「……私は」


 兄を思い出して拳にぐっと力を入れた。たった七文字の名前。その七文字に様々な思いを込めて言葉にしようとしたその時だった、今しがた希が入ってきたドアが勢いよく開いたのは。


「侑斗(ゆうと)、今日も社長出勤かよ」


 全員がドアに釘付けになった瞬間、ひとりの男子生徒が声を上げて笑った。
 希がドアを見遣ると、だるそうに学生カバンを下げた男子生徒と目が合った。
 制服はだらしなく着こなされ、引き摺られたズボンは裾がボロボロだ。金に近い色まで脱色した髪が中性的な顔立ちの彼にとても似合って見えた。決して死んでいるわけではない、寧ろ力強い瞳をしているはずなのに、彼の瞳の色は何かを諦めているような、淋しい瞳の色をしていた。


「……何?」


 そう侑斗に怪訝そうに問われ、今まで自分が彼を凝視し続けていたことに気付く。ごめんなさいと慌てて俯くと、先程と同じ青年が口を開いた。


「侑斗、例の転校生」


 侑斗の視線がその男子生徒を捕らえたかと思うと、すぐに希の元に戻ってきた。


「神崎希」


 希は呆然とした。侑斗が口にしたのはまだ誰も知らないはずの自分の名前。もちろん、驚いたのは希だけではなかったようで、教室内が一瞬にしてざわめいた。
 そのざわめきにも素知らぬ振りをして、既に彼は自分の席を目指して歩き始めている。


「お前読心術も使えるのかよ?」


 席に着くと同時に絡み出した男子生徒を、軽くあしらうように侑斗は「違ぇよ」とそっぽを向いていたが、その遣り取りに希は違和感を覚えた。


「さ、みんな神崎さんの名前も分かったみたいだし、いいわ。席に着いて。神崎さんは空いている席に座ってちょうだい」


 再び担任に背中を押され、席に着くように促されたが、見渡す限り空いてる席は、先程侑斗と呼ばれていた人の隣だけだ。
 自己紹介はせずに済んだとはいえ、全く知らない人に名前を知られていることほど気持ち悪いことはない。
 まだ何も入っていない布製のカバンを抱き上げて、とぼとぼと空いている席に向かう。取り敢えず、よろしくと言って隣に座ったが彼は前を向いたまま何も言わなかった。