狸や狐は身近にいながら、なかなか目撃することのない故に、却って人を化かすなどという迷信が生まれたのであろうか。

因みに、家猫として人の生活の場に入り込んだ猫もまた、実は経上がると「猫又」という妖怪になるのだという迷信があった。

「猫又」は何でも尾が二つに割れた物の怪だそうだが、そういえば、狐にも「九尾の狐」というのがある。

人の想像は、得体の知れないものについて、尻尾を増やす傾向でもあるのだろうか。

まあ、その方が、見慣れない恐ろしさがあって物の怪らしいからかもしれない。

かつて、人は暗闇を恐れた。

夜でも明るい近代以降の世の中と違って、新月の夜には本当に鼻をつままれても分からない暗闇があった。

恐怖は道徳を教える手段として使われ、際限ない人間の好奇心が暴走するのを抑止した。

暗闇がそうであるように、恐怖の原点には未知がある。

白日の下に晒されて、はっきり理解できる事柄や既知の事実と違って、不明で判然としないものほど不安を覚えるものはない。

かつての大人はその心理を巧みに利用して、子供を育てた。

妖怪や人攫いが出るから早く家に帰るように諭したし、親の言うことをきかないとお化けが出るとか鬼に連れて行かれるとか、はたまた、おなかを出して寝ると雷様におへそを取られるなどと健康管理にまで未知のものの畏怖を利用してきた。

学校の道徳やボランティアの授業では、出てきそうにない。

狐や狸や猫は専ら最近じゃ可愛いい存在になりさがっているが、彼らのもつ畏怖が人間を育てた時代の成果と比して、学校のお手並み拝見というのも面白いかもしれない。