『白い盾 〜不器用なドクターの特効薬〜』

「……本当に、私でいいのかな」

薬局でのあの騒動から数週間。

日向に処方してもらった、小さくて飲みやすい錠剤を毎日忘れずに飲み続けたおかげで、亜耶奈の胃の症状はすっかり落ち着いていた。

身体は、もうどこも悪くない。

それなのに、亜耶奈の胸の奥には、いつの間にか重く冷たい塊が居座り続けていた。

自分のような、面倒なトラウマを抱えた女が隣にいることで、彼の輝かしいキャリアや、ただでさえ忙しい日々に、取り返しのつかない迷惑をかけているのではないか。

彼は優しいから、放っておけないだけなのではないか。

そんな考えが、頭から離れなかった。

一度入り込んでしまった思い込みの迷宮には、出口が見つからなかった。

*

仕事終わり、クリニックの裏口から出たところで、亜耶奈は山下に呼び止められた。

「千歳さん。ちょっとだけ付き合ってくんない?」

「え? どこにですか?」

「いいから、いいから。神楽のやつに会いに行こうぜ」

断る間もなく連れてこられたのは、日向の勤務する総合病院だった。

山下に案内され、亜耶奈は隠れるようにして日向の外来をそっと覗き込んだ。

診察室の中の日向は、白衣をきちんと着こなし、カルテを見つめながら、患者に理路整然と説明を続けていた。

その姿には無駄がなく、落ち着いていて、隙もない。

まさに、誰もが信頼を寄せる「優秀な消化器内科医・神楽先生」そのものだった。

亜耶奈がじっと見つめていると、隣に立つ山下が肩をポンと叩いた。

「……な? あいつ、患者の前ではあんなに冷静だろ?」

「……はい」

「でもさ、あんたのことになると、あいつ、本当に周りが見えなくなるんだよ」

山下は、少しだけ真面目な顔になった。

「あの夜間救急のときだって、部長に直談判して、俺にまで必死になって連絡してきてさ。あんなに私情を仕事に持ち込んで、余裕をなくしてる神楽日向なんて、医局の誰も見たことがないんだ」

亜耶奈は、診察室の中の日向を見つめたまま、黙って話を聞いていた。

「医者としてのあいつは、そりゃ優秀だよ。だけど、あんたの前じゃ完璧な医者でいることより、あんたが怖がってないか、ちゃんと安心できてるか、そっちのほうが大事になっちまうらしい」

「……私のせいで、迷惑をかけているんじゃないでしょうか」

「迷惑?」

山下は、呆れたように眉を上げた。

「おいおい。あいつがどれだけ必死になってるか、見てて分かんない?」

「でも……」

「いいか、千歳さん。あいつの気持ちを、同情だなんて安っぽい言葉で片付けちゃ、男として可哀想だろ?」

山下は、亜耶奈の背中を軽く押した。

「ほら。早く行ってやりな。あいつ、あんたの顔を見たら、きっとびっくりするぞ」

亜耶奈は一度、深呼吸をした。

そして、診察室のドアをトントン、と控えめにノックした。

「はーい。どうされました?」

そっとドアを開け、亜耶奈は中へ入った。

「あの……神楽先生」

「え?」

カルテに向かっていた日向が振り返る。

そこにいるはずのない亜耶奈の姿に驚いた日向は、座っていたキャスター付きの丸椅子ごと、後ろへ大きく傾いた。

「うわっと、ととっ!?」

ガシャーン!

派手な音を立てて、日向は床に尻餅をついた。

「ぶはっ! はははは! お前、何やってんだよ!」

廊下から様子を見ていた山下が、大爆笑しながら診察室へ入ってきた。

突然の大きな音に驚いた看護師たちも、慌てて駆け込んでくる。

「神楽先生、大丈夫ですか!?」

「だ、大丈夫です! 何でもありません! すみません、驚かせてしまって!」

日向は顔を真っ赤にしながら立ち上がり、看護師たちに頭を下げた。

看護師たちが心配そうにしながらも診察室を出ていくと、日向は山下を睨みつけた。

「山下……お前、千歳さんを連れてきたの、お前だな?」

「おうよ!」

山下は悪びれる様子もなく、にやりと笑った。

「じゃ、二人でごゆっくり~」

「おい、待て!」

日向の声を背に、山下は楽しそうに出ていった。

診察室に残された二人。

日向は、亜耶奈に向き直ると、先ほどまでの慌てぶりが嘘のように心配そうな表情になった。

「でっ……でも、どうしたの? 調子が悪くなっちゃった? だったら電話で教えてくれればよかったのに。大丈夫?」

「だ、大丈夫です。どこも悪くありません」

亜耶奈は、うつむいた。

「ただ……私、日向さんの迷惑になっていないかなって、考えてしまって……。出口のない迷路に入ってしまったみたいで……。山下先生が、ここまで連れてきてくださったんです」

日向の表情から、笑みが消えた。

亜耶奈は、消え入りそうな声で続けた。

「日向さんは、本当に私でいいんですか?」

「……亜耶奈さん」

「たかが病院っていうだけで、私はビクビクしてしまうし、怖くなったら何もできなくなるし……。治療だって、すぐに受け入れられないし……」

声が震えた。

「日向さんは、こんな私に付き合っていたら、疲れてしまうんじゃないかって……。私がいることで、仕事にも迷惑をかけているんじゃないかって……」

最後まで言い切る前に、日向がそっと亜耶奈の肩を抱き寄せた。

「迷惑なわけないだろう……!」

思わず強くなった声に、日向は一度息を整えた。

そして、今度はゆっくりと、亜耶奈に語りかけた。

「『たかが病院』なんかじゃない。君にとっては、大切な人に置き去りにされた、世界で一番孤独で恐ろしい場所だったんだろう?」

亜耶奈の目が揺れた。

「そんな場所を怖がる君に、怖がるな。なんて言えるわけがない。君が病院を怖がるなら、俺が何度だって手を握る。君が迷子になったら、俺が迎えに行く」

日向は、亜耶奈の顔を覗き込んだ。

「だから、本当に俺でいいのかな、なんて言わないでほしい」

「……日向さん」

「俺はね、君の前では完璧なお医者様でいられないんだよ。君が不安そうにしていたら、放っておけない。君が泣きそうな顔をしていたら、どうしたら安心してもらえるか、そればかり考えてしまう」

日向は、少し照れくさそうに笑った。

「そんな自分に、俺自身が驚いているくらいなんだ。でも、それが嫌だなんて思ったことは一度もないよ」

「……本当に?」

「本当だよ。君が怖がることも、すぐにはできないことも、君の一部だろう? だったら、そこも含めて君を知っていきたいんだ」

亜耶奈の目に、涙が浮かんだ。

「……ありがとう、日向さん」

「うん」

「私、まだ怖いこともたくさんあるし、これからも迷惑をかけてしまうかもしれません。それでも……これからも、そばにいてくれますか?」

日向は、亜耶奈の肩を抱く腕に、そっと力を込めた。

「もちろん。俺のほうこそ、これからもよろしくお願いします」

亜耶奈は、涙を拭いながら小さく笑った。

まだ、すべての不安が消えたわけではない。

けれど、自分の気持ちを伝えられたこと。そして、日向がその気持ちを受け止めてくれたこと。

それだけで、心の中の迷宮に、小さな出口が見えた気がした。

*

「……さて、と」

日向は亜耶奈からそっと離れ、机の上の書類に目をやった。

「今日の書類仕事、あと少しなんだけどな……」

そのとき、廊下から山下の声が聞こえた。

「おーい、神楽! 俺、まだいるからなー! 逃げんなよー!」

「……あいつ!」

日向は思わず額に手を当てた。

亜耶奈が、くすっと笑う。

その笑顔を見て、日向もつられて笑った。

「……亜耶奈さん。よかったら、今日はこのあと一緒に帰らない?」

「え?」

「前に約束しただろう? お腹に優しいお粥を作るって。今日は、ちゃんと作りに行きたいんだ」

亜耶奈は、少し驚いたあと、嬉しそうに頷いた。

「……はい。喜んで」

日向は、机の上の書類をまとめながら、山下に聞こえるように声を張った。

「山下ー! 悪いけど、残りの書類を少し手伝ってくれないかー!」

「はあ!? ふざけんな! 何で俺がお前の仕事を手伝わなきゃいけねえんだよ!」

廊下から、すぐさま怒鳴り声が返ってきた。

亜耶奈は、とうとう声を立てて笑ってしまった。

日向も苦笑しながら、彼女に向き直った。

「……明日の朝、ちゃんと残りは片付けるから。今日は少しだけ、君と一緒にいたいんだ」

その言葉に、亜耶奈の頬がほんのり赤くなった。

「……はい」

二人は、並んで病院を後にした。

*

車が駐車場を出て間もない頃、日向のスマートフォンが震えた。

画面には【山下】の文字。

日向がハンズフリーで電話に出ると、案の定、怒り心頭の声が飛び込んできた。

『おーい、神楽ァ! お前、未処理カルテを俺のデスクに積んで帰るのは、人の血が通ってねえだろ! 八割がた、俺の居残り確定じゃねえか!』

「ごめん! ごめん、山下! 本当に悪かったって!」

日向は、亜耶奈のほうをちらりと見て、苦笑した。

「明日の朝イチで、残りの仕事は全部俺が引き受けるから! 医局のコーヒーも一箱奢る! あと今度、亜耶奈さんと一緒に、世界一美味いプリンも奢るから!」

『……チッ。プリンは絶対、特上のやつな』

「分かった、分かった!」

『千歳さんによろしくな』

「うん。ありがとう、山下」

電話を切ると、日向は申し訳なさそうに笑った。

「……ごめんね。騒がしくて」

「ふふっ。山下先生、日向さんのことを本当に心配してくださっているんですね」

「心配というか、怒ってるんだと思うけど……」

二人は顔を見合わせて笑った。

*

しばらくして、日向の高級タワーマンションに到着した。

部屋に案内された亜耶奈は、玄関を入った途端、目を丸くした。

「なっ……何、この部屋……。広すぎる!」

「あはは、やっぱり驚くよね」

日向は少し照れくさそうに笑った。

「実家が少し大きな病院を経営していてさ。僕がこの総合病院に勤務するって決まったとき、親が勝手に用意してくれたんだ」

「えっ……日向さんのご実家は、病院を経営されているんですか?」

亜耶奈は、はっと顔を上げた。

「もしかして……銀座の神楽総合病院、ですか?」

「あれ? 何で知ってるの?」

「何でって……私の働いているクリニック、神楽総合病院の職員健診をすべて請け負っているんです!」

日向は、目を見開いた。

「ええっ!?」

「毎年、お父様である院長先生の人間ドックのご案内も、私が担当させていただいていて……」

「嘘だろ……。親父のドック、亜耶奈さんが担当してたの!?」

「はい。じゃあ、私、毎年二回、お父様とお母様にお会いしていたんですね」

亜耶奈は不思議そうに首を傾げた。

「ご自分の病院で健診を受けられればいいのに、どうしてこちらを利用されているのか、理由は知らなかったんです」

「ああ、それはね……」

日向は、思い出したように笑った。

「『自分の病院だと、周りが気を使いすぎるから、たまには非日常を味わえる高級ホテルみたいなところで、夫婦デートを兼ねて健診を受けたい』んだってさ」

「ええっ……デートですか?」

「そう。うちの両親、そういうところがあるんだよ」

日向は肩をすくめた。

「でも、まさかその非日常の空間で、僕が大切に思っている人が親父たちを案内してくれていたなんて、夢にも思っていないだろうね」

「……日向さんが、大切に思っている人?」

亜耶奈の声が、小さくなった。

日向は、彼女を見つめた。

「うん。亜耶奈さんのことだよ」

まっすぐに伝えられた言葉に、亜耶奈の頬が赤くなる。

日向も少し照れたように笑った。

「……さて。ちょっと真面目な話をしてもいいかな?」

「……はい」

日向の表情が、医師としての真剣なものに変わった。

「薬で症状は落ち着いているけど、一度、きちんと検査を受けておいたほうがいいと思っているんだ」

亜耶奈の身体が、わずかに強張った。

日向は、それに気づいて言葉を続けた。

「診察室で話したら、怖くなってしまうかもしれないと思って、あのときは詳しく話さなかった。でも、症状が落ち着いていることと、原因がはっきりしていることは別なんだ」

「……検査」

「うん。ただ、何をするか分からないまま進めるつもりはないよ。必要な検査と、その理由をきちんと説明する。どんな方法があるのかも、一緒に考えよう」

日向は、亜耶奈の目を見て、穏やかに言った。

「俺がそばにいるから、怖くないよ……なんて、簡単には言えない。でも、怖い気持ちを抱えたまま、ひとりで頑張らせるつもりもないんだ」

亜耶奈は、日向の言葉をじっと聞いていた。

「……日向さんが一緒にいてくれるなら、私、検査を受けてみたいです」

「本当に?」

「はい。怖いです。でも、ずっと分からないままなのも不安だから……。日向さんと相談しながら、頑張ってみたいです」

日向の表情が、ふっと和らいだ。

「ありがとう。じゃあ、次の診察のときに、検査の内容や日程を一緒に決めよう。無理のない方法を考えていこうね」

「……はい」

「それから、もうひとつ」

日向は、少しだけ呆れたような顔をした。

「亜耶奈さん、健康診断は受けている?」

「えっ……」

「……その反応、受けていないね?」

「い、いえ、その……」

「やっぱり」

日向は、困ったように笑った。

「他人の健診スケジュールは完璧に管理しているのに、自分のことは後回しにしていたんだね」

亜耶奈は、何も言い返せなかった。

「十月に、僕がそっちのクリニックへ健診に行く予定があるんだよね。そのときに、亜耶奈さん自身の健康診断についても相談しよう。必要な検査を確認して、君が受けられそうな方法を一緒に考えたい」

「……全部、ですか?」

「必要なものを、きちんと相談してからね」

日向は、安心させるように微笑んだ。

「怖い検査があったら、事前に説明するし、できるだけ負担の少ない方法を考える。僕がずっと隣にいられるかどうかも含めて、ちゃんと調整するから」

「……本当に、隣にいてくれるんですか?」

「もちろん。だけど、無理やり受けさせたりはしないよ。亜耶奈さんが納得して、一歩ずつ進めることが大切だから」

亜耶奈は、ほっとしたように微笑んだ。

「……ありがとうございます、日向さん」

「うん。こちらこそ、話してくれてありがとう」

日向は、亜耶奈の手をそっと握った。

「これからも、ひとりで抱え込まないでね。迷ったときは、一緒に考えよう」

亜耶奈は、その手を握り返した。

胸の奥にあった冷たい塊が、完全に消えたわけではない。

それでも今は、ひとりで答えを探さなくてもいいのだと思えた。

答えのない迷宮の中にも、隣を歩いてくれる人がいる。

そのことが、亜耶奈にとって何よりの支えだった。