで口にしなかった言葉を、ゆっくりと吐き出した。

 白い吐息に包まれた言葉は、大気に溶けて消えた。





*End*