「大丈夫ですか、ミレイユ様。」
アルバートは遠くに目を向けている。まだいるのだろうか。自分を追いかけてきた黒い人物が。
「寄り道は控えるようにとお伝えしたはずです。」
ミレイユは何も言えなかった。アルバートは何度も忠告してくれていた。そのたびに、見たい店がある、慣れているから平気だなどと言っていたけれど、こうした危険があるという意味だったのだ。
「次からは寄り道をしないでください。言ってくだされば、同行しますから。」
「……うん。」
ミレイユは足元を見つめた。腫れてはいないようだけど、じんじんと痛む。
「まったく、足を怪我するなんて。治らなかったらどうするのですか。」
婚約者になった令嬢は、舞踏会でクラディスと踊る決まりがある。もし治らなかったら踊ることができない。不安に思っていると、アルバートはミレイユをひょいと抱き上げた。
「屋敷へお送りします。」
「待って、アルバート!これはやめて!」
抱っこされて帰るなんて子どもみたいだ。降ろしてくれと言おうとしたが、足が痛くて歩けるように思えない。
「動かないでください。踊れなくなっては大変です。」
ミレイユはどうしようもなくなって、持っていた本で顔を隠した。
♢♢♢
危険な目に遭って足を怪我したことが知られたら、外出を制限されてしまう。ミレイユは見つからないよう静かに屋敷へ戻り、こそこそと手当てをした。
(早く治りますように。)
舞踏会までには治ってほしい。願いを込めて包帯を巻き終えると、使った救急箱を片付けるため、さながらスパイのように音を立てずに廊下を進んだ。すると、
「俺たちを見捨てるのですか!」
突然大きな声が聞こえてきて、救急箱を落としそうになってしまった。
「そんなのあんまりだ!」
「私たちは不要だというのですか!」
客間では領民たちの会合が開かれている。いつもは穏やかなのに、今日は騒がしい。ミレイユは少しだけ扉を開いて聞き耳を立てた。
「他の場所で一から始めるなんて無理です。」
「俺たちの生活はどうなるんですか。」
領民たちが父に詰め寄っている。どうやら父は、領民たちに移転を求めているようだ。
(うちの領地も整理するってことよね……)
領民に農地の移転と引っ越しを求めているのは、クラディスが進める事業の影響だろう。
(でも、どうしてこんなことするのかな。)
突然住み慣れた場所から引っ越すように言われたら、誰しも反発するものだ。反対されるのは目に見えているのに、なぜこの事業を進めているのか。
「国は俺たちから土地を奪う気だ。」
「俺たちを追い出そうとしてるに違いない。」
クラディスが土地を奪ったり、追い出したりするはずがない。この事業は国のためになるはずだ。けれど、領民たちが引っ越さなくてはいけない理由を知らない。
(聞いてみよう。)
クラディスはどうしてこの事業を進めるのか、なぜ領民たちは引っ越さなくてはならないのか。その理由を伝えれば、理解してもらえる。クラディスが間違った判断をするはずがないのだから。
次の日、ミレイユはクラディスの執務室を訪れた。
「入れ。」
相変わらず気だるげな声がして扉を開くと、クラディスは窓際に立って本を読んでいた。
「何の用だ。」
「クラディス様が行っている土地を整理する事業について教えてください。」
「お前には関係ない。」
「しかし、昨日領地の方々がいらして……」
クラディスは本をパタンと閉じて、棚に戻した。
「帰れ。寄り道はするな。」
クラディスはそれだけ言い残して出て行ってしまった。
「……」
クラディスがそっけないのは今に始まったことではない。聞いても答えてくれなかったことはこれまでもある。だけど、さすがに泣きそうだ。
(助けになるかなって、思っただけなのに……)
クラディスが進める事業が自分には関係ないことも、首を突っ込んだら迷惑なこともわかっている。だけど、少しくらい教えてくれてもいいのに。
涙が出そうになって顔を上げると、一冊の本が目に留まった。昨日、本屋で見た本と同じ題名だ。
「もう、勝手に借りちゃうから!」
ミレイユは本棚から本を引き抜いた。しかし手元でよく見ると、本屋で見た本より古い本だった。
「いいわ、同じ題名だし。借りちゃお。」
すっかり涙が引いて執務室を出ると、アルバートが壁に寄りかかっていた。
「どうしたの?アルバート。」
「どうしたもこうしたもありません。怪我をされておられるのに、なぜ出歩くのですか!」
ミレイユの顔が引きつった。
「も、もう治ったから……」
誤魔化そうとすると、アルバートに顔を覗き込まれた。
「もしや、言っていないのですか?」
「へっ?」
「怪我をしたことを屋敷の方に言っていないんですね?」
「だ、だって、大丈夫だもの!」
「途中で降ろせと言うからおかしいと思ったんです。そういうことでしたか。では帰りましょう、ミレイユ様。」
アルバートは当たり前のようにミレイユを担ぎ上げた。
「やめてアルバート!歩ける!歩けるから!」
「ミレイユ様が私に担がれているところなど、皆見慣れています。怪我が悪化したら困るのです。」
ミレイユはアルバートによって部屋に運び込まれた。
(何もできなくなっちゃったな……)
アルバートが使用人に事情を説明したため、屋敷の監視が強くなってしまった。足には大げさなほど包帯が巻かれている。
ミレイユはクラディスの執務室から拝借した本を手に取った。それは『子どもの教育と未来』という本。
ミレイユの屋敷では、先日のように領民たちが集まる会合が定期的に開かれている。ミレイユがまだ幼かった頃、会合に子どもを連れて来た母親がいた。
母親と手を繋ぐ少年は、ミレイユより少し小さかった。
「お母様を待っている間、一緒に本を読みましょうよ。」
素直な気持ちで声をかけた。ミレイユの言葉を聞いて彼は嬉しそうに目を輝かせたが、隣に立つ母親は困った顔をした。
「ありがとうございます、ミレイユ様。でも、うちの子は字が読めないんです。」
ミレイユは、字が読めない子どもがいることを初めて知った。
「母さん、僕も本を読みたい。ミレイユ様と一緒に読む!」
「でもミゲルは読めないでしょう?」
「でも一緒に読もうって言ってくれてるよ?」
ミゲルは本を読みたいと駄々をこね出した。ミゲルは字が読めなくても本を読みたいと言っている。それなら教えてあげればいい。
「私が教えてあげる!一緒に読みましょう。」
ミゲルが嬉しそうに飛び跳ねたので、母親は根負けしてミレイユに頭を下げた。それ以来、ミレイユはミゲルが来るたびに一緒に本を読んだ。
ミレイユが文字の読み方を教えていることはすぐに噂になった。そのうち字の書き方も教えるようになり、父から教室を開くことを提案された。
今は領地にある小さな小屋で、定期的に教室を開いている。先生となったミレイユが読むのは、教育に関する本ばかり。
「そうだ……ホランさんに聞いてみよう。」
ミゲルの父親のホランも会合に参加していた。しかし他の領民たちと違って反発しているようには見えなかった。領地に長く住んでいるホランは、この事業に関して何か知っているのかもしれない。
足の痛みが引いた頃、ミレイユは密かにホランの家へ向かう準備を進めていた。ホランの家までは馬に乗ればすぐだけれど、見つかったら止められてしまう。
ミレイユはそっと屋敷を抜け出して厩舎へ向かった。ところが、
「ごきげんよう、ミレイユ様。」
なぜかアルバートが立っていた。
「どっ、どうしてここにいるの!?」
「公爵と打ち合わせをしていたんです。それより、どちらへ行かれるのです?そんな格好で。」
「ちょっとお散歩に行こうかな〜と思って。」
「馬乗りの格好をして、ですか?」
ミレイユは顔をしかめた。
「ご一緒いたします。またお怪我をされたら困りますからね。しっかり見張ってくれと頼まれたところなんです。」
アルバートと父の打ち合わせは、自分の護衛についてだったのかもしれない。笑顔のアルバートの横で、ミレイユは肩を落とした。
アルバートは遠くに目を向けている。まだいるのだろうか。自分を追いかけてきた黒い人物が。
「寄り道は控えるようにとお伝えしたはずです。」
ミレイユは何も言えなかった。アルバートは何度も忠告してくれていた。そのたびに、見たい店がある、慣れているから平気だなどと言っていたけれど、こうした危険があるという意味だったのだ。
「次からは寄り道をしないでください。言ってくだされば、同行しますから。」
「……うん。」
ミレイユは足元を見つめた。腫れてはいないようだけど、じんじんと痛む。
「まったく、足を怪我するなんて。治らなかったらどうするのですか。」
婚約者になった令嬢は、舞踏会でクラディスと踊る決まりがある。もし治らなかったら踊ることができない。不安に思っていると、アルバートはミレイユをひょいと抱き上げた。
「屋敷へお送りします。」
「待って、アルバート!これはやめて!」
抱っこされて帰るなんて子どもみたいだ。降ろしてくれと言おうとしたが、足が痛くて歩けるように思えない。
「動かないでください。踊れなくなっては大変です。」
ミレイユはどうしようもなくなって、持っていた本で顔を隠した。
♢♢♢
危険な目に遭って足を怪我したことが知られたら、外出を制限されてしまう。ミレイユは見つからないよう静かに屋敷へ戻り、こそこそと手当てをした。
(早く治りますように。)
舞踏会までには治ってほしい。願いを込めて包帯を巻き終えると、使った救急箱を片付けるため、さながらスパイのように音を立てずに廊下を進んだ。すると、
「俺たちを見捨てるのですか!」
突然大きな声が聞こえてきて、救急箱を落としそうになってしまった。
「そんなのあんまりだ!」
「私たちは不要だというのですか!」
客間では領民たちの会合が開かれている。いつもは穏やかなのに、今日は騒がしい。ミレイユは少しだけ扉を開いて聞き耳を立てた。
「他の場所で一から始めるなんて無理です。」
「俺たちの生活はどうなるんですか。」
領民たちが父に詰め寄っている。どうやら父は、領民たちに移転を求めているようだ。
(うちの領地も整理するってことよね……)
領民に農地の移転と引っ越しを求めているのは、クラディスが進める事業の影響だろう。
(でも、どうしてこんなことするのかな。)
突然住み慣れた場所から引っ越すように言われたら、誰しも反発するものだ。反対されるのは目に見えているのに、なぜこの事業を進めているのか。
「国は俺たちから土地を奪う気だ。」
「俺たちを追い出そうとしてるに違いない。」
クラディスが土地を奪ったり、追い出したりするはずがない。この事業は国のためになるはずだ。けれど、領民たちが引っ越さなくてはいけない理由を知らない。
(聞いてみよう。)
クラディスはどうしてこの事業を進めるのか、なぜ領民たちは引っ越さなくてはならないのか。その理由を伝えれば、理解してもらえる。クラディスが間違った判断をするはずがないのだから。
次の日、ミレイユはクラディスの執務室を訪れた。
「入れ。」
相変わらず気だるげな声がして扉を開くと、クラディスは窓際に立って本を読んでいた。
「何の用だ。」
「クラディス様が行っている土地を整理する事業について教えてください。」
「お前には関係ない。」
「しかし、昨日領地の方々がいらして……」
クラディスは本をパタンと閉じて、棚に戻した。
「帰れ。寄り道はするな。」
クラディスはそれだけ言い残して出て行ってしまった。
「……」
クラディスがそっけないのは今に始まったことではない。聞いても答えてくれなかったことはこれまでもある。だけど、さすがに泣きそうだ。
(助けになるかなって、思っただけなのに……)
クラディスが進める事業が自分には関係ないことも、首を突っ込んだら迷惑なこともわかっている。だけど、少しくらい教えてくれてもいいのに。
涙が出そうになって顔を上げると、一冊の本が目に留まった。昨日、本屋で見た本と同じ題名だ。
「もう、勝手に借りちゃうから!」
ミレイユは本棚から本を引き抜いた。しかし手元でよく見ると、本屋で見た本より古い本だった。
「いいわ、同じ題名だし。借りちゃお。」
すっかり涙が引いて執務室を出ると、アルバートが壁に寄りかかっていた。
「どうしたの?アルバート。」
「どうしたもこうしたもありません。怪我をされておられるのに、なぜ出歩くのですか!」
ミレイユの顔が引きつった。
「も、もう治ったから……」
誤魔化そうとすると、アルバートに顔を覗き込まれた。
「もしや、言っていないのですか?」
「へっ?」
「怪我をしたことを屋敷の方に言っていないんですね?」
「だ、だって、大丈夫だもの!」
「途中で降ろせと言うからおかしいと思ったんです。そういうことでしたか。では帰りましょう、ミレイユ様。」
アルバートは当たり前のようにミレイユを担ぎ上げた。
「やめてアルバート!歩ける!歩けるから!」
「ミレイユ様が私に担がれているところなど、皆見慣れています。怪我が悪化したら困るのです。」
ミレイユはアルバートによって部屋に運び込まれた。
(何もできなくなっちゃったな……)
アルバートが使用人に事情を説明したため、屋敷の監視が強くなってしまった。足には大げさなほど包帯が巻かれている。
ミレイユはクラディスの執務室から拝借した本を手に取った。それは『子どもの教育と未来』という本。
ミレイユの屋敷では、先日のように領民たちが集まる会合が定期的に開かれている。ミレイユがまだ幼かった頃、会合に子どもを連れて来た母親がいた。
母親と手を繋ぐ少年は、ミレイユより少し小さかった。
「お母様を待っている間、一緒に本を読みましょうよ。」
素直な気持ちで声をかけた。ミレイユの言葉を聞いて彼は嬉しそうに目を輝かせたが、隣に立つ母親は困った顔をした。
「ありがとうございます、ミレイユ様。でも、うちの子は字が読めないんです。」
ミレイユは、字が読めない子どもがいることを初めて知った。
「母さん、僕も本を読みたい。ミレイユ様と一緒に読む!」
「でもミゲルは読めないでしょう?」
「でも一緒に読もうって言ってくれてるよ?」
ミゲルは本を読みたいと駄々をこね出した。ミゲルは字が読めなくても本を読みたいと言っている。それなら教えてあげればいい。
「私が教えてあげる!一緒に読みましょう。」
ミゲルが嬉しそうに飛び跳ねたので、母親は根負けしてミレイユに頭を下げた。それ以来、ミレイユはミゲルが来るたびに一緒に本を読んだ。
ミレイユが文字の読み方を教えていることはすぐに噂になった。そのうち字の書き方も教えるようになり、父から教室を開くことを提案された。
今は領地にある小さな小屋で、定期的に教室を開いている。先生となったミレイユが読むのは、教育に関する本ばかり。
「そうだ……ホランさんに聞いてみよう。」
ミゲルの父親のホランも会合に参加していた。しかし他の領民たちと違って反発しているようには見えなかった。領地に長く住んでいるホランは、この事業に関して何か知っているのかもしれない。
足の痛みが引いた頃、ミレイユは密かにホランの家へ向かう準備を進めていた。ホランの家までは馬に乗ればすぐだけれど、見つかったら止められてしまう。
ミレイユはそっと屋敷を抜け出して厩舎へ向かった。ところが、
「ごきげんよう、ミレイユ様。」
なぜかアルバートが立っていた。
「どっ、どうしてここにいるの!?」
「公爵と打ち合わせをしていたんです。それより、どちらへ行かれるのです?そんな格好で。」
「ちょっとお散歩に行こうかな〜と思って。」
「馬乗りの格好をして、ですか?」
ミレイユは顔をしかめた。
「ご一緒いたします。またお怪我をされたら困りますからね。しっかり見張ってくれと頼まれたところなんです。」
アルバートと父の打ち合わせは、自分の護衛についてだったのかもしれない。笑顔のアルバートの横で、ミレイユは肩を落とした。



