「……本当に、私でいいのかな」
薬局でのあの騒動から数週間。
日向に処方してもらった、小さくて飲みやすい錠剤を毎日忘れずに飲み続けたおかげで、亜耶奈の胃の症状はすっかり落ち着いていた。
身体は、もうどこも悪くない。
それなのに、亜耶奈の胸の奥には、いつの間にか重く冷たい塊が居座り続けていた。
自分のような、面倒なトラウマを抱えた女が隣にいることで、彼の輝かしいキャリアや、ただでさえ忙しい日々に、取り返しのつかない迷惑をかけているのではないか。
彼は優しいから、放っておけないだけなのではないか。
そんな考えが、頭から離れなかった。
一度入り込んでしまった思い込みの迷宮には、出口が見つからなかった。
*
仕事終わり、クリニックの裏口から出たところで、亜耶奈は山下に呼び止められた。
「千歳さん。ちょっとだけ付き合ってくんない?」
「え? どこにですか?」
「いいから、いいから。神楽のやつに会いに行こうぜ」
断る間もなく連れてこられたのは、日向の勤務する総合病院だった。
山下に案内され、亜耶奈は隠れるようにして日向の外来をそっと覗き込んだ。
診察室の中の日向は、白衣をきちんと着こなし、カルテを見つめながら、患者に理路整然と説明を続けていた。
その姿には無駄がなく、落ち着いていて、隙もない。
まさに、誰もが信頼を寄せる「優秀な消化器内科医・神楽先生」そのものだった。
亜耶奈がじっと見つめていると、隣に立つ山下が肩をポンと叩いた。
「……な? あいつ、患者の前ではあんなに冷静だろ?」
「……はい」
「でもさ、あんたのことになると、あいつ、本当に周りが見えなくなるんだよ」
山下は、少しだけ真面目な顔になった。
「あの夜間救急のときだって、部長に直談判して、俺にまで必死になって連絡してきてさ。あんなに私情を仕事に持ち込んで、余裕をなくしてる神楽日向なんて、医局の誰も見たことがないんだ」
亜耶奈は、診察室の中の日向を見つめたまま、黙って話を聞いていた。
「医者としてのあいつは、そりゃ優秀だよ。だけど、あんたの前じゃ完璧な医者でいることより、あんたが怖がってないか、ちゃんと安心できてるか、そっちのほうが大事になっちまうらしい」
「……私のせいで、迷惑をかけているんじゃないでしょうか」
「迷惑?」
山下は、呆れたように眉を上げた。
「おいおい。あいつがどれだけ必死になってるか、見てて分かんない?」
「でも……」
「いいか、千歳さん。あいつの気持ちを、同情だなんて安っぽい言葉で片付けちゃ、男として可哀想だろ?」
山下は、亜耶奈の背中を軽く押した。
「ほら。早く行ってやりな。あいつ、あんたの顔を見たら、きっとびっくりするぞ」
亜耶奈は一度、深呼吸をした。
そして、診察室のドアをトントン、と控えめにノックした。
「はーい。どうされました?」
そっとドアを開け、亜耶奈は中へ入った。
「あの……神楽先生」
「え?」
カルテに向かっていた日向が振り返る。
そこにいるはずのない亜耶奈の姿に驚いた日向は、座っていたキャスター付きの丸椅子ごと、後ろへ大きく傾いた。
「うわっと、ととっ!?」
ガシャーン!
派手な音を立てて、日向は床に尻餅をついた。
「ぶはっ! はははは! お前、何やってんだよ!」
廊下から様子を見ていた山下が、大爆笑しながら診察室へ入ってきた。
突然の大きな音に驚いた看護師たちも、慌てて駆け込んでくる。
「神楽先生、大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫です! 何でもありません! すみません、驚かせてしまって!」
日向は顔を真っ赤にしながら立ち上がり、看護師たちに頭を下げた。
看護師たちが心配そうにしながらも診察室を出ていくと、日向は山下を睨みつけた。
「山下……お前、千歳さんを連れてきたの、お前だな?」
「おうよ!」
山下は悪びれる様子もなく、にやりと笑った。
「じゃ、二人でごゆっくり~」
「おい、待て!」
日向の声を背に、山下は楽しそうに出ていった。
診察室に残された二人。
日向は、亜耶奈に向き直ると、先ほどまでの慌てぶりが嘘のように心配そうな表情になった。
「でっ……でも、どうしたの? 調子が悪くなっちゃった? だったら電話で教えてくれればよかったのに。大丈夫?」
「だ、大丈夫です。どこも悪くありません」
亜耶奈は、うつむいた。
「ただ……私、日向さんの迷惑になっていないかなって、考えてしまって……。出口のない迷路に入ってしまったみたいで……。山下先生が、ここまで連れてきてくださったんです」
日向の表情から、笑みが消えた。
亜耶奈は、消え入りそうな声で続けた。
「日向さんは、本当に私でいいんですか?」
「……亜耶奈さん」
「たかが病院っていうだけで、私はビクビクしてしまうし、怖くなったら何もできなくなるし……。治療だって、すぐに受け入れられないし……」
声が震えた。
「日向さんは、こんな私に付き合っていたら、疲れてしまうんじゃないかって……。私がいることで、仕事にも迷惑をかけているんじゃないかって……」
最後まで言い切る前に、日向がそっと亜耶奈の肩を抱き寄せた。
「迷惑なわけないだろう……!」
思わず強くなった声に、日向は一度息を整えた。
そして、今度はゆっくりと、亜耶奈に語りかけた。
「『たかが病院』なんかじゃない。君にとっては、大切な人に置き去りにされた、世界で一番孤独で恐ろしい場所だったんだろう?」
亜耶奈の目が揺れた。
「そんな場所を怖がる君に、怖がるな。なんて言えるわけがない。君が病院を怖がるなら、俺が何度だって手を握る。君が迷子になったら、俺が迎えに行く」
日向は、亜耶奈の顔を覗き込んだ。
「だから、本当に俺でいいのかな、なんて言わないでほしい」
「……日向さん」
「俺はね、君の前では完璧なお医者様でいられないんだよ。君が不安そうにしていたら、放っておけない。君が泣きそうな顔をしていたら、どうしたら安心してもらえるか、そればかり考えてしまう」
日向は、少し照れくさそうに笑った。
「そんな自分に、俺自身が驚いているくらいなんだ。でも、それが嫌だなんて思ったことは一度もないよ」
「……本当に?」
「本当だよ。君が怖がることも、すぐにはできないことも、君の一部だろう? だったら、そこも含めて君を知っていきたいんだ」
亜耶奈の目に、涙が浮かんだ。
「……ありがとう、日向さん」
「うん」
「私、まだ怖いこともたくさんあるし、これからも迷惑をかけてしまうかもしれません。それでも……これからも、そばにいてくれますか?」
日向は、亜耶奈の肩を抱く腕に、そっと力を込めた。
「もちろん。俺のほうこそ、これからもよろしくお願いします」
亜耶奈は、涙を拭いながら小さく笑った。
まだ、すべての不安が消えたわけではない。
けれど、自分の気持ちを伝えられたこと。そして、日向がその気持ちを受け止めてくれたこと。
それだけで、心の中の迷宮に、小さな出口が見えた気がした。
*
「……さて、と」
日向は亜耶奈からそっと離れ、机の上の書類に目をやった。
「今日の書類仕事、あと少しなんだけどな……」
そのとき、廊下から山下の声が聞こえた。
「おーい、神楽! 俺、まだいるからなー! 逃げんなよー!」
「……あいつ!」
日向は思わず額に手を当てた。
亜耶奈が、くすっと笑う。
その笑顔を見て、日向もつられて笑った。
「……亜耶奈さん。よかったら、今日はこのあと一緒に帰らない?」
「え?」
「前に約束しただろう? お腹に優しいお粥を作るって。今日は、ちゃんと作りに行きたいんだ」
亜耶奈は、少し驚いたあと、嬉しそうに頷いた。
「……はい。喜んで」
日向は、机の上の書類をまとめながら、山下に聞こえるように声を張った。
「山下ー! 悪いけど、残りの書類を少し手伝ってくれないかー!」
「はあ!? ふざけんな! 何で俺がお前の仕事を手伝わなきゃいけねえんだよ!」
廊下から、すぐさま怒鳴り声が返ってきた。
亜耶奈は、とうとう声を立てて笑ってしまった。
日向も苦笑しながら、彼女に向き直った。
「……明日の朝、ちゃんと残りは片付けるから。今日は少しだけ、君と一緒にいたいんだ」
その言葉に、亜耶奈の頬がほんのり赤くなった。
「……はい」
二人は、並んで病院を後にした。
*
車が駐車場を出て間もない頃、日向のスマートフォンが震えた。
画面には【山下】の文字。
日向がハンズフリーで電話に出ると、案の定、怒り心頭の声が飛び込んできた。
『おーい、神楽ァ! お前、未処理カルテを俺のデスクに積んで帰るのは、人の血が通ってねえだろ! 八割がた、俺の居残り確定じゃねえか!』
「ごめん! ごめん、山下! 本当に悪かったって!」
日向は、亜耶奈のほうをちらりと見て、苦笑した。
「明日の朝イチで、残りの仕事は全部俺が引き受けるから! 医局のコーヒーも一箱奢る! あと今度、亜耶奈さんと一緒に、世界一美味いプリンも奢るから!」
『……チッ。プリンは絶対、特上のやつな』
「分かった、分かった!」
『千歳さんによろしくな』
「うん。ありがとう、山下」
電話を切ると、日向は申し訳なさそうに笑った。
「……ごめんね。騒がしくて」
「ふふっ。山下先生、日向さんのことを本当に心配してくださっているんですね」
「心配というか、怒ってるんだと思うけど……」
二人は顔を見合わせて笑った。
*
しばらくして、日向の高級タワーマンションに到着した。
部屋に案内された亜耶奈は、玄関を入った途端、目を丸くした。
「なっ……何、この部屋……。広すぎる!」
「あはは、やっぱり驚くよね」
日向は少し照れくさそうに笑った。
「実家が少し大きな病院を経営していてさ。僕がこの総合病院に勤務するって決まったとき、親が勝手に用意してくれたんだ」
「えっ……日向さんのご実家は、病院を経営されているんですか?」
亜耶奈は、はっと顔を上げた。
「もしかして……銀座の神楽総合病院、ですか?」
「あれ? 何で知ってるの?」
「何でって……私の働いているクリニック、神楽総合病院の職員健診をすべて請け負っているんです!」
日向は、目を見開いた。
「ええっ!?」
「毎年、お父様である院長先生の人間ドックのご案内も、私が担当させていただいていて……」
「嘘だろ……。親父のドック、亜耶奈さんが担当してたの!?」
「はい。じゃあ、私、毎年二回、お父様とお母様にお会いしていたんですね」
亜耶奈は不思議そうに首を傾げた。
「ご自分の病院で健診を受けられればいいのに、どうしてこちらを利用されているのか、理由は知らなかったんです」
「ああ、それはね……」
日向は、思い出したように笑った。
「『自分の病院だと、周りが気を使いすぎるから、たまには非日常を味わえる高級ホテルみたいなところで、夫婦デートを兼ねて健診を受けたい』んだってさ」
「ええっ……デートですか?」
「そう。うちの両親、そういうところがあるんだよ」
日向は肩をすくめた。
「でも、まさかその非日常の空間で、僕が大切に思っている人が親父たちを案内してくれていたなんて、夢にも思っていないだろうね」
「……日向さんが、大切に思っている人?」
亜耶奈の声が、小さくなった。
日向は、彼女を見つめた。
「うん。亜耶奈さんのことだよ」
まっすぐに伝えられた言葉に、亜耶奈の頬が赤くなる。
日向も少し照れたように笑った。
「……さて。ちょっと真面目な話をしてもいいかな?」
「……はい」
日向の表情が、医師としての真剣なものに変わった。
「薬で症状は落ち着いているけど、一度、きちんと検査を受けておいたほうがいいと思っているんだ」
亜耶奈の身体が、わずかに強張った。
日向は、それに気づいて言葉を続けた。
「診察室で話したら、怖くなってしまうかもしれないと思って、あのときは詳しく話さなかった。でも、症状が落ち着いていることと、原因がはっきりしていることは別なんだ」
「……検査」
「うん。ただ、何をするか分からないまま進めるつもりはないよ。必要な検査と、その理由をきちんと説明する。どんな方法があるのかも、一緒に考えよう」
日向は、亜耶奈の目を見て、穏やかに言った。
「俺がそばにいるから、怖くないよ……なんて、簡単には言えない。でも、怖い気持ちを抱えたまま、ひとりで頑張らせるつもりもないんだ」
亜耶奈は、日向の言葉をじっと聞いていた。
「……日向さんが一緒にいてくれるなら、私、検査を受けてみたいです」
「本当に?」
「はい。怖いです。でも、ずっと分からないままなのも不安だから……。日向さんと相談しながら、頑張ってみたいです」
日向の表情が、ふっと和らいだ。
「ありがとう。じゃあ、次の診察のときに、検査の内容や日程を一緒に決めよう。無理のない方法を考えていこうね」
「……はい」
「それから、もうひとつ」
日向は、少しだけ呆れたような顔をした。
「亜耶奈さん、健康診断は受けている?」
「えっ……」
「……その反応、受けていないね?」
「い、いえ、その……」
「やっぱり」
日向は、困ったように笑った。
「他人の健診スケジュールは完璧に管理しているのに、自分のことは後回しにしていたんだね」
亜耶奈は、何も言い返せなかった。
「十月に、僕がそっちのクリニックへ健診に行く予定があるんだよね。そのときに、亜耶奈さん自身の健康診断についても相談しよう。必要な検査を確認して、君が受けられそうな方法を一緒に考えたい」
「……全部、ですか?」
「必要なものを、きちんと相談してからね」
日向は、安心させるように微笑んだ。
「怖い検査があったら、事前に説明するし、できるだけ負担の少ない方法を考える。僕がずっと隣にいられるかどうかも含めて、ちゃんと調整するから」
「……本当に、隣にいてくれるんですか?」
「もちろん。だけど、無理やり受けさせたりはしないよ。亜耶奈さんが納得して、一歩ずつ進めることが大切だから」
亜耶奈は、ほっとしたように微笑んだ。
「……ありがとうございます、日向さん」
「うん。こちらこそ、話してくれてありがとう」
日向は、亜耶奈の手をそっと握った。
「これからも、ひとりで抱え込まないでね。迷ったときは、一緒に考えよう」
亜耶奈は、その手を握り返した。
胸の奥にあった冷たい塊が、完全に消えたわけではない。
それでも今は、ひとりで答えを探さなくてもいいのだと思えた。
答えのない迷宮の中にも、隣を歩いてくれる人がいる。
そのことが、亜耶奈にとって何よりの支えだった。
薬局でのあの騒動から数週間。
日向に処方してもらった、小さくて飲みやすい錠剤を毎日忘れずに飲み続けたおかげで、亜耶奈の胃の症状はすっかり落ち着いていた。
身体は、もうどこも悪くない。
それなのに、亜耶奈の胸の奥には、いつの間にか重く冷たい塊が居座り続けていた。
自分のような、面倒なトラウマを抱えた女が隣にいることで、彼の輝かしいキャリアや、ただでさえ忙しい日々に、取り返しのつかない迷惑をかけているのではないか。
彼は優しいから、放っておけないだけなのではないか。
そんな考えが、頭から離れなかった。
一度入り込んでしまった思い込みの迷宮には、出口が見つからなかった。
*
仕事終わり、クリニックの裏口から出たところで、亜耶奈は山下に呼び止められた。
「千歳さん。ちょっとだけ付き合ってくんない?」
「え? どこにですか?」
「いいから、いいから。神楽のやつに会いに行こうぜ」
断る間もなく連れてこられたのは、日向の勤務する総合病院だった。
山下に案内され、亜耶奈は隠れるようにして日向の外来をそっと覗き込んだ。
診察室の中の日向は、白衣をきちんと着こなし、カルテを見つめながら、患者に理路整然と説明を続けていた。
その姿には無駄がなく、落ち着いていて、隙もない。
まさに、誰もが信頼を寄せる「優秀な消化器内科医・神楽先生」そのものだった。
亜耶奈がじっと見つめていると、隣に立つ山下が肩をポンと叩いた。
「……な? あいつ、患者の前ではあんなに冷静だろ?」
「……はい」
「でもさ、あんたのことになると、あいつ、本当に周りが見えなくなるんだよ」
山下は、少しだけ真面目な顔になった。
「あの夜間救急のときだって、部長に直談判して、俺にまで必死になって連絡してきてさ。あんなに私情を仕事に持ち込んで、余裕をなくしてる神楽日向なんて、医局の誰も見たことがないんだ」
亜耶奈は、診察室の中の日向を見つめたまま、黙って話を聞いていた。
「医者としてのあいつは、そりゃ優秀だよ。だけど、あんたの前じゃ完璧な医者でいることより、あんたが怖がってないか、ちゃんと安心できてるか、そっちのほうが大事になっちまうらしい」
「……私のせいで、迷惑をかけているんじゃないでしょうか」
「迷惑?」
山下は、呆れたように眉を上げた。
「おいおい。あいつがどれだけ必死になってるか、見てて分かんない?」
「でも……」
「いいか、千歳さん。あいつの気持ちを、同情だなんて安っぽい言葉で片付けちゃ、男として可哀想だろ?」
山下は、亜耶奈の背中を軽く押した。
「ほら。早く行ってやりな。あいつ、あんたの顔を見たら、きっとびっくりするぞ」
亜耶奈は一度、深呼吸をした。
そして、診察室のドアをトントン、と控えめにノックした。
「はーい。どうされました?」
そっとドアを開け、亜耶奈は中へ入った。
「あの……神楽先生」
「え?」
カルテに向かっていた日向が振り返る。
そこにいるはずのない亜耶奈の姿に驚いた日向は、座っていたキャスター付きの丸椅子ごと、後ろへ大きく傾いた。
「うわっと、ととっ!?」
ガシャーン!
派手な音を立てて、日向は床に尻餅をついた。
「ぶはっ! はははは! お前、何やってんだよ!」
廊下から様子を見ていた山下が、大爆笑しながら診察室へ入ってきた。
突然の大きな音に驚いた看護師たちも、慌てて駆け込んでくる。
「神楽先生、大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫です! 何でもありません! すみません、驚かせてしまって!」
日向は顔を真っ赤にしながら立ち上がり、看護師たちに頭を下げた。
看護師たちが心配そうにしながらも診察室を出ていくと、日向は山下を睨みつけた。
「山下……お前、千歳さんを連れてきたの、お前だな?」
「おうよ!」
山下は悪びれる様子もなく、にやりと笑った。
「じゃ、二人でごゆっくり~」
「おい、待て!」
日向の声を背に、山下は楽しそうに出ていった。
診察室に残された二人。
日向は、亜耶奈に向き直ると、先ほどまでの慌てぶりが嘘のように心配そうな表情になった。
「でっ……でも、どうしたの? 調子が悪くなっちゃった? だったら電話で教えてくれればよかったのに。大丈夫?」
「だ、大丈夫です。どこも悪くありません」
亜耶奈は、うつむいた。
「ただ……私、日向さんの迷惑になっていないかなって、考えてしまって……。出口のない迷路に入ってしまったみたいで……。山下先生が、ここまで連れてきてくださったんです」
日向の表情から、笑みが消えた。
亜耶奈は、消え入りそうな声で続けた。
「日向さんは、本当に私でいいんですか?」
「……亜耶奈さん」
「たかが病院っていうだけで、私はビクビクしてしまうし、怖くなったら何もできなくなるし……。治療だって、すぐに受け入れられないし……」
声が震えた。
「日向さんは、こんな私に付き合っていたら、疲れてしまうんじゃないかって……。私がいることで、仕事にも迷惑をかけているんじゃないかって……」
最後まで言い切る前に、日向がそっと亜耶奈の肩を抱き寄せた。
「迷惑なわけないだろう……!」
思わず強くなった声に、日向は一度息を整えた。
そして、今度はゆっくりと、亜耶奈に語りかけた。
「『たかが病院』なんかじゃない。君にとっては、大切な人に置き去りにされた、世界で一番孤独で恐ろしい場所だったんだろう?」
亜耶奈の目が揺れた。
「そんな場所を怖がる君に、怖がるな。なんて言えるわけがない。君が病院を怖がるなら、俺が何度だって手を握る。君が迷子になったら、俺が迎えに行く」
日向は、亜耶奈の顔を覗き込んだ。
「だから、本当に俺でいいのかな、なんて言わないでほしい」
「……日向さん」
「俺はね、君の前では完璧なお医者様でいられないんだよ。君が不安そうにしていたら、放っておけない。君が泣きそうな顔をしていたら、どうしたら安心してもらえるか、そればかり考えてしまう」
日向は、少し照れくさそうに笑った。
「そんな自分に、俺自身が驚いているくらいなんだ。でも、それが嫌だなんて思ったことは一度もないよ」
「……本当に?」
「本当だよ。君が怖がることも、すぐにはできないことも、君の一部だろう? だったら、そこも含めて君を知っていきたいんだ」
亜耶奈の目に、涙が浮かんだ。
「……ありがとう、日向さん」
「うん」
「私、まだ怖いこともたくさんあるし、これからも迷惑をかけてしまうかもしれません。それでも……これからも、そばにいてくれますか?」
日向は、亜耶奈の肩を抱く腕に、そっと力を込めた。
「もちろん。俺のほうこそ、これからもよろしくお願いします」
亜耶奈は、涙を拭いながら小さく笑った。
まだ、すべての不安が消えたわけではない。
けれど、自分の気持ちを伝えられたこと。そして、日向がその気持ちを受け止めてくれたこと。
それだけで、心の中の迷宮に、小さな出口が見えた気がした。
*
「……さて、と」
日向は亜耶奈からそっと離れ、机の上の書類に目をやった。
「今日の書類仕事、あと少しなんだけどな……」
そのとき、廊下から山下の声が聞こえた。
「おーい、神楽! 俺、まだいるからなー! 逃げんなよー!」
「……あいつ!」
日向は思わず額に手を当てた。
亜耶奈が、くすっと笑う。
その笑顔を見て、日向もつられて笑った。
「……亜耶奈さん。よかったら、今日はこのあと一緒に帰らない?」
「え?」
「前に約束しただろう? お腹に優しいお粥を作るって。今日は、ちゃんと作りに行きたいんだ」
亜耶奈は、少し驚いたあと、嬉しそうに頷いた。
「……はい。喜んで」
日向は、机の上の書類をまとめながら、山下に聞こえるように声を張った。
「山下ー! 悪いけど、残りの書類を少し手伝ってくれないかー!」
「はあ!? ふざけんな! 何で俺がお前の仕事を手伝わなきゃいけねえんだよ!」
廊下から、すぐさま怒鳴り声が返ってきた。
亜耶奈は、とうとう声を立てて笑ってしまった。
日向も苦笑しながら、彼女に向き直った。
「……明日の朝、ちゃんと残りは片付けるから。今日は少しだけ、君と一緒にいたいんだ」
その言葉に、亜耶奈の頬がほんのり赤くなった。
「……はい」
二人は、並んで病院を後にした。
*
車が駐車場を出て間もない頃、日向のスマートフォンが震えた。
画面には【山下】の文字。
日向がハンズフリーで電話に出ると、案の定、怒り心頭の声が飛び込んできた。
『おーい、神楽ァ! お前、未処理カルテを俺のデスクに積んで帰るのは、人の血が通ってねえだろ! 八割がた、俺の居残り確定じゃねえか!』
「ごめん! ごめん、山下! 本当に悪かったって!」
日向は、亜耶奈のほうをちらりと見て、苦笑した。
「明日の朝イチで、残りの仕事は全部俺が引き受けるから! 医局のコーヒーも一箱奢る! あと今度、亜耶奈さんと一緒に、世界一美味いプリンも奢るから!」
『……チッ。プリンは絶対、特上のやつな』
「分かった、分かった!」
『千歳さんによろしくな』
「うん。ありがとう、山下」
電話を切ると、日向は申し訳なさそうに笑った。
「……ごめんね。騒がしくて」
「ふふっ。山下先生、日向さんのことを本当に心配してくださっているんですね」
「心配というか、怒ってるんだと思うけど……」
二人は顔を見合わせて笑った。
*
しばらくして、日向の高級タワーマンションに到着した。
部屋に案内された亜耶奈は、玄関を入った途端、目を丸くした。
「なっ……何、この部屋……。広すぎる!」
「あはは、やっぱり驚くよね」
日向は少し照れくさそうに笑った。
「実家が少し大きな病院を経営していてさ。僕がこの総合病院に勤務するって決まったとき、親が勝手に用意してくれたんだ」
「えっ……日向さんのご実家は、病院を経営されているんですか?」
亜耶奈は、はっと顔を上げた。
「もしかして……銀座の神楽総合病院、ですか?」
「あれ? 何で知ってるの?」
「何でって……私の働いているクリニック、神楽総合病院の職員健診をすべて請け負っているんです!」
日向は、目を見開いた。
「ええっ!?」
「毎年、お父様である院長先生の人間ドックのご案内も、私が担当させていただいていて……」
「嘘だろ……。親父のドック、亜耶奈さんが担当してたの!?」
「はい。じゃあ、私、毎年二回、お父様とお母様にお会いしていたんですね」
亜耶奈は不思議そうに首を傾げた。
「ご自分の病院で健診を受けられればいいのに、どうしてこちらを利用されているのか、理由は知らなかったんです」
「ああ、それはね……」
日向は、思い出したように笑った。
「『自分の病院だと、周りが気を使いすぎるから、たまには非日常を味わえる高級ホテルみたいなところで、夫婦デートを兼ねて健診を受けたい』んだってさ」
「ええっ……デートですか?」
「そう。うちの両親、そういうところがあるんだよ」
日向は肩をすくめた。
「でも、まさかその非日常の空間で、僕が大切に思っている人が親父たちを案内してくれていたなんて、夢にも思っていないだろうね」
「……日向さんが、大切に思っている人?」
亜耶奈の声が、小さくなった。
日向は、彼女を見つめた。
「うん。亜耶奈さんのことだよ」
まっすぐに伝えられた言葉に、亜耶奈の頬が赤くなる。
日向も少し照れたように笑った。
「……さて。ちょっと真面目な話をしてもいいかな?」
「……はい」
日向の表情が、医師としての真剣なものに変わった。
「薬で症状は落ち着いているけど、一度、きちんと検査を受けておいたほうがいいと思っているんだ」
亜耶奈の身体が、わずかに強張った。
日向は、それに気づいて言葉を続けた。
「診察室で話したら、怖くなってしまうかもしれないと思って、あのときは詳しく話さなかった。でも、症状が落ち着いていることと、原因がはっきりしていることは別なんだ」
「……検査」
「うん。ただ、何をするか分からないまま進めるつもりはないよ。必要な検査と、その理由をきちんと説明する。どんな方法があるのかも、一緒に考えよう」
日向は、亜耶奈の目を見て、穏やかに言った。
「俺がそばにいるから、怖くないよ……なんて、簡単には言えない。でも、怖い気持ちを抱えたまま、ひとりで頑張らせるつもりもないんだ」
亜耶奈は、日向の言葉をじっと聞いていた。
「……日向さんが一緒にいてくれるなら、私、検査を受けてみたいです」
「本当に?」
「はい。怖いです。でも、ずっと分からないままなのも不安だから……。日向さんと相談しながら、頑張ってみたいです」
日向の表情が、ふっと和らいだ。
「ありがとう。じゃあ、次の診察のときに、検査の内容や日程を一緒に決めよう。無理のない方法を考えていこうね」
「……はい」
「それから、もうひとつ」
日向は、少しだけ呆れたような顔をした。
「亜耶奈さん、健康診断は受けている?」
「えっ……」
「……その反応、受けていないね?」
「い、いえ、その……」
「やっぱり」
日向は、困ったように笑った。
「他人の健診スケジュールは完璧に管理しているのに、自分のことは後回しにしていたんだね」
亜耶奈は、何も言い返せなかった。
「十月に、僕がそっちのクリニックへ健診に行く予定があるんだよね。そのときに、亜耶奈さん自身の健康診断についても相談しよう。必要な検査を確認して、君が受けられそうな方法を一緒に考えたい」
「……全部、ですか?」
「必要なものを、きちんと相談してからね」
日向は、安心させるように微笑んだ。
「怖い検査があったら、事前に説明するし、できるだけ負担の少ない方法を考える。僕がずっと隣にいられるかどうかも含めて、ちゃんと調整するから」
「……本当に、隣にいてくれるんですか?」
「もちろん。だけど、無理やり受けさせたりはしないよ。亜耶奈さんが納得して、一歩ずつ進めることが大切だから」
亜耶奈は、ほっとしたように微笑んだ。
「……ありがとうございます、日向さん」
「うん。こちらこそ、話してくれてありがとう」
日向は、亜耶奈の手をそっと握った。
「これからも、ひとりで抱え込まないでね。迷ったときは、一緒に考えよう」
亜耶奈は、その手を握り返した。
胸の奥にあった冷たい塊が、完全に消えたわけではない。
それでも今は、ひとりで答えを探さなくてもいいのだと思えた。
答えのない迷宮の中にも、隣を歩いてくれる人がいる。
そのことが、亜耶奈にとって何よりの支えだった。
