『世界の終わりのトップコート』〜嘘つきな君と、私〜

季節はまたひとつ、誰の許可を得ることもなくその歩みを進めようとしていた。
八月も終わりに近づき、夕暮れになると工房のアンティーク窓の外からは、どこか寂しげなツクツクボウシの鳴き声が、途切れ途切れに聞こえてくるようになっていた。アスファルトの照り返しはまだ厳しいものの、通りを吹き抜ける風には、微かに秋の冷ややかな気配が混ざり始めている。
あのお祭りの夜の緊急搬送から数日後、奇跡的に一時退院を許されて以降、ハルトは週に二回、律儀に私の西麻布の工房へと通ってきていた。
私は彼が真鍮のドアを開けるたびに、その静かな呼吸を盗むようにして吸い込み、彼の肌から立ち上る微細な揮発分子を鼻腔の奥で記憶し、あの夏の香水のレシピを修正する日々を送っていた。
天然のライムオイルに、ほんの少しのグリーンノートを足して、あの頃の夕立に濡れたアスファルトのニュアンスを再現する。調香師としての私の技術と経験は、確実にあの夏の約束の香りの外郭へと近づいていた。
けれど、ある火曜日の午後。
カラン、と寂しげに響いた真鍮のドアベルが鳴り、入ってきたハルトをひと目見た瞬間。私の心臓は、バケツで冷たい氷水を頭から浴びせられたように凍りついた。
ハルトの体から、あの眩しかった、弾けるようなシトラスの香りが、跡形もなく消え去っていたのだ。
代わりに工房の張り詰めた空気を満たしたのは、深く、落ち着いていて、どこか優しくて、そして胸が痛くなるほどに切ない匂い。
それは、激しい雨が上がったばかりの、陽の光が届かない深い森の奥を一人で歩いているような、あるいは、湿った土と濡れたシダーウッドが混ざり合うような、静かで、冷ややかな香りだった。
「……ミドルノートに、変わっちゃったんだ」
白衣のポケットの中で、私の指先が激しく震えた。シリンジを握る手が強張る。
あのまばゆいトップノートが終わるのに、一ヶ月もかからなかった。
調香の世界において、そしてこの残酷な死のプロトコルにおいて、『ミドルノート』とは、その人間の本質や、これまでの人生で生きてきた軌跡が最も強く表れる、人生の「中盤」を意味する香りだ。
そして、これが始まったということは、この香りが消え去った次に来るのは、本当に最後の、終わりの香り――『ラストノート』であるということを、私の優秀すぎる嗅覚が残酷に告げていた。
ハルトの容姿の衰えもまた、香りの変化と完全に同期していた。
以前のデートのときよりも明らかに身体の線は細くなり、いつも着ていたデニムジャケットが、まるで他人の服であるかのように彼の肩からぶかぶかと不自然に余っている。
歩行の足取りはどこか引き摺るように重く、すっと通っていた鼻梁の周りには、色濃い疲労の影が張り付いていた。
それでもハルトは、私の硬直と絶望に気づかないまま、いつもより少しだけ青白い唇を歪めて、力なく笑ってみせた。
「よお、香織。なんか今日、やけに身体が重くてさ。調香の作業の前に、少しだけここで横にならせてもらってもいいか?」
「え……? うん、もちろん。あっちの革のソファを使って。ブランケットも持ってくるから」
「サンキュ」
ハルトは低く、掠れた声で呟き、ふらつく足取りで工房の奥にある三人掛けの黒い革張りソファに身体を埋めた。
彼が目を閉じると、いつもよりずっと浅く、胸の喘鳴(ぜんめい)が微かに混ざった苦しげな寝息が、静まり返った工房に響き始める。
私は吸い寄せられるように、音を立てないよう細心の注意を払いながら、眠るハルトの傍らへと歩み寄った。
ソファの横にそっと膝をつき、彼の無防備な寝顔をじっと見つめる。
額にはうっすらと脂汗が浮かび、長い睫毛の影が、痩せて削げてしまった頬に黒い陰影を落としていた。
彼の皮膚から立ち上るミドルノートの香りが、部屋の静寂の中に静かに、じわじわと満ちていく。
私はその香りを、胸の奥深くへと吸い込んだ。
(ああ、これは……ハルトの、優しさそのものの匂いだ)
自分の命の限界を誰よりも正確に知りながらも、残される私を傷つけないように道化を演じ、最期まで誰かを守りたがっている、私の大好きなハルトの、魂の本質の匂い。
「ハルト……」
名前を呼ぶだけで、視界がジワリと熱い涙で滲んでいく。
どうして、世界一の調香師を目指して過酷な修行を耐え抜いてきた私が、一番大切な人の命を繋ぎ止める香水を作れないのだろう。
私のこの手にあるのは、彼の『死』に向かう秒針を、ただ正確に秒読みしていくだけの、残酷で悪趣味な嗅覚だけだった。
そのとき、ハルトが寝返りを打とうとして微かに身じろぎした拍子に、彼のデニムジャケットのポケットから、あの古びた空の香水瓶が、床へ向かって転がり落ちた。
カーペットの上にトスンと静かに落ちた、茶色く変色したラベルの小さなガラス瓶。
私はそれを、世界で一番壊れやすい結晶を扱うように、震える手でそっと拾い上げた。
(泣かないって、お祭りの夜に決めたのに。ハルトの前では、彼が嘘をつき通そうとしているなら、私は最後まで騙された振りのまま、プロの調香師でいるって……)
一滴の熱い涙が私の目からこぼれ落ち、拾い上げたガラス瓶の表面を濡らした。
私はハルトのミドルノート――濡れたシダーウッドの香りを深く、深く脳の記憶領域にサンプリングし、自分の涙を白衣の袖で手荒に拭うと、再び天秤のある調香デスクへと向かった。
彼の命が、その香りが、この世界から跡形もなく消え去ってしまう前に。私は一秒でも、一刻でも早く、あの約束の香水を完成させなければならなかった。
デスクの上に並べたシダーウッド・アトラス、オークモス、そして湿った大地を表現するためのベチバーの精油。
私はスポイトのゴムを握る指先に全神経を集中させ、ハルトの『今』をガラス瓶の中に閉じ込めるための、孤独な戦いを再開した。


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ミドルに変わってしまった…ハルト…
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