「石本和樹です。これからよろしくお願いします」
彼はゆっくりとした口調で、柔らかくそう言ってくれた。
落ち着いた真面目そうな声。
相手を尊重しているのが一目でわかる立ち振る舞い。
なのに――私は完全にパニックを起こしていた。
「は、初めまして。橋本ともえです。その、よ、よろしくお願いします……!」
たどたどしいどころの話ではない。
よく考えたら、家族と会社以外で男性とプライベートで話すなんて……15年付き合った元彼と別れて以来だ。
枯れ果てた自分の生活に愕然としていると、石本さんは私の緊張を洗い流すように、ふわりと目を細めて笑った。
「ともえさんは、やっぱりイメージ通りの方ですね」
「え? イメージ通り……ですか?」
「ええ! 人を気遣う優しい雰囲気が溢れ出ています」
……え? 優しい? 私が? 思わず固まる私に、彼は屈託のない笑顔を向ける。
「僕、アプリで質問ばかり送っちゃったでしょう? 普通なら嫌気が差してブロックされてもおかしくないのに、ともえさんはずっと丁寧に付き合ってくれた。絶対に優しい人だろうなと思っていましたが……お会いして確信しました」
(……あ)
胸の奥に、じんわりと温かい光が差し込むのを感じた。
(15年も一緒にいた元彼すら、私のことを『優しい』なんて言ってくれなかったのに……)
仲良くなるための口実かもしれない。
けれど、傷つき疲れていた私の心には、その一言が涙が出るほど嬉しかった。
「優しいなんて……ありがとうございます」
お礼を言おうとしたものの、ガチガチに緊張した私は謝罪会見のように深く頭を下げてしまった。
すると、石本さんは焦ったように額に汗を浮かべた。
「あ、頭を下げないでください! むしろ失礼なことをしたのは僕の方なんです。アプリでマッチングしてからお会いするまで、3ヶ月もかかってしまって……不安にさせちゃいましたよね。本当にすみません!」
そう言って、彼まで一緒にぺこりと頭を下げる。 男性からこんなに丁寧に扱われ、謝られたことなんてない。
「えっ、そんな! 謝らないでください!」
「不快に思っていませんか?……よかった」
彼は心底安心したように胸を撫でおろした。
「実は、アプリで女性とお会いするのは本当に初めてで……。どうお誘いすればいいかも分からないし、いきなり会うのはともえさんも怖いだろうなと思ったら、なかなか踏み出せなくて」
「そうだったんですか……」
――緊張しているのは、私だけじゃなかったんだ。
その事実だけで、胸の仕えがすーっと取れていくのがわかった。
「大丈夫です。私も緊張するタイプなので、じっくりメッセージを重ねてくださって助かりました」
「よかった……それを聞いて安心しました」
そう言うと、彼は私との距離を少し詰め、背中に添えるようにすっと手を伸ばしてきた。
接触の優しさと車道側から庇うような動作に、私の心臓がドクンと跳ね上がる。
(う、うわ、近い……っ!?)
「ひとまず歩きましょうか。ともえさんはお散歩が好きっておっしゃっていましたよね。歩いていれば、きっと緊張もほぐれますよ」
彼が柔らかく微笑みながら歩き出すと、添えられていた手は自然と離れた。
身体が離れてホッとしたのも束の間、心臓は別の理由でバクバクと鳴り響いていた。
(……なになに!? 女性慣れしてないって嘘!? 自然体でエスコートが上手すぎるんだけど……!)
丸ビルの外に出ると、仲通りの木々を彩る金色のイルミネーションが、まるで光のトンネルのように輝いていた。
思わず見とれて足を止めてしまう。
(あ、しまった! 初対面なのに黙って立ち止まっちゃ……)
「ゆっくり行きましょう」
焦る私を責めるどころか、彼は隣に並んで私の歩幅にぴったり合わせて歩き出してくれた。
「丸の内の仲通りは、あまり来られませんか?」
「はい……人混みが苦手で、都心に出てくること自体が滅多になくて」
「そうでしたか。人の多い場所が苦手だと知っていたのに、僕が待ち合わせ場所をここにしたのは失敗でしたね……」
「違います! イルミネーションは好きですし、外は開放的だから苦しくないです!」
慌てて否定すると、彼はまた「よかった」と目尻を下げた。
「では、日比谷公園の方まで散歩を楽しみましょう。実は今、推しが『アーシング』を推奨していて……あ、本来は裸足で大地に触れる健康法なんですけど、推しは『自然に触れて落ち着いた気持ちで歩くこともアーシングだ』って言っていて!千葉の海辺でもよく散歩してアーシングしてるんです!」
……ハッと我に返る。
(しまった!! 男性の前で推し活の専門用語を熱弁しちゃった! 引かれた……絶対引かれた!!)
青ざめてチラッと彼の顔を伺うと、石本さんは心から楽しそうに笑っていた。
「アーシング! いい言葉ですね。ただの『散歩』と言うより、リラックス効果が高そうです」
「ですよね!? 響きもいいですし、すごくお気に入りなんです」
「すー、はー」
なんと彼は、両手を大きく広げて森林浴のように深呼吸までしてみせた。
「たしかに! アーシングだと思って深呼吸すると、すごく気分がいいですね!」
(……この人、素敵すぎる)
私の推し活を否定しない。
話を合わせてくれる。
ちゃんと目を見て、笑顔で共感してくれる。
15年一緒にいた元彼なんて、私の話なんていつも適当に聞き流していたのに。
(私、なんであんな奴と15年もいたんだろう……)
ふと嫌な過去がよぎり、私が黙り込んでしまうと、石本さんは心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫ですか? 少し歩いたら、カフェで休憩しましょうか」
……あ。 私の胸に、また小さな暗雲が広がる。
実は私、大勢の人の目がある場所で食事ができない「会食恐怖症」気味なのだ。
結婚相談所でも「食事NG」の条件を出しては、男性陣から即お断りを喰らい続けてきたトラウマがある。
(カフェ、断りたい……でも断ったら『ノリが悪い』って嫌われちゃうかも……)
言い出せずにオドオドしていると、石本さんは察したようにニコッと笑った。
「気が乗らないですね? わかりました」
「あ、いえ、その……!」
「でしたら、ミッドタウンに行ってから考えましょう。夜景を見ながらお話できるベンチもありますし」
(……嘘でしょ)
嫌な顔ひとつせず、私の選択肢を完璧に尊重してくれる。
神だ。
この人は神だ。
(神……! あなたは神ですか……!? ペンライト振りたい!『神ー!!』って叫びながら振り回したい!!)
隣で優しく微笑む石本さんの横で、私は心の中でサイリウムを全力で振り回しながら、ウキウキと歩みを進めるのだった。
彼はゆっくりとした口調で、柔らかくそう言ってくれた。
落ち着いた真面目そうな声。
相手を尊重しているのが一目でわかる立ち振る舞い。
なのに――私は完全にパニックを起こしていた。
「は、初めまして。橋本ともえです。その、よ、よろしくお願いします……!」
たどたどしいどころの話ではない。
よく考えたら、家族と会社以外で男性とプライベートで話すなんて……15年付き合った元彼と別れて以来だ。
枯れ果てた自分の生活に愕然としていると、石本さんは私の緊張を洗い流すように、ふわりと目を細めて笑った。
「ともえさんは、やっぱりイメージ通りの方ですね」
「え? イメージ通り……ですか?」
「ええ! 人を気遣う優しい雰囲気が溢れ出ています」
……え? 優しい? 私が? 思わず固まる私に、彼は屈託のない笑顔を向ける。
「僕、アプリで質問ばかり送っちゃったでしょう? 普通なら嫌気が差してブロックされてもおかしくないのに、ともえさんはずっと丁寧に付き合ってくれた。絶対に優しい人だろうなと思っていましたが……お会いして確信しました」
(……あ)
胸の奥に、じんわりと温かい光が差し込むのを感じた。
(15年も一緒にいた元彼すら、私のことを『優しい』なんて言ってくれなかったのに……)
仲良くなるための口実かもしれない。
けれど、傷つき疲れていた私の心には、その一言が涙が出るほど嬉しかった。
「優しいなんて……ありがとうございます」
お礼を言おうとしたものの、ガチガチに緊張した私は謝罪会見のように深く頭を下げてしまった。
すると、石本さんは焦ったように額に汗を浮かべた。
「あ、頭を下げないでください! むしろ失礼なことをしたのは僕の方なんです。アプリでマッチングしてからお会いするまで、3ヶ月もかかってしまって……不安にさせちゃいましたよね。本当にすみません!」
そう言って、彼まで一緒にぺこりと頭を下げる。 男性からこんなに丁寧に扱われ、謝られたことなんてない。
「えっ、そんな! 謝らないでください!」
「不快に思っていませんか?……よかった」
彼は心底安心したように胸を撫でおろした。
「実は、アプリで女性とお会いするのは本当に初めてで……。どうお誘いすればいいかも分からないし、いきなり会うのはともえさんも怖いだろうなと思ったら、なかなか踏み出せなくて」
「そうだったんですか……」
――緊張しているのは、私だけじゃなかったんだ。
その事実だけで、胸の仕えがすーっと取れていくのがわかった。
「大丈夫です。私も緊張するタイプなので、じっくりメッセージを重ねてくださって助かりました」
「よかった……それを聞いて安心しました」
そう言うと、彼は私との距離を少し詰め、背中に添えるようにすっと手を伸ばしてきた。
接触の優しさと車道側から庇うような動作に、私の心臓がドクンと跳ね上がる。
(う、うわ、近い……っ!?)
「ひとまず歩きましょうか。ともえさんはお散歩が好きっておっしゃっていましたよね。歩いていれば、きっと緊張もほぐれますよ」
彼が柔らかく微笑みながら歩き出すと、添えられていた手は自然と離れた。
身体が離れてホッとしたのも束の間、心臓は別の理由でバクバクと鳴り響いていた。
(……なになに!? 女性慣れしてないって嘘!? 自然体でエスコートが上手すぎるんだけど……!)
丸ビルの外に出ると、仲通りの木々を彩る金色のイルミネーションが、まるで光のトンネルのように輝いていた。
思わず見とれて足を止めてしまう。
(あ、しまった! 初対面なのに黙って立ち止まっちゃ……)
「ゆっくり行きましょう」
焦る私を責めるどころか、彼は隣に並んで私の歩幅にぴったり合わせて歩き出してくれた。
「丸の内の仲通りは、あまり来られませんか?」
「はい……人混みが苦手で、都心に出てくること自体が滅多になくて」
「そうでしたか。人の多い場所が苦手だと知っていたのに、僕が待ち合わせ場所をここにしたのは失敗でしたね……」
「違います! イルミネーションは好きですし、外は開放的だから苦しくないです!」
慌てて否定すると、彼はまた「よかった」と目尻を下げた。
「では、日比谷公園の方まで散歩を楽しみましょう。実は今、推しが『アーシング』を推奨していて……あ、本来は裸足で大地に触れる健康法なんですけど、推しは『自然に触れて落ち着いた気持ちで歩くこともアーシングだ』って言っていて!千葉の海辺でもよく散歩してアーシングしてるんです!」
……ハッと我に返る。
(しまった!! 男性の前で推し活の専門用語を熱弁しちゃった! 引かれた……絶対引かれた!!)
青ざめてチラッと彼の顔を伺うと、石本さんは心から楽しそうに笑っていた。
「アーシング! いい言葉ですね。ただの『散歩』と言うより、リラックス効果が高そうです」
「ですよね!? 響きもいいですし、すごくお気に入りなんです」
「すー、はー」
なんと彼は、両手を大きく広げて森林浴のように深呼吸までしてみせた。
「たしかに! アーシングだと思って深呼吸すると、すごく気分がいいですね!」
(……この人、素敵すぎる)
私の推し活を否定しない。
話を合わせてくれる。
ちゃんと目を見て、笑顔で共感してくれる。
15年一緒にいた元彼なんて、私の話なんていつも適当に聞き流していたのに。
(私、なんであんな奴と15年もいたんだろう……)
ふと嫌な過去がよぎり、私が黙り込んでしまうと、石本さんは心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫ですか? 少し歩いたら、カフェで休憩しましょうか」
……あ。 私の胸に、また小さな暗雲が広がる。
実は私、大勢の人の目がある場所で食事ができない「会食恐怖症」気味なのだ。
結婚相談所でも「食事NG」の条件を出しては、男性陣から即お断りを喰らい続けてきたトラウマがある。
(カフェ、断りたい……でも断ったら『ノリが悪い』って嫌われちゃうかも……)
言い出せずにオドオドしていると、石本さんは察したようにニコッと笑った。
「気が乗らないですね? わかりました」
「あ、いえ、その……!」
「でしたら、ミッドタウンに行ってから考えましょう。夜景を見ながらお話できるベンチもありますし」
(……嘘でしょ)
嫌な顔ひとつせず、私の選択肢を完璧に尊重してくれる。
神だ。
この人は神だ。
(神……! あなたは神ですか……!? ペンライト振りたい!『神ー!!』って叫びながら振り回したい!!)
隣で優しく微笑む石本さんの横で、私は心の中でサイリウムを全力で振り回しながら、ウキウキと歩みを進めるのだった。

