Héritage

 結納から数日後

 その日の午後、俺は神崎グループが運営するホテルへ向かっていた

 ホテル事業部との打ち合わせと、改装中のフロアの視察が入っている

 車を降りると、出迎えたホテルの責任者と挨拶を交わした

「お疲れさまです、輝様」

「ああ」

 会議室へ入り、改装スケジュールや予算、各部署との調整事項について確認していく

 予定していた打ち合わせを終えると、責任者に案内されて改装中のフロアへ向かった

 営業前のフロアには、まだ家具の入っていない空間が広がっている

 壁際には素材のサンプルが並び、中央には図面を広げた作業台が置かれていた

 その奥から、聞き覚えのある声がした

「この位置だと、昼間はいいんですけど、夜になると少し暗く感じると思います」

 足が止まった

 更だった

 数人のスタッフと一緒に、図面を囲んでいる

「照明を一つ増やすより、ここの光を少し回したほうがいいと思います」

 更が図面の一点を指で示す

「この素材なら、そのほうが質感も出ます」

「確かに」

 男性スタッフが更の隣に立ち、図面を覗き込む

「じゃあ、ここの照明を変えてみますか」

「はい、入口から見たときの印象も変わると思います」

 二人の距離は近い

 仕事をしているだけだ

 そんなことは分かっている

 それでも、視線が離れなかった

 真剣な目

 迷いのない声

 自分の考えをきちんと言葉にして、相手を納得させている

 俺の知っている更とは、少し違って見えた

 こんな顔をするんだ

 そう思った

 やがて、更がこちらに気づいた

「あ……輝」

 更の表情が少し柔らかくなる

「ああ」

「来てたんだね」

「さっき来た」

「声かけてくれればよかったのに」

「仕事中だったから」

「そうだったんだ」

 更が手元の資料をまとめる

「今日は視察?」

「ああ」

 俺は更を見る

「仕事、どう?」

「え?」

「こっちに来て、少し経っただろ」

 更が頷く

「うん」

「慣れた?」

「だいぶ」

 更が少し考えるように笑う

「最初は会社の規模も違うし、関わる人も多いから大変だったけど」

「困ってることはないか?」

「今のところは大丈夫」

「無理してないか?」

 更が少し驚いた顔をする

「してないよ」

「ならいい」

「心配してくれてる?」

「ああ」

 更が黙った

 それから、少しだけ笑う

「ありがとう」

 その笑顔を見ていると、さっきまで仕事をしていた姿とはまた違って見えた

 仕事のときは迷いなく話していたのに、こういうときは少し照れる

 その違いが、妙に気になった

「輝様」

 ホテル事業部の責任者から声がかかる

「このあと、次の打ち合わせの準備が整っております」

「ああ」

 俺は時計を見る

 まだ仕事が残っている

 更もそれに気づいた

「忙しいんだね」

「今日はこのあと、もう一件ある」

「じゃあ、私も仕事に戻るね」

「ああ」

 更が資料を抱え直す

 そのまま戻ろうとしたところで、俺は呼び止めた

「更」

「ん?」

「このあと、仕事は?」

「まだ少し残ってる」

「そうか」

 一瞬、考える

「仕事が終わったら、連絡して」

「え?」

「食事、行かない?」

 更が目を瞬かせる

「……二人で?」

「ああ」

 更の視線が少し揺れる

 それから、小さく頷いた

「……分かった」

「じゃあ、あとで」

「うん」

 更が仕事へ戻っていく

 俺も責任者とともに、次の打ち合わせへ向かった

 その途中、秘書が隣に並ぶ

「お食事は、ホテル内のレストランでよろしいですか?」

「ああ」

「お二人分、手配しておきます」

「頼む」

 それ以上、何も言わない

 仕事のできる男だ

***

 次の打ち合わせが始まる

 海外事業の進捗について報告を受け、いくつかの案件について判断を下していく

 資料に目を通していても、ときどき更の姿が浮かんだ

 仕事をしているときの真剣な顔

 俺を見つけたときに緩んだ表情

 そして

「ありがとう」

 そう言ったときの顔

 気づけば、時計を見ていた

 打ち合わせが終わった

 席を立ったところで、スマートフォンが震える

 更からだった

『終わったよ』

 俺はすぐに返信する

『ロビーにいる』

 秘書がスマートフォンを確認する

「レストランの準備は整っております」

「ああ」

 俺はロビーへ向かった

***

 エレベーターの扉が開く

 ロビーの奥に、更が立っていた

 俺に気づくと、更が笑う

「輝」

「ああ」

「待った?」

「今来たところ」

「よかった」

 更が俺の隣に並ぶ

 歩き出すと、人の流れが前から来た

 更が避けようとした瞬間、左手が俺の腕に触れる

「……ごめん」

「何が?」

「人が多かったから」

「気にするな」

 更は一度手を離した

 けれど、少し歩いたところで、今度は自分から俺の腕へ手を伸ばした

 指先が、腕に触れる

 そのまま離れるのかと思った

 けれど、更の指が俺の腕を軽く掴んだ

 ほんの少しだけ

「……こっちでいい?」

 更が俺を見上げる

「ああ」

 答えると、更の指にわずかに力が入った

 腕を組んだわけじゃない

 ただ、俺の腕を掴んでいる

 それだけなのに、妙に意識する

 さっきまで仕事の顔をしていた更が、今は俺の隣にいる

 その距離が、少し近い

 更は何も言わず、そのまま歩いていた

 俺も何も言わなかった

***

 食事を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた

「美味しかった」

「ああ」

「今日は誘ってくれてありがとう」

「俺も、楽しかった」

 レストランを出る

 すぐに帰るつもりだった

 けれど、外へ出ると夜の風が気持ちよかった

 更が空を見上げる

「少し歩きたい」

「俺もそう思ってた」

 二人でホテルの敷地に沿った遊歩道を歩く

 昼間より気温が下がっている

 風が吹くたび、更の髪が揺れた

「今日、仕事してるところ見られるの、なんか変だった」

「そう?」

「うん」

「格好よかった」

 更が足を止めた

「……仕事してるところ?」

「ああ」

 更は少し黙ってから、視線を落とした

「……嬉しい」

 その声が小さかった

 けれど、ちゃんと聞こえた

 頬が少し赤い

 俺は、そんな更を見ていた

 さっきまで俺の腕を掴んでいた指先の感触が、ふと蘇る

 更がこんなふうに自分から触れてくることが、以前はなかった

 それが、妙に嬉しかった

 風が吹く

 更の髪が頬にかかる

 更が手を上げる

 けれど、その動きが途中で止まった

 俺は手を伸ばし、頬にかかった髪を指先ですくう

 耳へかける

 触れたのは一瞬だった

 更が俺を見る

 近い

 そう思った

「……ありがとう」

 更が小さく言う

 俺は何も答えなかった

 ただ、目の前にいる更を見ていた

 昔から知っている顔なのに、最近は知らない表情が増えている

 仕事をしているときの顔も

 俺を見て笑う顔も

 今みたいに、少しだけ視線を逸らす顔も

 全部、以前の俺は知らなかった

「帰ろうか」

 そう言うと、更が頷いた

「うん」

 二人で歩き出す

 さっきまでより、少しだけ近い距離で

 ホテルの入口が見えてくる

 その先には、それぞれの帰る場所がある

 それでも、今日一日を振り返ると、不思議なくらい満たされていた

 更と過ごす時間が、少しずつ変わってきている

 その変化を、俺は悪くないと思っていた