峠を上り詰めた。


眼下に尾鷲が広がっていた。


あたしはかばんから文庫本を取り出した。

「むかし、おとこ、うゐかうぶりして、平城の京、春日の里にしるよしして、狩に往にけり」

久しぶりに持ち出した本だった。

主人公は稀代のプレイボーイ。


駆け落ち、密通。


自分自身に正直に生きたオトコ。



ー在原業平ー


この本を買った中学時代、あたしはこのオトコに恋していた。

「由香里ちゃんは男子の誰が好きなの?」


修学旅行の布団の中で語れる同級生がいなかったあたしはこのオトコの名前を出した。

「ダレ?」

そう、聞かれたな。



嘘をついた。


「従兄弟の学校の同級生」


ー歴史上の人物を出したあたしもあたしだけど、それを真に受けたクラスのコたちも馬鹿だったね。





あたしは本の上に目を落とした。