「おい」

 激しく揺さぶられて、恵孝ははっと目を開けた。思い出したかのように呼吸をする。が、口の中に水が入り込み、すぐにむせる。ゴホゴホと咳き込む。
「そんな格好じゃ当たり前だ」
 上半身を起こされて、ようやく自分が地に伏していたのだと分かった。口の中がざらりとして、また咳をする。ざあざあと雨が降っていた。頭の方が足より低いところにあり、泥水が流れて来るのだ。
「ああ、荷はあそこか。お前、あの木の下から転げ落ちて来たのか」
 そう言えば気を失う前、雨の気配を感じて木の下に留まった。そこは周りより少し小高くなっていたはずだ。
 「立てるか」と肩を支えられる。恵孝は足に力を入れたが、泥の地面を上手く踏みしめることが出来ずに滑ってしまう。

「ほら」
 目の前に、突然白いものが現れた。真っ白な毛皮だ。眼前一杯に、その毛皮が広がっている。
「木の下まで背負ってやるよ」
 どうやらこの声の主の背中らしい。いったい、何者だろうか。
 巨大な岩壁、喋るうさぎ、四季を問わずに生い茂る草木。夢か現か解らぬ影。この山に入ってから、不可思議なことばかり起きる。恵孝は、次々と降る雨が真っ白な毛皮の上を滑って行くのを茫然と眺めた。不可思議なことばかり起きる。だったらこの背中に己を委ねるのも、その不可思議なことの一つに過ぎない。

 恵孝は体を毛皮の上に預けた。毛皮の下には、たくましい男の身体が感じられた。幼い頃に父に負われたときのことを思い出した。
 体の脇に太い腕が回され、恵孝の体を支えた。その腕と背中に力が込もり、恵孝の身体が持ち上がる。歩き出そうとするのを察し、恵孝は毛皮に尋ねる。
「そっちは、北か」
 毛皮の主はふっと笑った。
「あの木の下に戻してやるから、動かなかったことにしておけよ」
 そうだな。
 恵孝は毛皮の奥から伝わってくる温かさに、体をすっかり預けた。ゆっくりと動きながら斜面を登っていくのを感じながら、再び意識を失った。