秋の気配は、優しさなど一切持ち合わせない冷徹さで、西麻布の街を侵食し始めていた。
街路樹のプラタナスの葉は水分を失ってカサカサと黄色く染まり、夜になると工房のアンティーク窓をガタガタと叩く風は、薄い白衣を透過して肌を刺すほどに冷たくなっていった。
あの日の午後、工房の黒い革張りソファで倒れ込むようにして眠った日を境に、ハルトの体調は緩やかな坂道を転がり落ちるのではなく、崖から真っ逆さまに墜落するかのような速さで悪化していった。
一時退院の許可は取り消され、彼は地元の総合病院の、重々しい金属製のドアで仕切られた無機質な病室へと強制的に再入院することになった。
日々低下していく免疫力と、線維化が進む内臓の負担を考慮し、主治医からは非情な「面会謝絶」の通達が下される。
ハルトのお母さんからスマートフォンの短いメッセージでその事実を知らされたとき、私は受話器を握ったまま、自分の呼吸の仕方を忘れてしまったかのように立ち尽くした。
会うことすら、許されない。
彼から直接、その肉体が放つ生命の香気(サンプル)を採取する手段は、これですべて断たれてしまったのだ。
「――まだ、諦めない。絶対に、完成させる」
私は狂ったように、西麻布の工房の調香デスクにしがみつき続けた。
誰もいない静まり返った室内で、室温と湿度を一定に保つ空調のノイズだけが響く中、私はまるで何かに取り憑かれたかのような手付きでガラス棒を動かし、フラスコを振り続けていた。
ハルトのミドルノートから採取した、あの雨上がりの深い森を思わせる、濡れたシダーウッドの精油。
そこに、私の記憶の底に沈んでいる、あの十四年前の夏の裏山の匂いを掛け合わせる。
けれど、何かが決定的に足りなかった。
二つの異なる時代の記憶、二つの異なる香りの分子を繋ぎ止めるための、触媒となるべき「最後のピース」が、どれだけ配合を変えても、霧の向こうに隠れたように見つからないのだ。
これまでに作った試作品のサンプル瓶は、すでに調香デスクの上を埋め尽くし、床に散らばった失敗作のムエットは、まるで秋の枯れ葉のように私の足元を白く覆い尽くしていた。
「どうして……どうして混ざり合わないの……っ!」
徹夜の連続で赤く充血した目で、私はガラス棒を大理石のデスクに叩きつけた。カチンと高い音が響き、ガラスの先端が微かに欠ける。
どれほど優れた嗅覚を持っていても、どれほど精密な天秤(スケール)でミリグラム単位の調香を行っても、ベースとなる天然の植物がこの世界から消え去っている以上、私の調香はどこまでいっても「ハルトの記憶」のパッチワーク、不完全なイミテーションでしかなかった。
焦燥感と睡眠不足で、頭の芯が狂ってしまいそうになっていた、ある激しい冷たい雨が窓を叩く夜のことだった。
深夜の一時を回った頃、デスクの端に置いていた私のスマートフォンが、短い震え声をあげた。
画面に表示されたのは、液晶の眩しい光の中に浮かび上がる、待ち焦がれていた四文字の名前。
『香織、ごめん。最後に一回だけ、君の工房に行ってもいいかな』
そのメッセージを見た瞬間、私は白衣を翻し、鍵をかけるのも忘れて階段を駆け下りようとしていた。
それが、ハルトが厳重な病院の目を盗み、あるいはすべてを察したお母さんの手引きによって病室を抜け出し、私の元へとやってきた、本当に最後の夜になった。
カラン……と、今にも泣き出しそうな、力ない音を立てて真鍮のドアベルが揺れる。
看護師であるお母さんに背後から車椅子を押され、工房の入り口に姿を現したハルトを見て、私は危うく悲鳴をあげそうになるのを、自分の両手で口を覆って必死に堪えた。
夏の、あの海の見える坂道で見せた眩しさが、まるですべて幻であったかのように、車椅子に腰掛ける彼の身体は小さく、痛々しいほどに痩せ細っていた。
デニムジャケットの袖から覗く手首には、無数の点滴の針の跡が青白く残り、鼻には酸素を供給するための細いプラスチックのチューブが繋がれている。
けれど、何よりも私の心を一瞬にして絶望の底へと叩き潰したのは、視覚的な衰えではなかった。
彼の小さくなった身体から、部屋の空気へとじわじわと、けれど確実に浸透していく、その『匂い』だった。
深く、静かで、どこか冬の訪れを予感させる毛布のように温かい。
けれど、すべての役目を終えた暖炉の残り火が、静かに、静かに白い灰へと還っていくときのような――あるいは、夕暮れの茜色が完全に漆黒の夜空へと溶けていく瞬間の、あのどうしようもなく切ない、冷ややかな空気の匂い。
(ラストノートだ……)
涙が、一瞬にして私の視界をすべて奪い去った。
間違えるはずがなかった。これが、人間がこの世界に残していく、最後の最後の残り香。
この香りが消え去るとき、ハルトという存在そのものが、この世界から永遠に失われるのだということを、私の鼻が、科学的な厳密さをもって私に理解させてしまった。
「香織、そんな顔で泣かないでよ。せっかく、君の顔を見にきたのにさ」
ハルトは車椅子の上で、掠れた、でも驚くほど優しい声を絞り出し、弱々しく右手を伸ばした。
そして、私の頬を伝い落ちる熱い涙を、彼の親指の腹でそっと拭った。
その手のひらは、あの夏の夜のお祭りのときよりも、さらに、驚くほど冷たくなっていた。
こんにちはm a iです!
野いちご🍓書きすぎて目が充血!
皆様も休養することをオススメします⭐️
また、こんど〜🥱!
街路樹のプラタナスの葉は水分を失ってカサカサと黄色く染まり、夜になると工房のアンティーク窓をガタガタと叩く風は、薄い白衣を透過して肌を刺すほどに冷たくなっていった。
あの日の午後、工房の黒い革張りソファで倒れ込むようにして眠った日を境に、ハルトの体調は緩やかな坂道を転がり落ちるのではなく、崖から真っ逆さまに墜落するかのような速さで悪化していった。
一時退院の許可は取り消され、彼は地元の総合病院の、重々しい金属製のドアで仕切られた無機質な病室へと強制的に再入院することになった。
日々低下していく免疫力と、線維化が進む内臓の負担を考慮し、主治医からは非情な「面会謝絶」の通達が下される。
ハルトのお母さんからスマートフォンの短いメッセージでその事実を知らされたとき、私は受話器を握ったまま、自分の呼吸の仕方を忘れてしまったかのように立ち尽くした。
会うことすら、許されない。
彼から直接、その肉体が放つ生命の香気(サンプル)を採取する手段は、これですべて断たれてしまったのだ。
「――まだ、諦めない。絶対に、完成させる」
私は狂ったように、西麻布の工房の調香デスクにしがみつき続けた。
誰もいない静まり返った室内で、室温と湿度を一定に保つ空調のノイズだけが響く中、私はまるで何かに取り憑かれたかのような手付きでガラス棒を動かし、フラスコを振り続けていた。
ハルトのミドルノートから採取した、あの雨上がりの深い森を思わせる、濡れたシダーウッドの精油。
そこに、私の記憶の底に沈んでいる、あの十四年前の夏の裏山の匂いを掛け合わせる。
けれど、何かが決定的に足りなかった。
二つの異なる時代の記憶、二つの異なる香りの分子を繋ぎ止めるための、触媒となるべき「最後のピース」が、どれだけ配合を変えても、霧の向こうに隠れたように見つからないのだ。
これまでに作った試作品のサンプル瓶は、すでに調香デスクの上を埋め尽くし、床に散らばった失敗作のムエットは、まるで秋の枯れ葉のように私の足元を白く覆い尽くしていた。
「どうして……どうして混ざり合わないの……っ!」
徹夜の連続で赤く充血した目で、私はガラス棒を大理石のデスクに叩きつけた。カチンと高い音が響き、ガラスの先端が微かに欠ける。
どれほど優れた嗅覚を持っていても、どれほど精密な天秤(スケール)でミリグラム単位の調香を行っても、ベースとなる天然の植物がこの世界から消え去っている以上、私の調香はどこまでいっても「ハルトの記憶」のパッチワーク、不完全なイミテーションでしかなかった。
焦燥感と睡眠不足で、頭の芯が狂ってしまいそうになっていた、ある激しい冷たい雨が窓を叩く夜のことだった。
深夜の一時を回った頃、デスクの端に置いていた私のスマートフォンが、短い震え声をあげた。
画面に表示されたのは、液晶の眩しい光の中に浮かび上がる、待ち焦がれていた四文字の名前。
『香織、ごめん。最後に一回だけ、君の工房に行ってもいいかな』
そのメッセージを見た瞬間、私は白衣を翻し、鍵をかけるのも忘れて階段を駆け下りようとしていた。
それが、ハルトが厳重な病院の目を盗み、あるいはすべてを察したお母さんの手引きによって病室を抜け出し、私の元へとやってきた、本当に最後の夜になった。
カラン……と、今にも泣き出しそうな、力ない音を立てて真鍮のドアベルが揺れる。
看護師であるお母さんに背後から車椅子を押され、工房の入り口に姿を現したハルトを見て、私は危うく悲鳴をあげそうになるのを、自分の両手で口を覆って必死に堪えた。
夏の、あの海の見える坂道で見せた眩しさが、まるですべて幻であったかのように、車椅子に腰掛ける彼の身体は小さく、痛々しいほどに痩せ細っていた。
デニムジャケットの袖から覗く手首には、無数の点滴の針の跡が青白く残り、鼻には酸素を供給するための細いプラスチックのチューブが繋がれている。
けれど、何よりも私の心を一瞬にして絶望の底へと叩き潰したのは、視覚的な衰えではなかった。
彼の小さくなった身体から、部屋の空気へとじわじわと、けれど確実に浸透していく、その『匂い』だった。
深く、静かで、どこか冬の訪れを予感させる毛布のように温かい。
けれど、すべての役目を終えた暖炉の残り火が、静かに、静かに白い灰へと還っていくときのような――あるいは、夕暮れの茜色が完全に漆黒の夜空へと溶けていく瞬間の、あのどうしようもなく切ない、冷ややかな空気の匂い。
(ラストノートだ……)
涙が、一瞬にして私の視界をすべて奪い去った。
間違えるはずがなかった。これが、人間がこの世界に残していく、最後の最後の残り香。
この香りが消え去るとき、ハルトという存在そのものが、この世界から永遠に失われるのだということを、私の鼻が、科学的な厳密さをもって私に理解させてしまった。
「香織、そんな顔で泣かないでよ。せっかく、君の顔を見にきたのにさ」
ハルトは車椅子の上で、掠れた、でも驚くほど優しい声を絞り出し、弱々しく右手を伸ばした。
そして、私の頬を伝い落ちる熱い涙を、彼の親指の腹でそっと拭った。
その手のひらは、あの夏の夜のお祭りのときよりも、さらに、驚くほど冷たくなっていた。
こんにちはm a iです!
野いちご🍓書きすぎて目が充血!
皆様も休養することをオススメします⭐️
また、こんど〜🥱!


