歌皇~うたのおうさま~

 男は黙ったままで、ふいに自分のジーパンの後ろポケットを探りだした。
 そして、一歩、また一歩と静かに近寄って来る。
 足音はない。
 その姿に気後れしそうになるのを堪えて、オレはただ、それを見つめる。
 と、男は空いた左手を、つ・・・と伸ばしてきた。
 その指先が微かに頬に触れて、

「・・・・・・っ!」
 
 一瞬、身を竦ませたオレに、彼はまた、ふ、と笑った。

「余計なお世話も焼きたくなるってもんだろ。
 ようやくお前の歌を・・・・・・『友情』だの『約束』だのとか言う、
 ちゃちな『契約』で縛る者がいなくなったんだ。
 『この時』を、逃す訳にはいかないんだよ、俺達は」

(俺、達?)

 聞き返す間もなく、男はすばやくオレの右手を取り、何かを握らせた。
 ゆっくり指を開くと、中には一枚の紙。

「ロクス=ラ=エル……?」

 並ぶアルファベットを自分の解釈で口にしてみる。
「そう」
 男は何故か満足そうに頷いた。


「水橋駿雅(ミズハシスルガ)。明日、ここへ来るといい。
 お前の歌がどうしても必要なんだ。
 そして何よりお前を、・・・・・・ずっと待っている方がおられる」


 必要?
 オレが?
 オレの、歌が?


 鼓動が跳ね上がる。
「え、え、……唄わせてくれるの?オレを?」
「ああ、・・・・・・存分に」
「ちょっ…!待ってよ、ホントに?」
 ヤバい。
 切ない程に嬉しい言葉。
 必要、だなんて。存分に、だなんて。求めていたその言葉は実際に言われるとこんなにも胸の騒ぐものだったんだ。
 ヤバい。ホントにヤバいって。
 知らないヤツなのに。いきなりの話なのに、「何でオレを?」と尋ねることも出来ない。
 無条件に「ハイ」と返事してしまいそうな自分が、ヤバい。