枡屋喜右衛門は近江の郷士で、本名を古高俊太郎正順といった。

新撰組の土方副長は、この古高を屯所で逆さ吊りにして足に五寸釘を刺し通し、そこに百目蝋燭を立てて火をつけるという苛烈な拷問を加えた。

半死半生となった古高は拷問に耐え切れず、驚くべき事実を白状した。

…来たる六月二十日前後の風の強い日を選んで京都御所の風上から火を放ち、その騒ぎに乗じて公家、佐幕派の大名達を殺害するという計画である。

この恐るべき『京都大火計画』を阻止する為、近藤はすぐさまこの事を松平容保の他、京都所司代の松平定敬、そして町奉行所に伝えた。

容保は会津桑名藩の他に一橋、彦根、加賀などの兵をも合わせて三千人を動員し、祇園、木屋町、三条通り一体を包囲させる事にしたが、その支度に予想以上に時間がかかり、新撰組だけが先に突出する事になった。

祇園の町会所に集まった新撰組隊士は僅か三十四人である。

近藤の指示のもと、隊士達はそれぞれ鎖の着込み、竹胴、刀、手槍など斬り込み用の装具を身につけてから、宵宮で賑わう路地へと出た。

それが午後七時頃の事だ。

祇園会所を出た隊士達は三条小橋と三条縄手の二手に分かれ、鴨川の両岸を虱潰しに調べていった。