幼なじみの冷徹な王太子に恋をして

 窓の外で噴水の水しぶきがきらめいている。そろそろクラディスが執務室へ戻ってくる頃だ。ミレイユは本を閉じて棚に戻した。

 すると、扉が開く音がして官僚たちの声が聞こえてきた。ミレイユは体を縮こませて息を潜めた。

「なぁ、お前のところ進んでいるか?」
「急に移転してくれと言われて、すんなり受け入れる人なんていないだろ。なかなか厳しい。」

 現在、王太子クラディスの命で各地の土地を整理する事業が進められている。彼らはその担当なのだろう。

「しかし、油断していたら飛ばされてしまうかもしれない。つい先日も辞令が出たらしいからな。」
「殿下は何を見ておられるかわからない。やるだけやろう。」

 官僚たちが書類をまとめて出ていくと、ミレイユはふっと息を吐き出した。

「大丈夫。話せるわ。」

 ミレイユは小さく呟いて、父から預かった二冊の本を手にした。

 不安なはずなのに、執務室へ向かう足取りは軽い。廊下を進んでいくと、騎士団長アルバートの姿が見えた。

「こんにちは、ミレイユ様。」
「アルバート、クラディス様はお戻りになった?」
「えぇ。執務室にいらっしゃいます。」

 ミレイユは小さくお辞儀をしてアルバートの横を通り過ぎた。執務室が近づくにつれて、ドキドキと胸が高鳴ってくる。扉の前に立ったミレイユは、大きく深呼吸をして扉を叩いた。

「……入れ。」

 中から気だるげな声が聞こえてきて、ミレイユは静かに扉を開いた。机に向かうクラディスは、真剣な眼差しで書類を見ている。

「クラディス様、お父様から預かった本をお持ちしました。」
「……あぁ。」

 クラディスは顔を上げない。ミレイユは執務机に本を置いて、クラディスの端正な横顔をじっと見つめた。美しい金色の髪が陽を浴びて輝いている。

 すると、クラディスの手がぴたりと止まった。

「終わったなら出て行ってくれ。」
「……っ、申し訳ありません。」

 ミレイユは頭を下げてそそくさと執務室を出た。

「はぁ……」

 また話せなかった。アルバートに上の空で挨拶をして、城の廊下をとぼとぼと歩いていく。クラディスに会うために、わざわざ父から本を預かったのに、何も話せなかった。

(大丈夫かな……)

 ミレイユは幼い頃からクラディスを慕い、クラディスと結婚することを夢見てきた。こうして毎日会いに行くのは、クラディスの気を引くために他ならない。

(だめだよね……このままじゃ絶対だめだと思う……!)

 数日後に開かれる舞踏会で、クラディスの婚約者が発表される。今のままでは選ばれない。

「あー、もう!」

 ふと立ち止まったミレイユは、中庭に黄色い花が咲いているのを見つけた。

(あのお花……!)

 幼い頃のクラディスは、城に籠りきりで本ばかり読んでいた。ミレイユはそんなクラディスが退屈なのではないかと思っていた。

「クラディス様、お花を見に行きましょう!向こうの丘に、黄色いお花がたくさん咲いているんですよ!」

 クラディスを元気づけたいと純粋に思っていた。子どもは、なんて怖いもの知らずなのだろう。

 ミレイユはウキウキした気持ちで花畑へ向かったが、クラディスはいつものように本を読んでいた。

「見てください、クラディス様!お花がいっぱいですよ!」

 大げさに手を広げて見せても、クラディスは顔を上げない。その上、

「花は好きではない。」

 冷たく言い放たれてしまった。しかし幼いミレイユは諦めなかった。なんとかしてクラディスに花を見せようと、近くに咲いている黄色い花に手を伸ばした。すると、

「ここにある花は城の花だ。お前の花ではない。」

 ミレイユはひゅっと手を引っ込めた。勝手にお城の花を摘んではいけない。だけど、それではクラディスが元気にならないのではないか。ミレイユの顔は険しくなった。

「クラディス様は、どうしていらしたのですか?お花がお好きではないのに!」

 花が嫌いなら断ってくれれば良かった。ミレイユはクラディスの前に立って、嫌味をぶつけた。

「お前が行きたいと言ったからだ。」

 クラディスの視線は相変わらず本に向いている。口調も冷たい。だけど、ミレイユの心はぐんぐん温かくなっていく。

(私が誘ったから来てくれたんだ!)

 本当は花畑なんて来たくなかったのかもしれない。城で本を読みたかったのかもしれない。でも、クラディスは来てくれた。

 ミレイユはクラディスの隣にぽすんと腰を下ろした。

「なんだ?」
「なんでもありません。ふふ。」

 花を摘まなくたっていい。こっちを見てくれなくても構わない。隣にいるだけでこんなに幸せなのだから。

 ♢♢♢

(なーんてこともあったけど……)

 あの頃の無邪気な子どものままだったら良かったのに。ミレイユはまたため息をついた。

 ミレイユは気晴らしに商店街へ行くことにした。賑やかな街を歩いていると、クラディスと話したくても話せない悶々とした気持ちが晴れていく気がした。

「ミレイユ様!」

 少し先で本屋の店主が手を振っている。

「新しい本が入ったんです。見て行ってください!」
「まぁ、ぜひ見せてください。」

 本屋の店主から紹介された本は、どれも興味をそそるものばかり。ミレイユは、その中の一冊を選んだ。

「また来ますね。」
「いつもありがとうございます!」

 思いがけずいい本が手に入った。満足して本屋を出たミレイユは、次はどの店へ行こうかと辺りを見回した。

「……!」

 ミレイユの身体は小さく震えた。人混みに紛れて真っ黒い服に身を包んだ人物がこちらを見ている。

(お城に戻ろう。)

 視線を動かすが、黒い服を着た人はもういない。見間違いかもしれない。だけど嫌な予感は拭えない。ミレイユは早足で歩いた。しかし、

「ミレイユ様、見て行きませんか?」
「あ、えっと……ぜひ、見せていただくわ。」

 店主たちに次々と声をかけられて、なかなか前に進めない。

「とても素晴らしいわね。今度ゆっくり見せてください。」

 店主と話をしている間も気持ちは焦るばかり。ようやく会話を終えたミレイユは、公爵令嬢らしく優雅な会釈をして店を後にした。

(みんなが見えなくなったら走るわよ。)

 商店街を抜けたミレイユは、一気に駆け出した。

「!?」

 見計らったかのように、背後から足音が近づいてくる。ミレイユは懸命に走った。しかし、

「痛っ……!」

 足首に痛みが走り、思わずしゃがみ込んだ。このままでは捕まってしまう。恐怖で息が詰まりそうになった時、強い力で建物の陰に引き込まれた。

「やめ──っ!?」

 声を上げようとすると、強く抱き締められた。身体を包み込む温もりは、よく知ったものだった。