結納の日
会場は、神崎グループが所有するホテルの最上階にあるプライベートダイニングだった
大きな窓の向こうに、午後の街並みが広がっている
室内の中央には、両家が囲める長いテーブルが置かれていた
神崎家からは父と母、そして俺
豊嶋家からは父と母、更と弟
全員が揃い、挨拶を交わす
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
豊嶋家の父親が頭を下げる
「こちらこそ」
父親が応じる
俺は席へ向かおうとして、ふと足を止めた
更がこちらを見ていた
振袖姿だった
淡い色合いの生地に、細かな柄が入っている
いつも見ている更とは、雰囲気が違った
髪も、普段とは少し違う
同じ顔なのに、目に入った瞬間、別の女性を見たような感覚になった
「輝?」
更が首を傾げる
「ああ」
「どうしたの?」
「……いや」
視線を外しかけて、やめた
「似合ってる」
「……本当?」
「ああ」
更は少し黙ってから、視線を落とした
「……ありがとう」
頬が、ほんの少し赤くなっている
その表情を見た瞬間、胸の奥が小さく跳ねた
振袖が似合っていると思った
けれど、今の顔のほうが妙に目に残る
「輝さん、お久しぶりです」
声をかけられて振り向く
更の弟だった
「ああ、久しぶり」
俺たちはそれぞれの席についた
更は俺の向かい側
その隣に弟が座っている
「今日は姉をよろしくお願いします」
「こちらこそ」
短い会話を交わす
弟は更へ視線を向けた
「姉さん、緊張してる?」
「少しだけ」
「珍しいね」
「こういう席だもの」
更が小さく笑う
俺もつられて笑った
昔から変わらない、姉弟のやり取りだった
やがて、両家の父親が向かい合う
これまで進めてきた婚姻について、正式な確認が行われた
両家の間で決められていた婚約を、本日正式なものとすること
婚約発表については、喪が明けた今、両家で時期を決めて公表すること
結婚の時期についても、両家で調整した上で進めていくこと
そこまでは、俺たちも口を挟まなかった
神崎家と豊嶋家の立場を考えれば、俺たちだけで決められることではない
父親が一通りの話を終える
「細かなことは、二人で決めればいい」
母親が更を見る
「結婚式の内容や、これからの生活については、あなたたちが納得する形にしなさい」
更が小さく頷く
「はい」
俺も頷いた
家として決めることと、俺たち自身が決めること
その線引きは、きちんと考えてくれているらしい
食事が始まる
張り詰めていた空気が、少しずつ和らいでいく
向かいに座る更の振袖が、動くたびに視界へ入る
箸を持つ指
料理を口に運ぶ仕草
ふと顔を上げたときに揺れる髪
さっきから、どうしても目が向いてしまう
目が合うと、更は少しだけ笑う
そのたびに、胸の奥が落ち着かなくなる
どうしたんだ、俺
昔から知っている相手だ
今まで何度も一緒に食事をしたこともある
それなのに、今日は何かが違う
両親たちは婚約発表の時期や結婚の時期について話を進めている
その声を聞きながら、俺は更を見た
これから、この女性が俺の妻になる
そう考えた瞬間
胸の奥に、今までとは違う熱が広がった
妻になる
その言葉が、妙に現実的に感じられた
食事が進み、会話が途切れたところで、俺は懐に意識を向けた
小さなケースが入っている
結納の日に渡そうと決めていた
自分で選んだ指輪
両家が婚約を決めたこととは関係なく
これは俺自身が、更に贈りたいと思って選んだものだ
俺は席を立った
「更」
「ん?」
「ちょっと、こっちに来て」
更が不思議そうに俺を見る
「こっち?」
「ああ」
俺はテーブルの端を回り、更のいる側へ歩いた
更の前で足を止める
「どうしたの?」
「これ」
ポケットから小さなケースを取り出す
更の目が、そのケースへ向いた
「開けて」
「……うん」
更がケースを受け取る
ゆっくり蓋を開ける
中の指輪を見た瞬間、更の目が大きくなった
「……きれい」
「気に入った?」
「うん」
更がリングを見つめる
「これ……輝が選んだの?」
「ああ」
「どうして、これにしたの?」
俺は少し考えた
「この結婚については、俺たちが決める前に、両家がいろんなことを決めたから」
更が黙って俺を見る
「だから、指輪くらいは自分で選びたかった」
「……指輪くらい?」
「ああ」
俺は更を見る
「更に贈るものだから」
少しだけ間を置く
「俺が選びたかった」
更はしばらく指輪を見つめていた
それから、顔を上げる
「……ありがとう」
さっきと同じように、頬が少し赤い
「嬉しい」
その言葉を聞いた瞬間、また胸の奥が熱くなった
俺はケースからリングを取り出した
「手、出して」
「……うん」
更が左手を差し出す
振袖の袖口から伸びた手が、俺の前にある
細い指
俺の手より、ずっと小さい
その手を取る
指先が触れた瞬間、更が少しだけ息を止めた
俺も、手を離す理由が見つからなかった
左手の薬指へリングを通す
ゆっくりと指の根元へ収める
ぴったりだった
自分が選んだリングが、更の指にある
その光景を見つめていると、不思議な感覚がした
この先も、この手を見ることになる
仕事をしているときも
食事をしているときも
俺の隣にいるときも
その指には、俺が選んだリングがある
そう考えると、胸の奥がまた熱くなった
「……似合ってる」
「本当?」
「ああ」
更が左手を少し持ち上げる
リングが午後の光を受けて、小さく輝いた
「大事にする」
その言葉が、思ったより深く残った
「……そうして」
俺は更の手を離した
ほんの数秒だった
それなのに、離したあとも指先に感触が残っていた
席へ戻る前に、もう一度だけ更を見る
更は左手のリングを眺めながら、嬉しそうに微笑んでいた
その横顔から、目を離すのに少し時間がかかった
***
結納の席が終わり、俺たちはホテルを出た
玄関へ向かう途中、更が隣を歩いている
「輝」
「ん?」
「今日はありがとう」
「指輪?」
「うん」
更が左手を見る
「すごく嬉しかった」
「そうならよかった」
少し歩く
「私も、これからのこと」
更が言葉を選ぶように続けた
「自分でちゃんと考えていきたい」
「ああ」
俺も頷く
「俺もそう思ってる」
ホテルの外へ出る
夕方の風が吹いた
更の振袖の袖が、風に揺れる
その左手には、俺が選んだリングがある
両家が決めた婚約
その事実は変わらない
それでも今日
俺たち自身の意思で、ほんの少しだけ前へ進んだ気がした
車寄せまで歩いたところで、更が立ち止まる
「じゃあ、またね」
「ああ」
更が車へ向かう
数歩進んだところで、振り返った
左手のリングが夕方の光を拾う
その手を見た瞬間、また胸の奥が熱くなった
俺はその場に立ったまま、更の姿が見えなくなるまで目で追っていた
車が動き出す
見えなくなったあとも、しばらくその方向を見ていた
自分でも、どうしてそこまで見送っていたのか分からなかった
ただ
もう少し、見ていたかった
会場は、神崎グループが所有するホテルの最上階にあるプライベートダイニングだった
大きな窓の向こうに、午後の街並みが広がっている
室内の中央には、両家が囲める長いテーブルが置かれていた
神崎家からは父と母、そして俺
豊嶋家からは父と母、更と弟
全員が揃い、挨拶を交わす
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
豊嶋家の父親が頭を下げる
「こちらこそ」
父親が応じる
俺は席へ向かおうとして、ふと足を止めた
更がこちらを見ていた
振袖姿だった
淡い色合いの生地に、細かな柄が入っている
いつも見ている更とは、雰囲気が違った
髪も、普段とは少し違う
同じ顔なのに、目に入った瞬間、別の女性を見たような感覚になった
「輝?」
更が首を傾げる
「ああ」
「どうしたの?」
「……いや」
視線を外しかけて、やめた
「似合ってる」
「……本当?」
「ああ」
更は少し黙ってから、視線を落とした
「……ありがとう」
頬が、ほんの少し赤くなっている
その表情を見た瞬間、胸の奥が小さく跳ねた
振袖が似合っていると思った
けれど、今の顔のほうが妙に目に残る
「輝さん、お久しぶりです」
声をかけられて振り向く
更の弟だった
「ああ、久しぶり」
俺たちはそれぞれの席についた
更は俺の向かい側
その隣に弟が座っている
「今日は姉をよろしくお願いします」
「こちらこそ」
短い会話を交わす
弟は更へ視線を向けた
「姉さん、緊張してる?」
「少しだけ」
「珍しいね」
「こういう席だもの」
更が小さく笑う
俺もつられて笑った
昔から変わらない、姉弟のやり取りだった
やがて、両家の父親が向かい合う
これまで進めてきた婚姻について、正式な確認が行われた
両家の間で決められていた婚約を、本日正式なものとすること
婚約発表については、喪が明けた今、両家で時期を決めて公表すること
結婚の時期についても、両家で調整した上で進めていくこと
そこまでは、俺たちも口を挟まなかった
神崎家と豊嶋家の立場を考えれば、俺たちだけで決められることではない
父親が一通りの話を終える
「細かなことは、二人で決めればいい」
母親が更を見る
「結婚式の内容や、これからの生活については、あなたたちが納得する形にしなさい」
更が小さく頷く
「はい」
俺も頷いた
家として決めることと、俺たち自身が決めること
その線引きは、きちんと考えてくれているらしい
食事が始まる
張り詰めていた空気が、少しずつ和らいでいく
向かいに座る更の振袖が、動くたびに視界へ入る
箸を持つ指
料理を口に運ぶ仕草
ふと顔を上げたときに揺れる髪
さっきから、どうしても目が向いてしまう
目が合うと、更は少しだけ笑う
そのたびに、胸の奥が落ち着かなくなる
どうしたんだ、俺
昔から知っている相手だ
今まで何度も一緒に食事をしたこともある
それなのに、今日は何かが違う
両親たちは婚約発表の時期や結婚の時期について話を進めている
その声を聞きながら、俺は更を見た
これから、この女性が俺の妻になる
そう考えた瞬間
胸の奥に、今までとは違う熱が広がった
妻になる
その言葉が、妙に現実的に感じられた
食事が進み、会話が途切れたところで、俺は懐に意識を向けた
小さなケースが入っている
結納の日に渡そうと決めていた
自分で選んだ指輪
両家が婚約を決めたこととは関係なく
これは俺自身が、更に贈りたいと思って選んだものだ
俺は席を立った
「更」
「ん?」
「ちょっと、こっちに来て」
更が不思議そうに俺を見る
「こっち?」
「ああ」
俺はテーブルの端を回り、更のいる側へ歩いた
更の前で足を止める
「どうしたの?」
「これ」
ポケットから小さなケースを取り出す
更の目が、そのケースへ向いた
「開けて」
「……うん」
更がケースを受け取る
ゆっくり蓋を開ける
中の指輪を見た瞬間、更の目が大きくなった
「……きれい」
「気に入った?」
「うん」
更がリングを見つめる
「これ……輝が選んだの?」
「ああ」
「どうして、これにしたの?」
俺は少し考えた
「この結婚については、俺たちが決める前に、両家がいろんなことを決めたから」
更が黙って俺を見る
「だから、指輪くらいは自分で選びたかった」
「……指輪くらい?」
「ああ」
俺は更を見る
「更に贈るものだから」
少しだけ間を置く
「俺が選びたかった」
更はしばらく指輪を見つめていた
それから、顔を上げる
「……ありがとう」
さっきと同じように、頬が少し赤い
「嬉しい」
その言葉を聞いた瞬間、また胸の奥が熱くなった
俺はケースからリングを取り出した
「手、出して」
「……うん」
更が左手を差し出す
振袖の袖口から伸びた手が、俺の前にある
細い指
俺の手より、ずっと小さい
その手を取る
指先が触れた瞬間、更が少しだけ息を止めた
俺も、手を離す理由が見つからなかった
左手の薬指へリングを通す
ゆっくりと指の根元へ収める
ぴったりだった
自分が選んだリングが、更の指にある
その光景を見つめていると、不思議な感覚がした
この先も、この手を見ることになる
仕事をしているときも
食事をしているときも
俺の隣にいるときも
その指には、俺が選んだリングがある
そう考えると、胸の奥がまた熱くなった
「……似合ってる」
「本当?」
「ああ」
更が左手を少し持ち上げる
リングが午後の光を受けて、小さく輝いた
「大事にする」
その言葉が、思ったより深く残った
「……そうして」
俺は更の手を離した
ほんの数秒だった
それなのに、離したあとも指先に感触が残っていた
席へ戻る前に、もう一度だけ更を見る
更は左手のリングを眺めながら、嬉しそうに微笑んでいた
その横顔から、目を離すのに少し時間がかかった
***
結納の席が終わり、俺たちはホテルを出た
玄関へ向かう途中、更が隣を歩いている
「輝」
「ん?」
「今日はありがとう」
「指輪?」
「うん」
更が左手を見る
「すごく嬉しかった」
「そうならよかった」
少し歩く
「私も、これからのこと」
更が言葉を選ぶように続けた
「自分でちゃんと考えていきたい」
「ああ」
俺も頷く
「俺もそう思ってる」
ホテルの外へ出る
夕方の風が吹いた
更の振袖の袖が、風に揺れる
その左手には、俺が選んだリングがある
両家が決めた婚約
その事実は変わらない
それでも今日
俺たち自身の意思で、ほんの少しだけ前へ進んだ気がした
車寄せまで歩いたところで、更が立ち止まる
「じゃあ、またね」
「ああ」
更が車へ向かう
数歩進んだところで、振り返った
左手のリングが夕方の光を拾う
その手を見た瞬間、また胸の奥が熱くなった
俺はその場に立ったまま、更の姿が見えなくなるまで目で追っていた
車が動き出す
見えなくなったあとも、しばらくその方向を見ていた
自分でも、どうしてそこまで見送っていたのか分からなかった
ただ
もう少し、見ていたかった



