Héritage

 最初に訪れた式場は、都内の一流ホテルだった

 天井の高い披露宴会場には大きなシャンデリアが輝き、壁際には季節の花が美しく飾られている。窓の向こうには手入れの行き届いた庭園が広がり、どこを見ても隙がなかった

「素敵な会場だね」

 隣を歩く更が、窓辺で足を止めた

「うん。設備も申し分ないし、招待客のことを考えても使いやすそうだ」

「そうだね。ここなら、いろいろな年代の方にも過ごしやすいと思う」

 更は窓から差し込む光を確かめるように、少し場所を移動した

 仕事柄、空間を見る目は細かい

 照明の配置や花の飾り方、ゲストが移動する動線まで、ひとつずつ確認していた

「どう?」

 俺が尋ねると、更は会場をもう一度見渡した

「本当に素敵。でも……」

「でも?」

「私たちがここで式を挙げるところを想像すると、まだ少し違う気がするの」

 俺は窓の外へ目を向けた

 確かに、申し分のない会場だった

 ここで結婚式を挙げれば、誰からも不満は出ないだろう。神崎家と豊嶋家の結婚にふさわしい場所だと、誰もが納得するはずだ

 けれど、俺自身がそこで結婚式を挙げたいと思えるかと聞かれれば、答えに迷った

「俺も、同じことを考えていた」

 更がこちらを向いた

「輝も?」

「うん。いい会場だとは思う。でも、ここに決めたいって気持ちには、まだなれないんだ」

 更は少し安心したように笑った

「よかった。私だけなのかと思った」

「二人で決めるんだから、どちらかが無理に合わせる必要はないだろう?」

「そうだね」

 その日は候補のひとつとして資料を持ち帰り、次の会場を見に行くことにした

 ***

 それから数日かけて、俺たちはいくつかの式場を巡った

 庭園の緑に囲まれた邸宅風の会場もあれば、歴史ある建物を改装した格式高い式場もあった

 更はそのたびに、楽しそうに細部を見て回った

 壁の素材に触れ、窓から差し込む光を確かめ、時にはスタッフに細かな質問までしている

 仕事の話になると、彼女の表情は一段と生き生きしていた

「この床材、光の当たり方で色が変わって見えるの。写真で見るより、実際に来てよかった」

 そう言って振り返った更の顔には、仕事に向き合う真剣さと、純粋な楽しさが同居していた

「本当に詳しいんだな」

「毎日こういうことを考えているからね。気になり始めると、いろいろ見たくなっちゃうの」

「それなら、今日も来てよかった」

「うん。輝も一緒に見てくれるから、意見が聞けて嬉しい」

 さらりと告げられた言葉に、返事が一瞬遅れた

 更は特に意識した様子もなく、次の展示へと歩いていく

 俺もその隣に並んだ

 こうして二人で何かを選ぶことは、思っていた以上に楽しかった

 仕事で必要なものを決めるときは、条件を比較して、最善だと思うものを選べばいい

 けれど、結婚式場は違う

 便利だから、格式があるから、それだけでは決められない

 更が何を美しいと思うのか、何を大切にしたいのか

 自分がどんな場所で彼女と夫婦になりたいのか

 考えるべきことは、思っていたより多かった

 それでも、急いで決めるつもりはなかった

 いつか二人で、ここだと思える場所に出会えればいい

 ***

 翌週、俺は仕事でバリ島へ向かった

 神崎グループが進めている海外事業の打ち合わせと、現地の関係者との会談が予定されていた

 日本を発つ前から予定は詰まっていたが、到着してからも状況は変わらなかった

 ホテルにチェックインすると、すぐに資料を確認し、翌日の会議に備えた

 窓の外からは、南国特有の湿り気を含んだ風が吹き込んでくる

 日本とは違う空気だった

 翌朝からの打ち合わせは順調に進み、午後には次の訪問先へ向かうことになった

 車窓から見える景色は、街の賑わいを抜けるにつれて少しずつ変わっていく

 鮮やかな緑の木々。石造りの門。道端に供えられた花

 その先に、青い海が見えた

 目的地へ向かう途中、現地の担当者が今後の開発計画について説明していた

 俺は資料に目を通しながら話を聞いていたが、ふと、窓の向こうに目を留めた

 海岸線の先に、白い建物が見えた

 青空を映す大きなガラス窓。その向こうには、どこまでも続く海が広がっている

「今見えた建物は?」

 俺が尋ねると、担当者が窓の外を振り返った

「あちらは海沿いのウェディングチャペルです。海外から結婚式を挙げに来る方も多いんですよ」

「ウェディングチャペル……」

 思わず、その言葉を繰り返していた

 車が先へ進むにつれて、建物は木々の向こうに隠れていった

 けれど、あの景色が頭から離れなかった

 ***

 その日の仕事を終えたあと、俺は担当者に頼んで、先ほど見かけたチャペルを訪れることにした

 観光が目的ではない

 ただ、もう一度、あの建物を見てみたかった

 車を降りると、潮の香りを含んだ風が頬を撫でた

 頭上には雲ひとつない空が広がり、遠くから波の音が聞こえてくる

 案内された先で、俺は足を止めた

 大きなガラス窓に囲まれたチャペルだった

 白を基調とした空間に、温かみのある木の曲線が伸びている。天井から差し込む光が床を明るく照らし、祭壇の向こうにはインド洋が広がっていた

 視界を遮るものは、ほとんどない

 青い海と空がひと続きになり、その境目には水平線がまっすぐに伸びている

 波が陽光を受けてきらめくたび、海面の色がわずかに変わった

 飾り立てなくても、この景色そのものが、ひとつの完成された空間になっていた

 俺はゆっくりとチャペルの中を歩いた

 祭壇の前に立つと、窓の向こうに広がる海が、さっきよりも近く感じられた

 国内で見て回った式場が、ふと頭に浮かんだ

 どこも美しかったし、神崎家と豊嶋家の結婚式にふさわしい場所だった。招待客への配慮も行き届いていて、式を滞りなく進めるための条件も揃っていた

 それでも、そこで自分が結婚式を挙げる姿を想像してみても、どこか現実味がなかった

 立派な会場で、両家の人々に囲まれ、決められた手順に沿って式を進める

 それは、きっと何の問題もなくできるだろう

 けれど、俺自身がその日を心待ちにする気持ちまでは、まだ生まれていなかった

 ここでは違った

 祭壇の向こうに広がる海を見た瞬間、隣に立つ更の姿が浮かんだ

 彼女がどんな表情でこの景色を見るのか、どこに目を留め、何を感じるのか

 そんなことまで考えていた

 俺は、家を継ぐためだけに結婚するわけじゃない

 兄貴の代わりになるためでもない

 更と、これからの人生を一緒に歩いていく

 そのために結婚するのだと、あの夜、自分の言葉で伝えた

 なら、式を挙げる場所だって、家の格式や周囲の期待だけで決めたくはなかった

 ここなら、誰かにふさわしいと言われたからではなく、俺自身がここで更と結婚したいと思える

 そして、更にも同じ景色を見てほしい

 彼女がこの場所を気に入るかどうかは、まだ分からない

 それでも、ここを見せたいと思った

 俺は窓の向こうの水平線を見つめた

 ここだ

 初めて、自分の結婚式を心から楽しみにできる場所に出会った気がした

 ***

 チャペルを出たあとも、俺は何度か振り返った

 敷地の向こうに広がる海は、夕方の光を受けて深い青に変わり始めていた

 潮風がシャツの袖を揺らし、遠くで波が砕ける音がする

 仕事で訪れた場所で、まさかこんなものに出会うとは思っていなかった

 俺はスマートフォンを取り出し、チャペルの写真を見返した

 何枚か撮った中から、祭壇と海が一緒に写っている一枚を選ぶ

 最初に思い浮かんだのは、両親に報告することではなかった

 更に見せたい

 この景色を見たら、彼女はどんな顔をするだろう

 窓の大きさや光の入り方を確かめるように、きっと細かなところまで見て回るに違いない

 そして、気に入った場所があれば、いつものように自分の考えを話してくれるのだろう

 そんな姿が、自然と浮かんだ

 俺は更とのメッセージ画面を開いた

 写真を送ろうとして、指が止まる

 まだ、ここに決めたわけではない

 更の意見も聞きたいし、二人で実際に見てみなければ分からないこともある

 それでも、この場所を最初に伝えたい相手は、もう決まっていた

 俺は写真を保存し、スマートフォンをポケットにしまった

 帰国したら、更に話そう

 そして、もし彼女も気に入ってくれたなら、今度は二人でここへ来たい

 目の前には、夕暮れの海がどこまでも広がっていた

 俺はもう一度、その景色を目に焼きつけた