『世界の終わりのトップコート』〜嘘つきな君と、私〜

ハルトが遠い世界へと旅立ち、あの完璧な香水――ハルトの24年の人生そのものを閉じ込めた『ラストノートの結晶』が完成してから、5年の歳月が流れていた。
西麻布の路地裏にあるプライベート調香工房『L'Atelier de l'Arôme(アトリエ・ド・アローム)』は、今も変わらずそこに佇んでいる。けれど、私の調香師としての生き方は、少しだけ、でも決定的な変化を迎えていた。
私は今、週に一度だけ、かつて自分が通っていた都内の調香師専門学校の教壇に立っている。
かつての恩師が引退する際、「今のあなたなら、香りの本質を次の世代に伝えられるはずよ」と、強く背中を押してくれたからだ。
ハルトを亡くしたあの夏、私は調香師としての無力さに絶望しかけた。けれど、彼が遺してくれた黄金のエキスと、彼の命が放った三つのノートを掛け合わせたとき、私は知ったのだ。香水とは、単に人間を飾るための贅沢品ではない。大切な誰かの生きた証を、その魂の温度を、この世界に永遠に繋ぎ留めるための、最も優しく、最も強固な『記憶の器』なのだと。
その真実を、これから香りの世界へ飛び込もうとする若い生徒たちに伝えること。それこそが、ハルトの優しい嘘を受け止め、未来へ進むと誓った私の、今の使命だった。
     *
コンクリート打ちっぱなしの、少しエタノールの匂いが澱(よど)んだ専門学校の実習室。
教壇の上に立つ私の目の前には、白衣に身を包んだ三十人ほどの未来の調香師たちが、緊張した面持ちでノートを広げていた。
生徒たちの机の上には、何百種類もの遮光瓶と、細長いムエットが整然と並んでいる。その光景は、十四年前、私がハルトのために初めて香水を作ろうともがいていたあの頃の姿と、どうしようもないほどに重なって見えた。
私はチョークを手に取り、黒板に大きく一つの言葉を書き記した。
『香料(エッセンス)の数だけ、人間の感情はあるのよ』
カツン、とチョークを置く音が室内に響く。生徒たちが一斉に顔を上げ、不思議そうに黒板の文字を見つめた。
「みなさん、この言葉を、ただのロマンチックな比喩だと思わないでください」
私は白衣のポケットにそっと手を忍ばせた。そこには、5年経った今でも大切に持ち歩いている、ハルトの人生を閉じ込めたあのクリスタルのアトマイザーが、私の手のひらに確かな重みを与えている。
「これからみなさんは、世界中から集められた何千、何万という香料の分子と向き合うことになります。爽快なシトラス、濃厚なローズ、静寂を運ぶサンダルウッド……。それらを組み合わせるとき、どうか忘れないでほしいのです。目の前にある液体は、単なる化学物質の集まりではありません。誰かが心の中に隠している、言葉にできない『記憶』や『愛おしさ』、そして時には『消えゆく命の灯火』そのものなのです」
実習室が、しんと静まり返る。生徒たちは息を呑むようにして、私の言葉を、その五感で受け止めようとしていた。
「調香師とは、世界で最も残酷で、そして世界で最も優しい職業です。誰かの人生の最後の残り香に立ち会うこともあれば、その香りを未来へと受け継ぐ架け橋になることもできる。みなさんがこれから創り出す一滴が、いつか誰かの絶望を救う光になることを、私は信じています」
私はそう言って、生徒たちに向かってまっすぐに微笑んでみせた。
その瞬間、実習室の窓から、冬の始まりを告げる冷たい、でもどこか澄み切った優しい風が吹き込んできた。
風が私の髪を微かに揺らしたとき、胸元のポケットからふわりと、あの眩しいシトラスと甘い白い花の香りが、私の周囲にだけ優しく立ち上った気がした。
(ねえ、ハルト。私、ちゃんと先生になれてるかな――)
黒板の文字を見つめながら、私は心の中で、あの鳶(とび)色の瞳をした初恋の君に、そっと語りかけていた。


こんにちはm a iです!!
ついに完結しました!💖
毎日努力して、コツコツ書いたことがすごく楽しかったです!💖
他の作品もまた、続きを書こうと考えております💭
ランキング乗れたら嬉しい😇💘
応援してくれた皆様ありがとうございました.
これからも、m aiをよろしくお願い致します❤︎