Héritage

 バリ島から帰国して数日後、俺は更の職場へ連絡を入れた

 本人には、まだ何も伝えていない

 まずは仕事の都合を確認し、続いて豊嶋家にも連絡を入れた。急な話だったが、幸いにも日程の調整はついた

 あとは、更本人に伝えるだけだった

 俺はスマートフォンを手に取り、彼女の連絡先を開いた

『明日、時間を空けてほしいんだ』

 ほどなくして返信が届く

『明日? 何かあったの?』

『見せたい場所がある』

『場所?』

『明日の朝、空港まで来てくれないか』

 送信してから、少しだけ考えた

 これでは、あまりに説明が足りない

 けれど、何を見せるのかを伝えてしまったら、意味がなくなる気がした

『空港って、どこの? 何時に行けばいい?』

 更から続けてメッセージが届いた

 俺は待ち合わせの場所と時間を伝えた

『分かった。でも、どこへ行くの?』

 最後の質問に、俺は少し迷ってから返信した

『着いてからのお楽しみ。先に見せたいんだ』

 送信すると、すぐに返事が来た

『……気になるんだけど』

 画面を見ながら、思わず笑ってしまった

『悪い。明日、ちゃんと説明するよ』

『うん。じゃあ、楽しみにしてるね』

 更がどんな顔で来るのか、少し楽しみになった

 ***

 翌朝、俺は空港の専用ターミナルで更を待っていた

 出発の準備はすでに整っている

 やがて、入口の向こうに更の姿が見えた

「輝、おはよう」

「おはよう。朝から呼び出して悪かったな」

「ううん。職場にも家にも連絡してくれたんでしょう? 急だったのに、ありがとう」

「俺が急に決めたことだから」

 そう答えると、更は俺の顔をじっと見た

「それで、今日はどこに行くの?」

「それは、着いてから」

「まだ教えてくれないの?」

「うん。今回は、先に見てほしいんだ」

 更は少しだけ頬を膨らませた

「気になるなあ」

「分かってる。でも、最初に見たときの気持ちを大切にしたいから」

 俺はそう伝えた

 写真も、説明も、何もない状態で見てほしかった

 更が何を感じるのか、俺自身も知りたかったからだ

 彼女は俺の顔を見つめたあと、ふっと笑った

「そこまで言うなら、楽しみにしておくね」

「うん。そうしてくれると嬉しい」

 俺は更を機体へ案内した

 目の前にあるのは、神崎家が所有するプライベートジェットだった

 更は足を止め、機体を見上げた

「……これに乗るの?」

「そうだよ」

「ということは、海外?」

「正解」

 俺が答えると、更は驚いたように目を丸くした

「そんな遠くまで行くのに、何も教えてくれなかったの?」

「先に知ってしまうと、いろいろ考えるだろう?」

「それは、そうだけど……」

 更は困ったように笑いながら、もう一度機体を見上げた

「本当に、今日はびっくりすることばかりだね」

「たまには、こういうのもいいだろう?」

「うん。こんなふうに誘われたのは初めて」

 その言葉に、俺は少しだけ照れくさくなった

 普段なら、行き先も予定も先に伝えて、都合を確認してから誘う

 今回は、どうしても早く見せたかった

 その気持ちに、自分でも少し驚いていた

 ***

 機体が離陸してしばらくすると、更は窓の外を眺めていた

 雲の上へ出ると、朝の光が機内いっぱいに広がった

「どこへ向かっているのか、少しは教えてくれてもいいんじゃない?」

 更がこちらを向いた

「まだ秘密」

「輝って、こんなに意地悪だった?」

「そうかな」

「そうだよ。いつもは、もっとちゃんと説明してくれるのに」

 確かに、その通りだった

 自分でも、少し強引だと思っている

 けれど、今回は譲る気になれなかった

「ごめん。でも、着いたら分かるから」

 更は俺の顔を見たあと、窓の外へ目を戻した

「……分かった。楽しみにしておく」

 その声には、少しだけ期待が混じっていた

 俺はその横顔を見ながら、現地での景色を思い浮かべた

 あの海と、空と、白いチャペル

 初めて目にしたとき、そこに更が立つ姿が自然と浮かんだ

 今度は、彼女自身に見てほしかった

 ***

 機体がバリ島に到着したのは、現地の午後だった

 空港を出ると、湿り気を含んだ温かな風が頬を撫でた

 濃い緑の木々。石造りの門。色鮮やかな花々

 車窓を流れる景色は、日本とはまるで違っていた

「ここ、バリ島なんだね」

 更が窓の外を眺めながら言った

「うん。仕事で来たときに、見つけたんだ」

「仕事で?」

「そう。移動中に偶然見かけて、気になって立ち寄った」

「それで、私を連れてきてくれたの?」

「実際に見てほしいと思ったんだ」

 更は俺を見たが、それ以上は尋ねなかった

 車は海沿いの道を進み、やがて木々の向こうに白い建物が見えてきた

 俺は窓の外へ目を向けた

 初めて訪れたときと同じ景色だった

 けれど、今日は隣に更がいる

「着いたよ」

 車が停まり、俺たちは外へ出た

 潮の香りを含んだ風が吹き抜ける

 遠くから波の音が聞こえていた

 更は案内された先へ歩き、チャペルの入口で足を止めた

 大きなガラス窓の向こうに、青い海が広がっている

 白を基調とした空間の先には、どこまでも続く水平線

 空と海の境目が、光の中で溶け合うように見えた

 更は、その場から動かなかった

 俺は彼女の横顔を見つめていた

 しばらくして、更がゆっくりと息を吐いた

「……ここがいい」

 思いがけない言葉だった

「え?」

 俺が聞き返すと、更は海を見つめたまま、もう一度言った

「私、ここで結婚式を挙げたい」

 その声には、迷いがなかった

 会場の広さや設備について、何も尋ねなかった

 写真と実物の違いを比べることもなかった

 ただ、初めてこの場所を目にした瞬間に、そう思ったのだと分かった

 俺は、思わず笑みをこぼした

「……よかった」

 更がこちらを向いた

「輝も、ここがいいと思ったんでしょう?」

「うん。俺も、ここで式を挙げたいと思った」

「どうして?」

 その問いに、俺は祭壇の向こうへ目を向けた

 青い海と、まっすぐに伸びる水平線

 国内で見て回った式場は、どこも立派だった。神崎家と豊嶋家の結婚式にふさわしく、招待客への配慮も行き届いていた

 けれど、そこに自分が立つ姿を想像しても、どこか現実味がなかった

 ここでは違った

 初めてこの景色を見たとき、祭壇の前に立つ自分と、その隣にいる更の姿が自然と浮かんだ

「国内で見た会場は、どこも素敵だった。でも、どこで式を挙げても、家のために用意された場所を選んでいるような気がしていたんだ」

 俺は言葉を探しながら続けた

「もちろん、両家のことも招待する人たちのことも大切だよ。でも、俺たちが夫婦になる日だから、俺自身がここで結婚したいと思える場所を選びたかった」

 更は黙って聞いていた

「ここに立ったとき、初めて自分の結婚式を具体的に想像できたんだ。更と一緒に、この景色を見ながら式を挙げたいと思った」

 言い終えると、少し照れくさくなった

 けれど、目をそらす気にはならなかった

「だから、更にも見てほしかった。俺が気に入ったからって、勝手に決めるつもりはなかったけど……」

「うん」

「更がここを見て、どう感じるのか知りたかったんだ」

 更は再び海へ目を向けた

 風が頬を撫で、遠くで波が砕ける音が響いている

 やがて、彼女は俺のほうを向いた

「私も、ここがいい」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の内にあった迷いが消えていった

 俺が選びたいと思った場所を、更も選んでくれた

 それが、何より嬉しかった

「じゃあ、ここを第一候補にしよう。詳しいことはスタッフにも確認して、日程や招待客のことも含めて考えていこう」

「うん」

 更は海を見つめながら、柔らかく笑った

 その表情を見て、俺は思った

 この場所を見つけてよかった

 そして、更を連れてきてよかった

 俺たちがこれから夫婦になる

 そのことを、ここでなら、誰かに決められたことではなく、自分たちの選択として迎えられる気がした

 目の前には、どこまでも青い海が広がっていた

 俺は隣に立つ更と一緒に、その景色を見つめていた