Héritage

 式場を出ると、午後の陽射しが白い石畳を照らしていた

 海から吹き抜ける風には、潮の香りと南国特有の湿り気が混じっている

 更は車に乗り込んでからも、窓の向こうへ何度か目を向けていた

 さっきまで二人で立っていたチャペルが、遠ざかっていく

「……そんなに気に入った?」

 声をかけると、更はこちらを向いた

「うん。だって、本当に素敵だったから」

 その表情に、思わず笑みが浮かんだ

「連れてきてよかった」

「輝は、最初からここがいいと思ってたの?」

「仕事でこっちに来たとき、たまたま見つけたんだ。実際に見て、ここなら更と結婚式を挙げたいと思った」

「そうだったんだ」

 更は窓の外へ目を戻し、遠ざかっていくチャペルを見つめた

「私、あそこに立ったとき、すぐにここがいいって思ったの」

「うん。顔を見れば分かったよ」

「そんなに分かりやすかった?」

「かなり」

 更は少し困ったように笑った

 仕事中の更は、周囲をよく見ていて、判断も早い。自分の意見を持ち、それを相手に伝えることにもためらいがない

 そんな彼女が、今は選んだ場所を思い返すように窓の外を見つめている

 その横顔を、もう少し見ていたかった

***

 ホテルに到着すると、ロビーで専属秘書が待っていた

「お帰りなさいませ。お部屋の準備は整っております。更様のお召し物と、明日の身支度についても手配済みです」

 更が驚いたように俺を見た

「……明日?」

「明日の午後にご帰国の予定です」

 秘書の説明に、更はもう一度こちらを向いた

「輝、今日帰るんじゃなかったの?」

「そのつもりはなかったよ」

「えっ?」

「せっかくここまで来たんだから、一泊していこうと思って」

 更は目を丸くしたまま、しばらく俺を見つめていた

「……最初から?」

「うん」

「だから、行き先を教えてくれなかったんだ」

「それもある」

 式場を見てもらうのが一番の目的だった

 けれど、せっかく二人でここまで来たのなら、少しくらい仕事から離れて過ごす時間があってもいい

 そう思ったから、一泊することにした

「急に決めたわけじゃないから、心配しなくていいよ。必要なものは用意してある」

「……本当に何から何まで準備してたんだね」

「俺じゃなくて、秘書のおかげだけど」

 そう言うと、秘書は表情を変えずに一礼した

「お役に立てましたら幸いです。何かございましたら、いつでもご連絡ください」

 必要な説明を終えると、秘書は静かに下がっていった

 その後ろ姿を見送ってから、更が小さく息を吐いた

「すごいね……」

「何が?」

「輝の周りって、こういう人たちが当たり前にいるんだなって思って」

「当たり前、か」

 俺にとっては、必要なことを任せられる人間がいて、予定どおりに物事が進むのが日常だった

 けれど、更には新鮮に映るらしい

「不便はさせないから」

 そう言うと、更は目を細めた

「うん。ありがとう」

 その笑顔を見て、ここまで準備してきた甲斐があったと思った

***

 案内されたスイートルームは、広い窓の向こうに海が広がっていた

 リビングから続くテラスには、二人で座れるソファが置かれている

 夕暮れの光が室内を淡く染め、水平線には沈みかけた太陽の名残があった

「わあ……」

 更は窓辺へ歩いていき、しばらく海を眺めていた

「すごく綺麗」

「気に入った?」

「うん。こんな景色を見ながら泊まれるなんて思わなかった」

「それならよかった」

 俺は彼女の隣に立った

 更は窓の向こうを見つめたまま、嬉しそうに笑っている

 この景色を見せたいと思ったのも、ここで一緒に過ごしたいと思ったのも、俺自身がそうしたかったからだ

 彼女が喜んでくれると、思っていた以上に嬉しかった

「少し休んだら、夕食に行こうか」

「うん」

「それとも、先に部屋でゆっくりする?」

「せっかくだから、少しだけ海を見ていたいな」

「分かった。時間はあるから、好きなだけ見ていればいいよ」

 更は窓の外を眺めたまま、もう一度笑った

 俺は、その隣でしばらく海を見ていた

***

 夕食は、ホテルのレストランで取った

 窓の外はすでに暗く、海面にはレストランの灯りが細く揺れている

 食事をしながら交わしたのは、結婚式の打ち合わせだけではなかった

 更が担当しているホテルの内装や、最近の仕事で苦労したこと。俺も海外での仕事について話した

 普段なら、互いの予定を気にしながら短い時間で済ませるような会話も、今日は急ぐ必要がなかった

「輝って、仕事の話をしてるときと、今とで少し違うね」

「そう?」

「うん。仕事中は、もっと隙がない感じがする」

「それは褒めてる?」

「もちろん」

 更は楽しそうに笑った

「でも、今の輝のほうが話しやすいよ」

 思いがけない言葉に、返事が一拍遅れた

「……それなら、よかった」

 グラスに手を伸ばし、口元へ運ぶ

 仕事の能力を認められることには慣れている

 けれど、更には、仕事の顔とは違う自分も知っていてほしい

 そんなことを思うようになった自分が、少し意外だった

***

 部屋に戻ると、更はテラスへ出た

 夜の海から吹いてくる風が、彼女の髪を揺らす

「気持ちいいね」

 手すりのそばで海を眺める更の隣に、俺も立った

 波の音が一定の間隔で聞こえてくる

 遠くには船の灯りが浮かんでいた

「明日の午後には帰るんだね」

 更がぽつりと言った

「そうだな」

「なんだか、あっという間」

「まだ時間はあるよ」

 そう答えると、更は俺を見上げた

「うん」

 その顔を見た瞬間、もっと近くで見たいと思った

 髪に触れたい

 肩を抱き寄せたい

 浮かんだ願いに、俺は息を止めた

 今までだって、更を大切にしたいと思っていた

 これから夫婦になる相手として、彼女の仕事も気持ちも尊重したいと考えていた

 けれど、今、隣にいる彼女に触れたいと思っている

 自分の腕の中に迎えたいと願っている

 それは、結婚相手だからというだけではなかった

 ——そうか

 俺は、更が好きなんだ

 両家が決めた婚約だからでも、兄貴の代わりになるためでもない

 更自身を、ひとりの女性として好きになっている

 気づいてしまえば、否定する理由はなかった

「……更」

「なに?」

 名前を呼んだものの、その先の言葉が見つからなかった

 更が不思議そうに俺を見つめている

 その瞳から目をそらさず、俺はゆっくりと腕を伸ばした

 肩に触れる直前、動きを止める

 突然抱きしめたら、困らせてしまうかもしれない

 迷っていると、更は俺の手に目を落とし、それから顔を上げた

 そして、ほんの一歩、俺との距離を縮めてくれた

 その仕草に背中を押され、俺は彼女を腕の中へ迎えた

 背中に腕を回す

 更の体温が、ゆっくりと伝わってきた

 頬に触れる髪が柔らかく、潮の香りに混じって、彼女のほのかな香りがした

 更は、すぐには何も言わなかった

 やがて、背中にそっと手が回る

 その瞬間、俺は彼女を抱きしめる腕に、少しだけ力を込めた

「……輝?」

 胸元から聞こえた声に、俺は顔を傾けた

「……少し、このままでいてもいい?」

 口にしてから、自分でも不思議なことを聞いたと思った

 抱きしめているのは俺なのに、離れたくないと願っているのも俺だった

 更は小さく息を吸い、それから背中に回した手に、少しだけ力を込めた

「……うん」

 その返事を聞いて、ようやく息を吐いた

 俺は目を閉じた

 腕の中にいるのは、兄貴が大切にしていた女性

 けれど、今、俺が抱きしめているのは、更だ

 俺自身が、この人に触れたいと願った

 この先も、そばにいたいと思った

 更の手が、俺の背中をそっと押さえている

 やがて、少しだけ腕を緩めた

 それでも、更はすぐには離れなかった

 胸元に頬を寄せたまま、静かにそこにいてくれた

 俺は、その背中を優しく撫でた

 夜の海から、穏やかな波の音が届いていた