ハルトが、遠い、遠い世界へと旅立ってから、ちょうど一週間が経った。
あの冷たい雨の夜、工房で交わした最後の約束を置き去りにするようにして、彼の生命の灯火は静かに、誰の手にも届かない場所へと消えていった。
葬儀の日の西麻布は、まるで彼のラストノートを世界中から洗い流してしまおうとするかのように、激しい土砂降りの雨が街を白く煙らせていた。火葬場の煙突から立ち上る、何も匂わない煙を、私はただ傘も差さずに見つめていた。調香師として、彼の死を「匂いの喪失」というあまりにも冷酷な事実として突きつけられた一週間だった。
そして、初秋の高く澄み切った青空が広がる、ある日の夕暮れ時。
あの眩しかった夏の面影は、街のあちこちからすっかり消え失せていた。
主のいなくなってしまった病院の病室の片付けを、ようやくすべて終えたというハルトのお母さんが、西麻布の路地裏にある私の工房へと、静かに足を運んでくれた。
カラン、とドアベルが鳴る。その音は、あの日ハルトが車椅子で入ってきたときの重苦しい音とは違い、どこか哀愁を帯びて響いた。
お母さんの目は、この一週間で何度涙を流したのか分からないほどに赤く、痛々しく腫れ上がっていた。けれど、その表情にはどこか、大仕事を終えた後のような穏やかな微笑みが浮かんでいた。
お母さんは、自身の細い両手で、小さな、丁寧に磨かれた白い木箱を、まるで壊れやすい赤ん坊でも抱くかのように大切そうに胸に抱きしめていた。
「香織ちゃん……これね、ハルトが『自分がもしものときは、何よりも一番に、香織に渡してほしい』って、ずっとベッドの脇のセーフティボックスに置いていたものなの。……あの子の最後のワガママだと思って、受け取ってあげて」
「おばさん……ありがとうございます……っ」
木箱を受け取った瞬間、私の指先へと伝わってきたのは、ハルトが遺していったあの『ミドルノート』の、微かな、けれど確かな幻影だった。
雨が上がったばかりの深い森の奥のような、濡れたシダーウッドと湿った土が混ざり合う、どこか懐かしくて、どうしようもなく温かいハルトの本質の匂い。それが、木箱の繊維の隙間に、じっとりと染み付いていたのだ。
それだけで、私の視界は再び熱いもので歪みそうになった。
お母さんを近くの駅の改札まで見送り、一人きりになった工房へ戻ると、私は内側から重い鍵をパチリと閉めた。
夕闇が部屋の四隅からじわじわと音もなく侵食していく中、私は作業デスクの椅子に深く腰掛けた。
静まり返った工房で、空調の低いノイズだけが響いている。私は震える指先を白い木箱の蓋へと掛け、息を止めるようにして、ゆっくりとそれを開けた。
中に入っていたのは、綺麗に四つ折りに畳まれた、少し厚手の便箋に書かれた一枚の手紙。
そして、その手紙の下に隠されていた「それ」を見た瞬間、私は喉の奥で小さく息を呑んだ。
それは、見覚えのある、茶色く変色した古いラベルのガラス瓶だった。
中学生に上がる前の最後の夏休みに、私とハルトが汗だくになりながら裏山で作った、あの世界で最初の、不恰好な香水のボトル。
ハルトが「もう世界中のどこにも材料がない」と言っていた、あの約束の瓶。
だけど、あの夜にハルトがカウンターに置いたときと、一つだけ、決定的に違っているところがあった。
空っぽで、エタノールが気化して久しかったはずのそのボトルの底に、ほんの数滴だけ、夕暮れの光を浴びて怪しく、美しくきらめく、透き通った黄金色の液体が残されていたのだ。
私は、涙が溢れて手紙の文字が見えなくなるのを必死で堪えながら、ハルトの手紙を丁寧に広げた。
そこには、少し掠れていて、でも一文字一文字に強い力が込められた、ハルトの真っ直ぐな筆跡が、紙の上に踊っていた。
涙で視界が激しく歪み、文字の輪郭が滲んで溶けてしまいそうになるのを、私は白衣の袖で何度も何度も乱暴に拭った。
丁寧に折り畳まれていた少し厚手の便箋を、壊れ物を扱うように両手で広げる。
そこに並んでいたのは、少し掠れていて、男の子らしい歪さがありながらも、一文字一文字にハルトの真っ直ぐな魂が込められた、愛おしい直筆の筆跡だった。
呼吸をすることさえ忘れて、私はハルトが遺した最後の言葉に、その網膜を滑らせていった。
『香織へ。
この手紙を読んでいるってことは、俺のラストノート、ちゃんと香織の鼻に届いたかな。
世界一の調香師を名乗る君のことだから、きっと俺が工房に入った瞬間に、すべてを見抜いて、裏で一人で泣いていたんだろうね。
寂しい思いをさせていたら、本当にごめん。でも、どうしても最後に、もう一度だけ君の顔が見たかったんだ。
最初に、ずっと君に嘘をついていたことを謝らなくちゃいけない。
俺ね、あの最後の夏休みに、二人で裏山の秘密基地で作った香水の匂い、本当はちゃんと覚えてたんだよ。
忘れたことなんて、一回もなかった。
君が汗だくになりながら乳鉢をすり潰していた姿も、出来上がった濁った緑色の液体を宝物みたいに俺に差し出してくれたときの誇らしげな笑顔も、全部、俺の脳のなかに完璧に記憶されていたんだ。
それとね、香織。あの裏山の白い花、実は絶滅なんてしてないんだよ。
中学校を卒業したあと、あの裏山が四角いコンクリートの住宅地として開発されるって決まったとき、俺はどうしても、君との大切な思い出をこの世界から消し去りたくなかった。
だから、大型の重機が山に入る前日の夜、俺は一人でこっそり裏山に忍び込んで、スコップで数株だけ、あの白い花の根を掘り起こしたんだ。
それを自宅の庭の、陽当たりの悪い、誰の目にも留まらない隅っこに植え替えて、ハルトのお母さんにも内緒で、毎日、毎日、水をやり続けていたんだよ。
ハーブみたいに強い生命力を持った花だったから、俺の拙い世話でも、毎年夏になると、あの頃と全く同じ、甘くて、少し切ない匂いの白い花を咲かせてくれていたんだ。
俺が倒れて、もう学校にも行けなくなって、病室の窓からしか空を見上げられなくなった長い年月も、その花だけは、毎年欠かさずに俺のためにあの夏の匂いを届けてくれていた。
この瓶の底に残されている黄金色の液体は、俺がその花を摘んで、君のやり方を見よう見まねで真似して、エタノールに浸して、一生懸命に抽出した本物の『あの夏の匂い』のエキスです。
これが、君がずっと探していた、処方箋(レシピ)を繋ぐための、最後のピース。
香織、お願いがあるんだ。
俺のトップ、ミドル、ラストノートの香りと、この俺が遺した花の香りを混ぜ合わせて、世界で一番切なくて、世界で一番温かい、俺たちの香水を完成させてほしい。
君が作ってくれた最高の香水を纏って、俺は次の新しい世界へ行きたいんだ。
俺の人生の最後に、最高の香りをまとわせてくれて、本当にありがとう。
世界一の調香師、香織へ。
大好きな君の未来が、どうか輝かしいものでありますように。
ハルトより』
「ハルトの、ばか……っ、本当に、大ばか者だよ……っ!!」
手紙を抱きしめたまま、私は声を上げて激しく泣き崩れた。
ボロボロと溢れ落ちる大粒の涙が、便箋の表面を濡らし、彼の真っ直ぐな名前の文字をどこまでも滲ませていく。
彼は最初から、すべての答えを、すべての真実をその手に握りしめたまま、私の前に現れたのだ。
調香師としての第一歩を歩み出した私の背中を、最後にその命を賭して強く押すために。
そして、自分という存在がこの世界から跡形もなく消え去ってしまった後の世界でも、私が絶望に立ち止まることなく、前を向いて生きていけるように。
彼は最期の瞬間まで、私を一途に想い、守り続けるための、あまりにも優しすぎる嘘をつき通したのだ。
「……泣かない。もう、絶対に泣かないからね、ハルト」
私はワンピースの袖で手荒に涙を拭うと、張り裂けそうな胸の痛みを必死に抑え込み、冷たいフランス製の精密天秤の前に毅然と立ち上がった。
小指の先ほどの小さな古いガラス瓶から、ハルトが24年の人生の最後に遺してくれた、きらきらと輝く黄金色のエキスを、慎重にスポイトで吸い上げる。
そして、これまでの数ヶ月間で、私の鼻がハルトの身体から記憶し、夜通し工房で再現してきた『トップ』『ミドル』『ラスト』の3つの香料ベース。
それらを、ハルトの遺した黄金の一滴と、静かに、厳かに掛け合わせた。
ガラス棒を握る私の指先は、もう震えていなかった。
理化学ガラスのフラスコの中で、私がハルトの肉体からサンプリングし続けた『トップ』『ミドル』『ラスト』の三つの時間軸、そしてハルトが庭の隅で守り続けてくれた黄金のエキスが、静かに、円を描くようにして混ざり合っていく。
異なる分子構造を持った液体たちが互いを侵食し、やがて光の加減によって琥珀(こはく)色にも、淡いエメラルドグリーンにも見える、不思議な透明感を持った一滴の完成へと至る。
私はそれを、真新しいクリスタル製のアトマイザーへと慎重に移し替えた。
カチャリ、と金属製のスプレーノズルを締め直す音が、静まり返った工房に小さく響く。
私は目を閉じ、アトマイザーを正面上方に向け、思い切ってプッシュを押し込んだ。
シュッ――――。
細かな霧状の粒子が、西麻布の夕闇に沈む工房の空気の中へと、一斉に解き放たれる。
その瞬間。
私の鼻腔を、そして十二畳の空間のすべてを埋め尽くしたのは、ただの懐かしい「思い出の再現」などという安易な言葉では到底表現しきれない、圧倒的な『生命の叙事詩』だった。
最初に弾けたのは、あの夏の日の太陽をそのまま閉じ込めたかのような、眩しいほどに鮮烈なシトラスの奔流。ライムの尖った苦味と、夕立がアスファルトを叩いた瞬間の、あのヒリつくような胸を掻き毟るトップノート。
けれどその鋭さは、次の瞬間には、激しい雨の上がった深い森の奥へと私を誘うように、優しく、深く、濡れたシダーウッドと湿った土の匂いを持つ、どこか落ち着いたミドルノートへと鮮やかに変貌していく。
そして最後に、役目を終えた暖炉の残り火のように、あるいは漆黒の夜空がすべてを優しく包み込むかのように、どこまでも重く、温かいラストノートが、毛布のように私の身体を包み込んだ。
そして――それらの三つの螺旋(らせん)の隙間を縫うようにして、秘密基地の裏山にひっそりと咲いていた、あの甘く、少し切ない白い花の香りが、完璧な調和(ハーモニー)を持って鳴り響いていた。
それは、ハルトという人間がこの世界に存在した、24年の人生そのものの匂いだった。
彼が私という一人の女の子のために、人生のすべての時間を使って紡ぎ出してくれた、無償の愛の、完璧な結晶だった。
「――かおり」
ふっと、空耳のような幻聴が、耳の奥で優しく響いた気がした。
驚いて目を開けると、夕闇の向こう、アンティーク窓から差し込む最後の残光の中に、あの少し色の褪せたデニムジャケットを着たハルトが立っていた。
少し癖のある黒髪を揺らし、その深い鳶(とび)色の瞳を優しく細めて、あの頃と全く変わらない、まぶしいほどの満面の笑顔で、私を見つめている。
私は息を呑み、その幻影に向かって、そっと両手を伸ばした。
その瞬間、閉め切っていたはずの工房の窓から、まるでハルトが最後に私の髪を指先で優しく撫でて通り過ぎたかのように、ひんやりとした、でも温かい不思議な風が吹き抜けた。
風が彼の輪郭をさらっていき、光の粒子とともに、ハルトの姿はゆっくりと夜の帳(とばり)の中へと溶けて消えていく。
けれど、私の胸の奥には、確かな体温と、世界で一番いい匂いが、消えない消印のように刻まれていた。
「できたよ、ハルト……。世界で、いちばんいい匂い……」
私はアトマイザーを両手で強く、強く胸に抱きしめた。
涙はもう出なかった。
窓を大きく開け放つと、そこには秋の澄み切った、どこまでも高い夜空が、満天の星を従えて広がっていた。
ハルトの肉体は、もうこの世界のどこを探しても存在しない。
けれど、私がこのアトマイザーをひと吹きすれば、ハルトはいつだって私の隣で、あの眩しい笑顔のまま、私の記憶の中で、香りの分子の中で生き続ける。
ハルトが遺してくれたこの「最高の香り」を胸いっぱいに吸い込み、私は手の甲で最後の名残を拭うと、彼が守ってくれた未来の待つ、新しい季節へと、強く一歩を踏み出した。
こんにちはm a iです!
少し長かったから、挨拶遅れちゃった💦
皆様、私、目から汗が…
同じ怪奇現象が起きている方は、『怪奇現象😭』とコメントくださいぃー😭
また、こんどー!
あの冷たい雨の夜、工房で交わした最後の約束を置き去りにするようにして、彼の生命の灯火は静かに、誰の手にも届かない場所へと消えていった。
葬儀の日の西麻布は、まるで彼のラストノートを世界中から洗い流してしまおうとするかのように、激しい土砂降りの雨が街を白く煙らせていた。火葬場の煙突から立ち上る、何も匂わない煙を、私はただ傘も差さずに見つめていた。調香師として、彼の死を「匂いの喪失」というあまりにも冷酷な事実として突きつけられた一週間だった。
そして、初秋の高く澄み切った青空が広がる、ある日の夕暮れ時。
あの眩しかった夏の面影は、街のあちこちからすっかり消え失せていた。
主のいなくなってしまった病院の病室の片付けを、ようやくすべて終えたというハルトのお母さんが、西麻布の路地裏にある私の工房へと、静かに足を運んでくれた。
カラン、とドアベルが鳴る。その音は、あの日ハルトが車椅子で入ってきたときの重苦しい音とは違い、どこか哀愁を帯びて響いた。
お母さんの目は、この一週間で何度涙を流したのか分からないほどに赤く、痛々しく腫れ上がっていた。けれど、その表情にはどこか、大仕事を終えた後のような穏やかな微笑みが浮かんでいた。
お母さんは、自身の細い両手で、小さな、丁寧に磨かれた白い木箱を、まるで壊れやすい赤ん坊でも抱くかのように大切そうに胸に抱きしめていた。
「香織ちゃん……これね、ハルトが『自分がもしものときは、何よりも一番に、香織に渡してほしい』って、ずっとベッドの脇のセーフティボックスに置いていたものなの。……あの子の最後のワガママだと思って、受け取ってあげて」
「おばさん……ありがとうございます……っ」
木箱を受け取った瞬間、私の指先へと伝わってきたのは、ハルトが遺していったあの『ミドルノート』の、微かな、けれど確かな幻影だった。
雨が上がったばかりの深い森の奥のような、濡れたシダーウッドと湿った土が混ざり合う、どこか懐かしくて、どうしようもなく温かいハルトの本質の匂い。それが、木箱の繊維の隙間に、じっとりと染み付いていたのだ。
それだけで、私の視界は再び熱いもので歪みそうになった。
お母さんを近くの駅の改札まで見送り、一人きりになった工房へ戻ると、私は内側から重い鍵をパチリと閉めた。
夕闇が部屋の四隅からじわじわと音もなく侵食していく中、私は作業デスクの椅子に深く腰掛けた。
静まり返った工房で、空調の低いノイズだけが響いている。私は震える指先を白い木箱の蓋へと掛け、息を止めるようにして、ゆっくりとそれを開けた。
中に入っていたのは、綺麗に四つ折りに畳まれた、少し厚手の便箋に書かれた一枚の手紙。
そして、その手紙の下に隠されていた「それ」を見た瞬間、私は喉の奥で小さく息を呑んだ。
それは、見覚えのある、茶色く変色した古いラベルのガラス瓶だった。
中学生に上がる前の最後の夏休みに、私とハルトが汗だくになりながら裏山で作った、あの世界で最初の、不恰好な香水のボトル。
ハルトが「もう世界中のどこにも材料がない」と言っていた、あの約束の瓶。
だけど、あの夜にハルトがカウンターに置いたときと、一つだけ、決定的に違っているところがあった。
空っぽで、エタノールが気化して久しかったはずのそのボトルの底に、ほんの数滴だけ、夕暮れの光を浴びて怪しく、美しくきらめく、透き通った黄金色の液体が残されていたのだ。
私は、涙が溢れて手紙の文字が見えなくなるのを必死で堪えながら、ハルトの手紙を丁寧に広げた。
そこには、少し掠れていて、でも一文字一文字に強い力が込められた、ハルトの真っ直ぐな筆跡が、紙の上に踊っていた。
涙で視界が激しく歪み、文字の輪郭が滲んで溶けてしまいそうになるのを、私は白衣の袖で何度も何度も乱暴に拭った。
丁寧に折り畳まれていた少し厚手の便箋を、壊れ物を扱うように両手で広げる。
そこに並んでいたのは、少し掠れていて、男の子らしい歪さがありながらも、一文字一文字にハルトの真っ直ぐな魂が込められた、愛おしい直筆の筆跡だった。
呼吸をすることさえ忘れて、私はハルトが遺した最後の言葉に、その網膜を滑らせていった。
『香織へ。
この手紙を読んでいるってことは、俺のラストノート、ちゃんと香織の鼻に届いたかな。
世界一の調香師を名乗る君のことだから、きっと俺が工房に入った瞬間に、すべてを見抜いて、裏で一人で泣いていたんだろうね。
寂しい思いをさせていたら、本当にごめん。でも、どうしても最後に、もう一度だけ君の顔が見たかったんだ。
最初に、ずっと君に嘘をついていたことを謝らなくちゃいけない。
俺ね、あの最後の夏休みに、二人で裏山の秘密基地で作った香水の匂い、本当はちゃんと覚えてたんだよ。
忘れたことなんて、一回もなかった。
君が汗だくになりながら乳鉢をすり潰していた姿も、出来上がった濁った緑色の液体を宝物みたいに俺に差し出してくれたときの誇らしげな笑顔も、全部、俺の脳のなかに完璧に記憶されていたんだ。
それとね、香織。あの裏山の白い花、実は絶滅なんてしてないんだよ。
中学校を卒業したあと、あの裏山が四角いコンクリートの住宅地として開発されるって決まったとき、俺はどうしても、君との大切な思い出をこの世界から消し去りたくなかった。
だから、大型の重機が山に入る前日の夜、俺は一人でこっそり裏山に忍び込んで、スコップで数株だけ、あの白い花の根を掘り起こしたんだ。
それを自宅の庭の、陽当たりの悪い、誰の目にも留まらない隅っこに植え替えて、ハルトのお母さんにも内緒で、毎日、毎日、水をやり続けていたんだよ。
ハーブみたいに強い生命力を持った花だったから、俺の拙い世話でも、毎年夏になると、あの頃と全く同じ、甘くて、少し切ない匂いの白い花を咲かせてくれていたんだ。
俺が倒れて、もう学校にも行けなくなって、病室の窓からしか空を見上げられなくなった長い年月も、その花だけは、毎年欠かさずに俺のためにあの夏の匂いを届けてくれていた。
この瓶の底に残されている黄金色の液体は、俺がその花を摘んで、君のやり方を見よう見まねで真似して、エタノールに浸して、一生懸命に抽出した本物の『あの夏の匂い』のエキスです。
これが、君がずっと探していた、処方箋(レシピ)を繋ぐための、最後のピース。
香織、お願いがあるんだ。
俺のトップ、ミドル、ラストノートの香りと、この俺が遺した花の香りを混ぜ合わせて、世界で一番切なくて、世界で一番温かい、俺たちの香水を完成させてほしい。
君が作ってくれた最高の香水を纏って、俺は次の新しい世界へ行きたいんだ。
俺の人生の最後に、最高の香りをまとわせてくれて、本当にありがとう。
世界一の調香師、香織へ。
大好きな君の未来が、どうか輝かしいものでありますように。
ハルトより』
「ハルトの、ばか……っ、本当に、大ばか者だよ……っ!!」
手紙を抱きしめたまま、私は声を上げて激しく泣き崩れた。
ボロボロと溢れ落ちる大粒の涙が、便箋の表面を濡らし、彼の真っ直ぐな名前の文字をどこまでも滲ませていく。
彼は最初から、すべての答えを、すべての真実をその手に握りしめたまま、私の前に現れたのだ。
調香師としての第一歩を歩み出した私の背中を、最後にその命を賭して強く押すために。
そして、自分という存在がこの世界から跡形もなく消え去ってしまった後の世界でも、私が絶望に立ち止まることなく、前を向いて生きていけるように。
彼は最期の瞬間まで、私を一途に想い、守り続けるための、あまりにも優しすぎる嘘をつき通したのだ。
「……泣かない。もう、絶対に泣かないからね、ハルト」
私はワンピースの袖で手荒に涙を拭うと、張り裂けそうな胸の痛みを必死に抑え込み、冷たいフランス製の精密天秤の前に毅然と立ち上がった。
小指の先ほどの小さな古いガラス瓶から、ハルトが24年の人生の最後に遺してくれた、きらきらと輝く黄金色のエキスを、慎重にスポイトで吸い上げる。
そして、これまでの数ヶ月間で、私の鼻がハルトの身体から記憶し、夜通し工房で再現してきた『トップ』『ミドル』『ラスト』の3つの香料ベース。
それらを、ハルトの遺した黄金の一滴と、静かに、厳かに掛け合わせた。
ガラス棒を握る私の指先は、もう震えていなかった。
理化学ガラスのフラスコの中で、私がハルトの肉体からサンプリングし続けた『トップ』『ミドル』『ラスト』の三つの時間軸、そしてハルトが庭の隅で守り続けてくれた黄金のエキスが、静かに、円を描くようにして混ざり合っていく。
異なる分子構造を持った液体たちが互いを侵食し、やがて光の加減によって琥珀(こはく)色にも、淡いエメラルドグリーンにも見える、不思議な透明感を持った一滴の完成へと至る。
私はそれを、真新しいクリスタル製のアトマイザーへと慎重に移し替えた。
カチャリ、と金属製のスプレーノズルを締め直す音が、静まり返った工房に小さく響く。
私は目を閉じ、アトマイザーを正面上方に向け、思い切ってプッシュを押し込んだ。
シュッ――――。
細かな霧状の粒子が、西麻布の夕闇に沈む工房の空気の中へと、一斉に解き放たれる。
その瞬間。
私の鼻腔を、そして十二畳の空間のすべてを埋め尽くしたのは、ただの懐かしい「思い出の再現」などという安易な言葉では到底表現しきれない、圧倒的な『生命の叙事詩』だった。
最初に弾けたのは、あの夏の日の太陽をそのまま閉じ込めたかのような、眩しいほどに鮮烈なシトラスの奔流。ライムの尖った苦味と、夕立がアスファルトを叩いた瞬間の、あのヒリつくような胸を掻き毟るトップノート。
けれどその鋭さは、次の瞬間には、激しい雨の上がった深い森の奥へと私を誘うように、優しく、深く、濡れたシダーウッドと湿った土の匂いを持つ、どこか落ち着いたミドルノートへと鮮やかに変貌していく。
そして最後に、役目を終えた暖炉の残り火のように、あるいは漆黒の夜空がすべてを優しく包み込むかのように、どこまでも重く、温かいラストノートが、毛布のように私の身体を包み込んだ。
そして――それらの三つの螺旋(らせん)の隙間を縫うようにして、秘密基地の裏山にひっそりと咲いていた、あの甘く、少し切ない白い花の香りが、完璧な調和(ハーモニー)を持って鳴り響いていた。
それは、ハルトという人間がこの世界に存在した、24年の人生そのものの匂いだった。
彼が私という一人の女の子のために、人生のすべての時間を使って紡ぎ出してくれた、無償の愛の、完璧な結晶だった。
「――かおり」
ふっと、空耳のような幻聴が、耳の奥で優しく響いた気がした。
驚いて目を開けると、夕闇の向こう、アンティーク窓から差し込む最後の残光の中に、あの少し色の褪せたデニムジャケットを着たハルトが立っていた。
少し癖のある黒髪を揺らし、その深い鳶(とび)色の瞳を優しく細めて、あの頃と全く変わらない、まぶしいほどの満面の笑顔で、私を見つめている。
私は息を呑み、その幻影に向かって、そっと両手を伸ばした。
その瞬間、閉め切っていたはずの工房の窓から、まるでハルトが最後に私の髪を指先で優しく撫でて通り過ぎたかのように、ひんやりとした、でも温かい不思議な風が吹き抜けた。
風が彼の輪郭をさらっていき、光の粒子とともに、ハルトの姿はゆっくりと夜の帳(とばり)の中へと溶けて消えていく。
けれど、私の胸の奥には、確かな体温と、世界で一番いい匂いが、消えない消印のように刻まれていた。
「できたよ、ハルト……。世界で、いちばんいい匂い……」
私はアトマイザーを両手で強く、強く胸に抱きしめた。
涙はもう出なかった。
窓を大きく開け放つと、そこには秋の澄み切った、どこまでも高い夜空が、満天の星を従えて広がっていた。
ハルトの肉体は、もうこの世界のどこを探しても存在しない。
けれど、私がこのアトマイザーをひと吹きすれば、ハルトはいつだって私の隣で、あの眩しい笑顔のまま、私の記憶の中で、香りの分子の中で生き続ける。
ハルトが遺してくれたこの「最高の香り」を胸いっぱいに吸い込み、私は手の甲で最後の名残を拭うと、彼が守ってくれた未来の待つ、新しい季節へと、強く一歩を踏み出した。
こんにちはm a iです!
少し長かったから、挨拶遅れちゃった💦
皆様、私、目から汗が…
同じ怪奇現象が起きている方は、『怪奇現象😭』とコメントくださいぃー😭
また、こんどー!


