ブルーヘヴンの彼方に


第三楽章『不可能』梨歩Side
1. ちいさなあたし

(ここは……)

 辺りは四方八方、光すら感じない漆黒の闇。
 視界ゼロの空間に突如放り込まれたような感覚に陥ったあたしは、とっさに自分の頬に触れた。

 これが夢なのか、現実なのか。それとも幻なのか。
 確かめるように、そっと。
『……』

 ――触れてみたけれど、よくわからなかった。
 感触は確かにある。
 それなのに、不安と恐怖はいつまでも残ったまま。
 何も見えないからだろうか。

 あたしは今も、決して目を閉じているわけではない。寧ろ、凝らして見ているくらいなのに、視界は暗黒一色。
 生きた心地がしない。

(もしかして、あたし……)

 本当に、死んでしまったの――?

 幽(かす)かな予感。
 信じがたい。
 でも――。
 今のあたしの躰は、実際のところかなり危険な状態だった。

 人一倍脆弱な心臓に負けないくらいの図太さで、今まで切り抜けてきたというのに。
 そのツケが、今になって回ってきたというの?

 嫌だ。
 嫌だ。
 嫌だ。
 死ぬなんて、嫌だ。

 目を見開いても、閉じても……闇は容赦なく、あたしの死への恐怖に拍車をかけるように、どこまでも、どこまでも付きまとう。

(死にたく……ない)

 まだ、十九歳になったばかりだというのに。
 十代が終わるまでに必ずステージに立つんだって、約束したのに。
 四年前に倒れたあの日、あたしは今のあたしと約束したんだ。
 十九歳のあたし。
 ちゃんと歌ってる?
 ステージに立ててる?
 夢、叶えてる?
 絶対に、叶えててね。って。

 あの時も、このまま目覚めることなく人生が終わっちゃうんじゃないかと思って、恐怖に泣いた。
 声にならない叫びが、何度も何度もあたしの中で怒号のように響き渡って、自分で自分を責め立てているようで。

 ただただ、悲しかった。
 惨めだった。
 認めたくなかった。
 あたしは、誰かを元気づけ、勇気づけ、励まし続ける存在なのだ、と。
 そう言い聞かせながら、自身の脆さをひた隠した。

 でも、本当のあたしは――。


「……びたいよぅ……」

『……?』
 遠くで、何かが聞こえた。
 小さな、子どもの声だろうか。

「あそびたいよう……」

(誰?)

 あたしは恐怖を押し殺して、声のする方へと向かう。

「……も、おともだちと、おそとで……あそびたいっ……」
 その瞬間、視界が白く染まった。
 閃光弾か――と思うくらい、先ほどまでとは打って変わった真っ白な空間。

 そこに映し出されたのは、病院のベッドの上で泣いている幼い女の子。
 しかし、その女の子は――。

(――あたし……?)

「どうしておそとにでちゃだめなの? りほも……みんなと、いっしょにあそびたいのに……」

 そうだ。

 あたしは小さい頃、いつもああやって泣いてばかりで。
 あたし――。

(友達なんて……一人もいなかった)

 どうして、今になって現れるの?
 あたしの目の前で、声を上げて泣いている昔の自分。
 おそらく、彼女にはあたしの姿は見えていない。
 これが過去のリプレイなのか、それとも何なのかは定かではない。
 でも。
 忘れ去りたい過去の記憶の一部であることだけは、確かだった。

 古傷を抉られるような、この不快感。
 もう、これ以上見たくない。

『やめて……』


 あたしは、過去のあたしに背を向けた。
 辛すぎて、彼女をあやすこともできない。
 きっと、あたしの声も届かないだろう。

「あそびたいよぉ――!!」

『やめて! やめてよ!』

 聞きたくない。
 見たくない。
 昔の自分なんて、大嫌い。

 引き返そうと一歩踏み出す、その直前。

「どうして、ないているの?」

 懐かしい声が響いた。
 思わず振り返る。

(あ……!)

 ブロンドの髪の隙間から覗く、鮮やかなグリーンの瞳。
 入院着を纏ったその小さな躰から伸びた、儚げだけれど優しく――力強い腕。

「ぼくは、かみしろエディ。きみは?」

(エディ……)

 小さなエディの手が、もっと小さなあたしの手を包む。
 その手が温かいかどうかなんて、今のあたしにはわからないはずなのに。
 何故か、自分の手にも彼の温もりが伝わってくるような錯覚に陥る。

「さくらがおか、りほ。よん、さい……」
「りほ、どうしてないてるの?」
「りほも、おともだちと……おそとであそびたいの」

(そうだ、あたし――)
 寂しかったんだ。
 ずっと……。

「でも、りほは、びょうきだから、だめなんだって……。おそとであそんだら、しんじゃうかもしれないから。でも、おともだちとおはなししたいの。いっしょにあそびたいのに……あえないの。いやだ、そんなの。いやだよう……」

 エディ。
 あたし、覚えてる。
 あなたが、あたしに言ってくれたこと。

「――じんるい、みな、きょうだい」
 小さなエディが、呪文を唱えるように言った。

「なあに? それ」
 小さなあたしが彼に訊く。

「とうさんがいってた。ひとは、みんなきょうだいみたいに、なかよくなれるいきものなんだって。だから、ぼくたちもきっと、なかよくなれるよ」
「ほんと?」
「りほ。きょうからぼくたちは、ともだちだ。だから、もうなかないで」

 エディ、あたしね。
 あなたがくれた言葉を支えに、これまで生きてこられたのよ。

 その言葉を必要としている人に、今度はあたしの口から伝えることもできた。
 そして、その魔法の言葉のおかげで。
 あたしにも、ずっと欲しかった大切な友達ができたの。

 言葉って、不思議。
 目には見えない。
 触れることもできない。
 声が聞こえなくなっても、それでも消えないんだね。
 信じれば信じるほど、その言葉の意味も、威力も強くなっていく。

 だから、あたし。
 まだ死ねない。
 あたし、たった今、夢ができたの。
 ううん。
 正確にいうと、“思い出した”の。
 今度、あなたに出会ったら。

「ありがとう」を、一番先に伝えたい。