若葉に蒼生を預け、二人は玲の部屋へ向かった。
就職を機に一人暮らしを始めた玲の部屋は、少し広めの2LDK。本棚には漫画や小説、法律書のほか、楽譜まで並んでいた。
「玲君、本好きなんだ」
「うん」
「楽譜もあるね」
遙花が手に取ったのは、『Over the EDEN』と書かれた手書きの譜面だった。
「ああ、それ。昔、父さんが参加してたバンドの曲。僕も一時期、ピアノを弾いてたんだ」
「そうなんだ。玲君のお父さんって、音楽やってたんだね」
「うん。父方のおばあちゃんが、フランスの有名な音楽一家の出身でさ」
「へえ。どうして日本に?」
「おじいちゃんが失恋して、傷心旅行でパリに行ったとき、レストランでハープを弾いてたおばあちゃんに一目惚れしたんだって」
「うん」
「それで、その場でプロポーズ」
「……は?」
「おばあちゃんも即OKして、そのまま日本に来たらしい」
「何それ」
「僕もそう思う」
玲が笑う。
「おばあちゃんには親が決めた結婚相手がいたらしいんだけど、窮屈な家庭が嫌だったみたい。ほとんど駆け落ちだよ」
「すご……」
遙花は少し考えてから、玲を見た。
「何か、血筋を感じた」
「え? どの辺が?」
「好きになったら一直線なところ」
「ああ……そうかも」
「玲君も、結構大胆だもんね」
「いや、僕はこれでもかなり奥手な方だからね」
「うん。見れば分かる」
「う……何か悔しいな」
「事実じゃん」
遙花が楽しそうに笑う。
「……ねえ、遙花さん」
「何?」
「母さん、蒼生君は一晩預かるから、ゆっくりしてきていいって」
「でも、ご迷惑じゃ……」
「今日は姉ちゃんとその婚約者もいるから、人手には困らないって」
「本当にいいの?」
「うん」
少し迷ってから、遙花が言った。
「じゃあ……泊まっても?」
一瞬、玲の動きが止まった。
「……その方が、嬉しい」
「分かった。でも私、着替えがないから一回取りに行っていい?」
「僕のでよければ貸すけど」
「私、一応女だから」
「あ、うん」
「すぐ戻るね」
遙花が部屋を出る。
ドアが閉まった瞬間、玲はその場に立ち尽くした。
「泊まるって……」
今さら実感が湧いてきた。
「いや、落ち着け」
念のために、準備だけしておく。
何も起こらないかもしれない。それでも。
「……念のため」
自分に言い訳しながら、そっと引き出しを閉じた。
「あ、そうだ」
浴槽にも湯を張っておく。
「……これも念のため」
そのとき。
ガチャッ。
「おまたせ」
「早っ」
「え?」
「あ、いや。お帰り」
危なかった。
玲の心臓が急に騒がしくなる。
「あれ? お風呂」
「ああ。今お湯張ってるから。先に入って」
「玲君からじゃなくて?」
「いやいや。レディーファースト」
「何なら、一緒に入る?」
「へ!?」
玲の顔が一気に赤くなる。
「いや、それは……!」
「冗談よ」
「何だぁ……びっくりした」
「入りたい?」
「いや、ダメ。それは」
「私は構わないけど」
「僕がダメ。多分死ぬ」
「大袈裟」
「いや、大問題」
「何で?」
「いいから、先入ってきて!」
「はいはい」
遙花は楽しそうに浴室へ向かう。
「覗かないでね」
「覗かないよ!」
「ほんとに?」
「さっき一緒に入るとか言ってた人に言われたくない」
「じゃあ今から入る?」
「あとで入る!」
浴室からシャワーの音が聞こえる。
薄い壁一枚を隔てているだけなのに、遙花との距離が急に近くなった気がした。
「……まずいな」
玲はソファに座り込み、頭を抱えた。
「今からこれじゃダメだろ……」
しばらくして、遙花が浴室から出てきた。
「玲君」
「ん?」
振り向いた玲は、思わず視線を逸らした。
「ごめん。着替え一つ忘れた」
「ちょ、あんまり無防備にうろつかないでよ」
「はいはーい」
からかうような声に、玲はますます困る。
こういう状況への免疫が、圧倒的に足りない。
「お風呂ありがとう」
「あ、うん。じゃあ今度は僕入ってくる」
逃げるように浴室へ向かった。
シャワーを浴びながら、嫌でもこのあとのことを考えてしまう。
「……ダメだ」
深呼吸。
「落ち着け、僕」
就職を機に一人暮らしを始めた玲の部屋は、少し広めの2LDK。本棚には漫画や小説、法律書のほか、楽譜まで並んでいた。
「玲君、本好きなんだ」
「うん」
「楽譜もあるね」
遙花が手に取ったのは、『Over the EDEN』と書かれた手書きの譜面だった。
「ああ、それ。昔、父さんが参加してたバンドの曲。僕も一時期、ピアノを弾いてたんだ」
「そうなんだ。玲君のお父さんって、音楽やってたんだね」
「うん。父方のおばあちゃんが、フランスの有名な音楽一家の出身でさ」
「へえ。どうして日本に?」
「おじいちゃんが失恋して、傷心旅行でパリに行ったとき、レストランでハープを弾いてたおばあちゃんに一目惚れしたんだって」
「うん」
「それで、その場でプロポーズ」
「……は?」
「おばあちゃんも即OKして、そのまま日本に来たらしい」
「何それ」
「僕もそう思う」
玲が笑う。
「おばあちゃんには親が決めた結婚相手がいたらしいんだけど、窮屈な家庭が嫌だったみたい。ほとんど駆け落ちだよ」
「すご……」
遙花は少し考えてから、玲を見た。
「何か、血筋を感じた」
「え? どの辺が?」
「好きになったら一直線なところ」
「ああ……そうかも」
「玲君も、結構大胆だもんね」
「いや、僕はこれでもかなり奥手な方だからね」
「うん。見れば分かる」
「う……何か悔しいな」
「事実じゃん」
遙花が楽しそうに笑う。
「……ねえ、遙花さん」
「何?」
「母さん、蒼生君は一晩預かるから、ゆっくりしてきていいって」
「でも、ご迷惑じゃ……」
「今日は姉ちゃんとその婚約者もいるから、人手には困らないって」
「本当にいいの?」
「うん」
少し迷ってから、遙花が言った。
「じゃあ……泊まっても?」
一瞬、玲の動きが止まった。
「……その方が、嬉しい」
「分かった。でも私、着替えがないから一回取りに行っていい?」
「僕のでよければ貸すけど」
「私、一応女だから」
「あ、うん」
「すぐ戻るね」
遙花が部屋を出る。
ドアが閉まった瞬間、玲はその場に立ち尽くした。
「泊まるって……」
今さら実感が湧いてきた。
「いや、落ち着け」
念のために、準備だけしておく。
何も起こらないかもしれない。それでも。
「……念のため」
自分に言い訳しながら、そっと引き出しを閉じた。
「あ、そうだ」
浴槽にも湯を張っておく。
「……これも念のため」
そのとき。
ガチャッ。
「おまたせ」
「早っ」
「え?」
「あ、いや。お帰り」
危なかった。
玲の心臓が急に騒がしくなる。
「あれ? お風呂」
「ああ。今お湯張ってるから。先に入って」
「玲君からじゃなくて?」
「いやいや。レディーファースト」
「何なら、一緒に入る?」
「へ!?」
玲の顔が一気に赤くなる。
「いや、それは……!」
「冗談よ」
「何だぁ……びっくりした」
「入りたい?」
「いや、ダメ。それは」
「私は構わないけど」
「僕がダメ。多分死ぬ」
「大袈裟」
「いや、大問題」
「何で?」
「いいから、先入ってきて!」
「はいはい」
遙花は楽しそうに浴室へ向かう。
「覗かないでね」
「覗かないよ!」
「ほんとに?」
「さっき一緒に入るとか言ってた人に言われたくない」
「じゃあ今から入る?」
「あとで入る!」
浴室からシャワーの音が聞こえる。
薄い壁一枚を隔てているだけなのに、遙花との距離が急に近くなった気がした。
「……まずいな」
玲はソファに座り込み、頭を抱えた。
「今からこれじゃダメだろ……」
しばらくして、遙花が浴室から出てきた。
「玲君」
「ん?」
振り向いた玲は、思わず視線を逸らした。
「ごめん。着替え一つ忘れた」
「ちょ、あんまり無防備にうろつかないでよ」
「はいはーい」
からかうような声に、玲はますます困る。
こういう状況への免疫が、圧倒的に足りない。
「お風呂ありがとう」
「あ、うん。じゃあ今度は僕入ってくる」
逃げるように浴室へ向かった。
シャワーを浴びながら、嫌でもこのあとのことを考えてしまう。
「……ダメだ」
深呼吸。
「落ち着け、僕」



