「おい」
 不意に声を掛けられた。鼻にかかったような、やや高い声だ。
 もう半日も一人で登っている。声の主がいるとするなら、それは一つしか考えられない。あのうさぎだ。
「何をしに来た」
 恵孝は顔を上げた。うさぎと目が合う。月光に、うさぎは青白く光る。
「薬を探すために、深仙山へ向かっている」
 答える。うさぎが話すことに驚いていないわけではない。だが自分は伝説の山を目指し、伝説の薬を探している。うさぎは続ける。
「薬?」
「蛙が持っているという不治の病を治す薬だ」
「不治の病か。得て何とする」
「父を救う」
「父親が篤い病なのか」
 うさぎは鼻を鳴らした。顔を前脚でこする。
「違う」
 恵孝は腕に力を入れ、少し登った。

「父は医者だ。不治の者を治せと命じられている。さもなければ、父の命がない」
「誰に命じられているのだ」
 黙る。例えばこのうさぎが章王の意を受けており、間諜のような役割であるとする。王の名を口にして、恵孝自身か、あるいは恵弾の身がより危険にさらされるかもしれない。今最も危険にさらされているのは、岩壁をよじ登っているこの身だ。足元など、恐ろしくて見られない。

「まあ、そんなことは良いさ。問題は」
 うさぎも一段上へ進んだ。
「お前が姐さんを説得できるかどうかだ」

 月の明るさが増す。目の前の影が濃くなる。突然、強い眠気に襲われる。
 いけない。ここで眠るわけにはいかない。
 岩から手を離したらどうなる。どれだけ落ちる。落ちたらどうなる。無傷では済まない。生きていられるか。戻らなければ父の命がない。帰らなければ、家族が。

 眼前の岩壁は月の光を受けて眩い。耐えきれず、恵孝は目を瞑り、そのまま強烈な眠りへと引き込まれる。手の先の感覚が無くなる。身が宙へ投げ出される。