「あら、菜音じゃないの」
 店の主は恰幅のよい体を捻って、細い通路を抜けて店先に出てきた。菜音は頭を下げる。恵孝も倣う。家の蔵で書物を漁り、父と祖父に家業の教えを受け、やっと診療を始めたばかりの恵孝よりも、「街の子」として城下町の中を縦横無尽に歩いて育った菜音の方が顔が広いのだ。
「こっちは恵正先生のところの若先生だね、確か」
「白芽おばさん、恵孝よ」
 主はふふっと笑うと、菜音を手招きして耳打ちする。恵孝を見て、「ごめんね」と謝った。何故謝られたのか、未だにわからないままだ。

「それでね、おばさん」
 菜音はさっきからずっと、花を象った簪を手放さない。
「これ、杏でしょう?」
 杏だろうか。梅か桜か桃か。同じ頃に相次いで咲く花のいずれかには見える。春になるたび、家の庭の杏の木は薄紅色の花を数多咲かせるが、それを見上げて育った恵孝でも断定出来なかった。
 女主人はどれどれと簪の細工を、目を細めて見た。
「菜音、これは桃の花さ」
 花びらの先が少し尖っているし、花は二つずつ拵えてあるだろう。

 見れば、菜音はあからさまにがっかりした顔をしている。
「杏の拵えなんて、滅多に見ないよ。梅は春一番に咲いて匂いもいい、桃も鮮やかでいい。桜が風に揺れる姿もなかなかだけど、杏の花はねえ。梅によく似ているけど香りはないし、杏っていうと花より実の方が先に思い浮かぶよ」
「だったら、」
 恵孝は口を挟んだ。
「杏をあしらった簪をお願いできませんか」
 菜音の表情が、それこそ花でも咲いたようにぱっと明るくなった。それでも、何を遠慮しているのか「いいの、恵孝」と聞いてきたので大きく頷き返した。