「もし旅に出るなら」
 赤子をあやしながら、菜音は言った。
「恵孝と一緒に行くか、帰ってきたときに恵孝が迎えてくれるか。どっちか」
 自分が耳まで熱を帯びたのを感じる。何と答えたものか戸惑っていると、菜音が不思議そうな顔をした。ややあって、菜音も頬を染めた。 
「ひょっとして、私いま、とても大胆なこと言ったのかな」
 蝶が、二人の間をひらひらと舞って通った。春の風が抜け、赤子は蝶に腕を伸ばして笑い声を上げた。 


 パチ、と炭が爆ぜた。その音で我に返った恵孝は、炭に火箸を入れた。生木が混ざっていたのだろう。宿の者は、夜具と火鉢を置いていった。宿に入ったとき、山が傘を被っているから今宵は冷えますよ、と主が言ったとおり、日が落ちると共に北西の山々から冷たい風が吹き降りてきた。
 懐から畳まれた手巾を取り出す。開くと飴色の簪が現れる。手に取ると、鼈甲で作られたそれは炭の色を透き通らせてやや赤みを帯びる。
 恵孝は髪から自分の簪を抜き取った。肩までの長さの黒髪が落ちる。再びまとめ上げて、菜音の簪を挿した。

「あれ、」
 と菜音は簪を指さしたのだった。二人でどこかへ行くというのは滅多にないことで、あのときも、菜音は富幸の使いで、恵孝は父に言われて暁晏に書物を返しに行った帰りだった。あるいは、両親がそういう配慮をしたのかもしれない。
 小間物屋の店先で、菜音はふいに立ち止まった。恵孝も足を止めて、菜音の指先を辿った。
「見て、これ杏の花だよね」