Héritage

 婚約発表を翌日に控えた夜、俺は自室の窓辺に立っていた

 眼下には、夜の街が広がっている

 無数の灯りが途切れることなく続き、遠くを走る車の列が細い光になって流れていた

 明日になれば、俺と更の婚約が公になる

 両家の間では、とっくに決まっていたことだ

 結納も済ませた

 結婚に向けた話も進んでいる

 それでも、世間に知られるとなれば意味が変わる

 俺と更の名前が並び、神崎家と豊嶋家の名前まで並ぶ

 その瞬間から、俺たちを知らない人間まで、俺たちの人生について言葉を持つようになる

 スマートフォンが震えた

 画面を見ると、母からだった

『明日の流れを確認しておいてください』

 会場入りの時間と発表の予定が送られてくる

 俺は一通り目を通し、画面を閉じた

 予定は決まっている

 あとは、明日を迎えるだけだった

***

 翌日の午後

 発表会場となるホテルには、すでに多くの報道関係者が集まっていた

 神崎グループが運営するホテルの最上階

 広い会場には、両家と関係の深い企業関係者や、古くから付き合いのある人間も顔を揃えている

 控室へ向かう途中、スタッフから次々と声をかけられる

 俺は足を止めずに進んだ

 控室の扉が開く

 更が出てきた

 足が止まりそうになった

 結納の日とは、少し違って見える

 服装がどうこうという話じゃない

 これから自分の隣に立つ人間として、更を見る目が、以前とは少し違っていることに気づいた

 更も同じなのかもしれない

 今日は、両家の間で決まった婚約を公にする日だ

 ここにいる人間だけじゃない

 明日には、もっと多くの人間が俺たちを知ることになる

「輝」

「ああ」

「もう会場に人がいっぱい」

「見れば分かる」

「……こういうの、慣れないね」

 更が会場のほうへ視線を向ける

「俺も慣れてない」

「嘘」

「嘘じゃない」

 更の口元がわずかに緩んだ

 その顔を見て、張っていたものが少しだけほどける

 会場の扉が開いた

 スタッフが俺たちに目を向ける

 更が一歩踏み出す

 俺も、その隣に並んだ

***

 会場のざわめきが静まっていく

 父が立ち上がった

 正面を向き、ゆっくりと会場を見渡す

「本日は、このような場にお集まりいただき、ありがとうございます」

 落ち着いた声が、広い会場に響く

「神崎家と豊嶋家は、長きにわたり、互いの事業を通じて深い関係を築いてまいりました」

 一度、言葉を置く

「両家の交流は、企業としての関係だけにとどまるものではありません」

 父の視線が、俺と更へ向けられる

「家族同士の付き合いも長く、私どもにとって豊嶋家は、古くから大切な縁を結んできた家でございます」

 会場の空気が静かに張りつめていく

「先般、長男の瞬を不慮の事故で失いましたことは、私どもにとりまして、今なお言葉では尽くせぬ出来事でございます」

 更の指先が、膝の上でわずかに動いた

「皆様から寄せていただいた多くのお心遣いに、この場をお借りして、改めて御礼申し上げます」

 父が深く頭を下げる

 会場からも静かな気配が返ってくる

 父が顔を上げた

「その上で、本日は皆様に、もう一つご報告がございます」

 俺は隣を見る

 更は正面を見つめていた

「このたび、神崎家の次男、輝と、豊嶋家のご息女、更さんが婚約する運びとなりました」

 一瞬、音が消えたように感じた

 次の瞬間、会場のあちこちからシャッター音が響き始める

 フラッシュが立て続けに光る

 更の肩が、ほんのわずかに強張った

 父は言葉を続ける

「二人は幼い頃から互いの家を行き来し、長い時間をともに過ごしてまいりました」

「これから先、二人が夫婦として歩んでいくことを、両家として心より喜ばしく思っております」

 父が更を見る

「更さんには、これまで以上に神崎家との縁を深めていただくことになりますが、私どもは彼女自身の人生も、これまで大切にしてきたものも、尊重していきたいと考えております」

 更の目が、ほんの少し見開かれた

 父は続ける

「輝もまた、これから神崎家を背負う立場として、これまで以上の責任を担うことになります」

 今度は俺へ視線が向く

「二人がそれぞれの人生を大切にしながら、ともに歩んでいけることを、両家として願っております」

 最後に、結婚の時期については改めて正式に発表すると告げた

 父が一礼する

 大きな拍手が起こった

 それに重なるように、シャッター音が続く

 俺は隣を見る

 更は正面を向いたまま、拍手を受けている

 表情は崩れていない

 ただ、組んだ指先に少しだけ力が入っていた

 俺はそれを見ていた

 やがて、更がほんの少しだけこちらへ顔を向ける

 目が合う

 ほんの一瞬だった

 それだけで、更がこの場で何を感じているのか、余計に気になった

***

 発表を終え、控室へ戻る

 扉が閉まった途端、更が長く息を吐いた

「……すごかった」

「何が?」

「全部」

 更がソファに腰を下ろす

「こんなにたくさんの人に見られるんだね」

「今日からはな」

 更がスマートフォンを取り出す

 画面には、すでにいくつもの通知が届いていた

「もう記事になってる」

「早いな」

「うん」

 更の指が画面を滑っていく

 婚約発表の記事

 俺と更が並んだ写真

 両家の名前

 祝福する言葉もある

 けれど、その中に混じったいくつかの言葉に、指が止まった

『兄の婚約者と弟が婚約』

『兄の死から半年で婚約発表』

『以前から弟とも親しかったのでは』

 更の指が画面の上で止まる

 しばらくして、スマートフォンが伏せられた

「……見なきゃよかった」

 俺は向かいの椅子に腰を下ろす

「更」

「分かってる」

 更は画面を見ないまま続けた

「私たちのことを知らない人が、好きなことを言ってるだけ」

「ああ」

「でも……」

 そこで言葉が途切れる

 窓の向こうには、夕方の街が広がっていた

「こういうふうに見えるんだね」

 声が少しだけ低くなる

「兄が亡くなって、その婚約者だった私が、今度は弟と婚約する」

 自分で口にした言葉が、思った以上に重かったのかもしれない

 更は膝の上で両手を重ねた

「知らない人から見たら……変だよね」

「変じゃない」

 すぐに答えた

 けれど、更は何も言わない

 俺は更を見る

「俺だって、平気じゃない」

 更の顔が上がる

「兄貴の婚約者だった女と結婚する弟だって、勝手に決めつけられるのは嫌だ」

 口にした瞬間、自分の中にあったものがはっきりした

「兄貴の代わりになるために、更と結婚するんじゃない」

「……うん」

「兄貴がいなくなったから、残った婚約者を俺が引き受けるわけでもない」

 更の瞳が揺れる

「両家が決めたことから始まったのは事実だ」

 そこだけは誤魔化さない

「でも、ここから先まで誰かに決めてもらうつもりはない」

「ここから先……?」

「結婚することは決まってる」

 俺は更から目を逸らさなかった

「でも、誰とどんな夫婦になるかまで、家に決められるつもりはない」

 更は何も言わない

「俺は、更と結婚する」

 声に出した瞬間、自分の中でもその言葉の重さが変わった

「仕方なくじゃない」

 更の指先が止まる

「兄貴の代わりでもない」

 もう一度、更を見る

「俺自身が、更とこれから先を過ごしたいと思ってる」

 更の瞳が大きく揺れた

 言ってしまえば、もっと何かが変わると思っていた

 けれど、部屋の中は静かなままだった

 聞こえるのは、空調の微かな音だけ

「だから、誰かに何を言われても、俺はこの結婚を後ろめたいとは思わない」

 更が俺を見つめている

「更が瞬を大切に思っていることまで、俺は否定しない」

 ここだけは、はっきり伝えておきたかった

「兄貴との時間は、兄貴との時間だ」

 一度、息を入れる

「俺との時間は、俺たちで作ればいい」

 更の唇がわずかに開く

「……そんなふうに、思ってくれてたんだ」

「ああ」

 自分でも驚くほど、迷いはなかった

「今まで言ってなかったけどな」

 更はしばらく俺を見ていた

 やがて、張りつめていた指がゆっくりほどける

「私も……」

 そこで言葉が止まる

 俺は待った

「私も、輝とだから、これからのことを考えていきたい」

 その言葉を聞いた瞬間、返す言葉が出てこなかった

 ただ、更の顔を見た

 さっきまで画面に並んでいた誰かの言葉より、その一言のほうがずっと強く残った

 俺は立ち上がる

「帰ろう」

「うん」

 更も立ち上がる

 控室の扉を開けると、廊下にはまだ人の気配が残っていた

 スタッフの足音

 遠くから聞こえる話し声

 閉じた扉の向こうでは、今日の発表について誰かが話している

 俺たちはその間を並んで歩いた

 今日から、俺と更の名前は世間に並んで知られることになる

 兄貴の婚約者だった女性と、その弟

 そんな一言で、俺たちを語る人間もいるだろう

 それでも、俺が歩いている隣にいるのは、肩書きでも噂でもない

 更だった

 俺が選んだのも、更との未来だった

 そのことだけは、誰に何を言われても変わらない