何モノかまでははっきりと見えなかったが、落下する刹那、足のようなものが屋上から真下の地面に向けて歩みだしたのが見えた。「あれ」は人であることが有力である。
僕はビルに向かって走り出した。あの「落下物」は一体何なのか、はっきりさせたかったのだ。

もしかしたらこの事件は平凡で退屈な毎日にスパイスを効かせてくれるかもしれない、などと不謹慎なことが脳裏をよぎった。だが、確かにそのときの僕は心を躍らせていたのだ。

走ること5分、現場付近にたどり着いた。この十字路を右に曲がれば、あの落下物の正体がはっきりする。
ここ最近運動不足だったせいだろう。息があがり、体が重い。だが、それとは関係なく、僕の動悸はすこぶる激しかった。ワクワクしていたとはいえ、「あれ」が人であったらと考えると緊張と動揺を隠せない。
ゆっくりと角を曲がる。やはりあの黒い影は、人だ。僕とさして年齢も大差ない女性である。道の真ん中に横たわっているが、不思議と怪我1つしていない。ふと、顔を上げると道の脇に段ボールを山ほど積んだ軽トラックが駐車してある。おそらくあの上に落下し、段ボールがクッションの役割を果たしたのだろう。
僕は唾を飲みこみ、女性にゆっくり近付いた。呼吸はしているらしい。彼女の口元の砂が微かにだが動いている。命に別状はないだろう。

『大丈夫ですか?』
意識の確認をすると、むっくりと起き上がり僕の顔をじっと見つめた。いや、睨みつけられたと言ったほうがいいのかもしれない。よく見ると、その女はずいぶん端整な顔立ちで、活発な印象がある女性だった。だが、今は無表情のまま、その整った顔で僕をじっと睨んでいる。女はすっと立上がり、無言のまま歩き出した。何ごともなかったかのように、たった今起きた事件がまるで日常の一部であるかのように平然として彼女は去っていった。
僕は首を傾げ、平凡を非凡に変えることはそう容易いことではないのだと悟り、長い溜め息をついた。