旅は楽しかった?——菜音に問いかけたことがある。
 菜音は答えを考えるように、背中に負った赤子をあやした。近所の子を預かって面倒を見ている。菜音はそうやって細い腕で自分を生かしてきた。

「あまり、」
 菜音の表情が読めず、恵孝は手にしていた医学書を握った。聞いてはいけなかったかと自分を恥じた。
「覚えていない。だって、とても小さい頃だから。でもね」
 菜音は顔を上げた。肩に届かぬ長さで切り揃えられた髪がつられて動いた。
「楽しかった思い出がある。父さんがいたから、知らない場所に行くのはいつも緊張したけど、楽しかった。恵孝だって、恵正先生と山に行くでしょう」
「うん」
 近くの山に薬草を採りに行くのと、菜音のしてきた旅とでは訳が違う。僕には帰る家があるけど、菜音にはない、とは口に出来なかった。

「また、旅に出たいと思う?」
 代わりに、こんなことを訊いた。
「恵孝は、私にどこかに行って欲しいの」
「そんなつもりはない」ととっさに口にして、口にしたと同時に菜音の手をとって両手で握った。医学書は乾いた音を立てて地面に落ちた。
「あ」とか「わ」とかどちらが声を上げたかは忘れたが、二人して慌てたり、顔を赤らめたりしているうちに、菜音の背中の赤子が泣き出して、結局二人とも顔を見合わせて笑ったのだった。