『白い盾 〜不器用なドクターの特効薬〜』

夜間救急から三日後。

薬と一緒に渡された、総合病院の診察券と予約票。

『必ず僕が守るから、来て』

そう言われた亜耶奈は、ゆっくりと、一歩ずつ病院へ向かっていた。

怖い。

できることなら、今すぐ引き返したい。

それでも、約束したから。自分の身体のことをきちんと調べなければいけないと分かっているから。

亜耶奈は何度も足を止めそうになりながら、ようやく病院の前までたどり着いた。

そこには、日向の姿があった。

「亜耶奈さん……! 本当に、来てくれたんだね。……怖かったよね。頑張ったね」

「日向さん……外で待っててくれたんですか?」

「うん。病院の門をくぐる瞬間が、一番怖いと思ったから。ここからは、約束通り俺がずっと一緒だよ」

日向の顔を見た途端、亜耶奈の張り詰めていた気持ちが、ほんの少しだけ緩んだ。

ひとりじゃない。

そのことが、今の亜耶奈には何より心強かった。

二人は一緒に、総合受付へ向かった。

「亜耶奈さん。これから受付をして、待合室で待つことになるんだけど、受付の人が案内してくれるからね。女性のスタッフさんだから、少しは安心できるかな?」

日向は亜耶奈の顔を見ながら、ゆっくりと言葉を続けた。

「大丈夫。落ち着いて、深呼吸しよう。保険証と診察券、それから予約票を持って、受付に行こうね」

「……はい」

亜耶奈は、保険証と診察券、予約票をぎゅっと握りしめた。

受付のカウンターに立つと、女性スタッフが優しく声をかけてくれた。

「おはようございます。消化器内科、神楽先生のご予約の千歳様ですね」

「……はい」

手続きを終えると、日向が亜耶奈に向き直った。

「亜耶奈さん。僕は外来の準備があるから、少しだけ、この方と待っていてください。次は診察室で会おうね」

その言葉を聞いた瞬間、亜耶奈の顔から血の気が引いた。

「えっ……!? 行かないで……ください」

声が震えた。

離れかけた日向のコートの袖を、亜耶奈はぎゅっとつかみ直した。

また、置いていかれる――。

そう思っただけで、身体が思うように動かなくなった。

「ごめん! ごめんね、亜耶奈さん。行かない、どこにも行かないから!」

日向はすぐに足を止め、亜耶奈のそばに戻った。

そして、受付の女性スタッフに声をかけた。

「すみません、消化器内科のクラークに連絡をお願いします。『神楽の外来、患者の千歳亜耶奈さんは、神楽本人が直接診察室までエスコートして入ります。事前の呼び出しは不要』と伝えてください」

スタッフが頷くのを確認すると、日向は亜耶奈に向き直った。

「亜耶奈さん、外来の準備は何とかなるから。今は、君が安心して診察を受けられることが大事だよ。俺は、ちゃんとここにいるからね」

「……本当に?」

「本当だよ。約束する」

亜耶奈は、日向の袖をつかんだまま、小さく頷いた。

*

消化器内科の外来へ向かうと、周囲の患者や看護師たちの視線が二人に集まった。

日向と一緒に歩いていることが、亜耶奈にはひどく目立つことのように感じられた。

身体が強張り、指先が冷たくなる。

日向は、亜耶奈の歩幅に合わせながら、クラークに声をかけた。

「すみません。お手数をおかけしました。このまま外来を始めます」

それから、亜耶奈をそっと気遣いながら、一緒に診察室へ入った。

カチャリ、とドアが閉まる。

廊下からの視線が遮られた途端、亜耶奈は大きく息を吐いた。

日向は彼女の様子を確かめてから、静かに尋ねた。

「診察をしたいんだけど……白衣を着ても大丈夫かな? 無理そうなら着ないでおくよ。どうしたい?」

「白衣……怖い……着ないで」

亜耶奈は、ためらいながらも、はっきりとそう答えた。

「分かった。じゃあ、着ない。このままでいよう」

日向は私服のシャツ姿のまま、丸椅子に腰掛けた。

「これなら、病院の先生っぽくないでしょ? ただの、合コンで知り合った神楽日向だよ」

その言葉に、亜耶奈はほんの少しだけ表情を緩めた。

「……そうですね」

「うん。だから、今はいつも通り話してくれたらいいからね」

日向は、亜耶奈の話を優しく聞き始めた。

夜間救急を受診してからの体調。胃の痛みがどのくらい続いているのか。食事は取れているのか。痛みが強くなるタイミングはあるのか。

亜耶奈が答えに迷ったときは、急かさずに待ってくれた。

ひと通り話を聞き終えると、日向は今後の診察について説明した。

「今の症状をもう少し詳しく調べる必要があるよ。必要に応じて、血液検査なども検討しようと思う。ただ、今の段階で原因を決めつけることはできないから、ひとつずつ確認していこうね」

「……はい」

「それから、お腹の状態も確認したいんだ。触れて痛みがある場所を調べたいんだけど、触っても大丈夫かな?」

亜耶奈の表情が、わずかに強張った。

日向は、すぐに言葉を添えた。

「何をするか分からないまま進めたりしないからね。痛かったり、怖くなったりしたら、すぐに教えて。途中で止めることもできるよ」

「……分かりました」

亜耶奈が頷いたのを確認してから、日向は慎重に腹部を診察した。

痛みのある場所や、触れたときの反応をひとつずつ確認していく。

亜耶奈の身体には、まだ緊張が残っていた。

それでも、次に何をするのかを先に伝えてもらえることで、少しずつ呼吸を整えることができた。

診察を終えると、日向はそっと手を離した。

「ありがとう。よく頑張ったね」

「……これで、終わりですか?」

「今の診察はいったん終わりだよ。検査が必要かどうかも含めて、これからのことはきちんと説明するからね」

亜耶奈は、ほっと息を吐いた。

怖くなかったわけではない。

けれど、怖いと伝えたことで、無理に進められることはなかった。

そのことが、亜耶奈にとっては大きな安心につながっていた。

診察のあと、日向は薬についても説明した。

「お薬は、前回と同じものを出しておくね。薬局まで行けそうかな? もし難しそうなら、院内で受け取れるように変更することもできるよ」

「……薬局なら、大丈夫です」

「そっか。よかった。でも、無理はしないでね。僕はこのあと外来があるから、一緒にはいられないけど……大丈夫かな?」

亜耶奈は少し考えてから、頷いた。

「大丈夫です。薬局へ行けます。日向さんが、ここまでずっと一緒にいてくれたから……」

その言葉に、日向は柔らかく微笑んだ。

「うん。ここまで来られたことも、自分で受付をして、診察を受けられたことも、ちゃんとすごいことだよ」

「……ありがとうございます」

「薬局で困ったことがあったら、遠慮しないで相談してね」

亜耶奈は処方箋を受け取り、日向と約束を交わしてから診察室を出た。

*

薬局へ向かった亜耶奈だったが、そこには多くの人がいた。

受付を済ませたあとも、椅子に座って待っている人や、薬を受け取る人が次々と行き来している。

亜耶奈は、少しでも人が減るのを待ってから薬を受け取りに行こうと考えた。

それでも、待っている間の落ち着かなさは変わらなかった。

誰かの話し声が聞こえるたびに、身体がぴくりと反応する。

自分の名前を呼ばれるのではないか。

何か聞かれたら、ちゃんと答えられるだろうか。

そんなことを考えているうちに、心臓が少しずつ速くなっていった。

やがて、薬剤師から名前を呼ばれた。

「千歳様、お薬のご用意ができました。こちらがお薬になります」

薬の説明を受けながら、亜耶奈は袋の中を確認した。

その瞬間、手が止まった。

見覚えのない薬が入っていた。

しかも、それは亜耶奈が苦手な粉薬だった。

前回は、こんな薬はなかった。

同じ薬だと言っていたのに……。

どうしたらいいのだろう。

頭の中が真っ白になり、胸がどくどくと音を立て始めた。

「あの……これ……粉薬、じゃなくて……」

言葉が途切れる。

薬剤師が心配そうに顔を覗き込んだ。

「千歳様、どうされましたか?」

「……あの、粉薬が……」

それ以上、うまく説明できなかった。

亜耶奈は薬局の隅へ、逃げるように移動した。

息が浅くなる。

どうしよう。

飲めない。どうして、粉薬が入っているの?

日向さんは、同じ薬だと言っていたのに……。

薬剤師は亜耶奈の異変に気づき、すぐに日向へ確認の電話を入れた。

事情を聞いた日向は、電話口で慌てて答えた。

「すぐに、錠剤に変更できるか確認してください! 粉薬が苦手なことを、僕がきちんと確認できていませんでした。申し訳ありません!」

薬剤師は処方内容を確認し、必要な手続きを踏んで、錠剤への変更に取りかかった。

しかし、亜耶奈の動悸はなかなか治まらなかった。

そのとき、手の中のスマートフォンが震えた。

メッセージではない。

日向からの電話だった。

「……もしもし」

『亜耶奈さん!? 大丈夫!?』

日向の声が、電話越しに響いた。

『ごめん……本当にごめんね。良かれと思って、僕が勝手に粉薬を追加してしまったんだ。亜耶奈さんが薬も苦手だって分かっていたのに、ちゃんと確認しなかった。僕の配慮が足りなかった。本当にごめん』

亜耶奈は、スマートフォンを耳に押し当てた。

『今、錠剤に変更してもらっているからね。無理に飲まなくていいから。まずは、ゆっくり息を吐こう』

「……っ、でも……」

『うん。怖かったよね。突然、苦手なものが出てきたんだもんね。今は何も考えなくていいよ。ゆっくり吐いて……そう。大丈夫、急がなくていいから』

日向は、亜耶奈が落ち着くまで、電話越しに優しく声をかけ続けた。

『本当は、すぐにそばへ行きたいんだけど、今は外来の患者さんがいて、どうしても抜けられないんだ。ごめんね。でも、薬局の人にもお願いしてあるから。ひとりで何とかしようとしなくていいよ』

「……日向さん」

『うん、ここにいるよ』

その声を聞いているうちに、亜耶奈の激しかった動悸は、少しずつ落ち着いていった。

怖かった気持ちが、ゆっくりと温かな安心感に変わっていく。

日向は間違えたことを隠さず、亜耶奈が怖がったことを責めず、きちんと謝ってくれた。

そのことが、亜耶奈にはありがたかった。

しばらくすると、薬剤師が亜耶奈のいる隅まで来てくれた。

「千歳様、お待たせいたしました。粉薬から錠剤への変更ができました。こちらの確認が足りず、申し訳ありませんでした。よろしければ、こちらで少し休んでからお帰りくださいね」

「……ありがとうございます」

亜耶奈は電話を終え、薬剤師に頭を下げた。

そのあと、椅子に座ってしばらく休んだ。

呼吸が落ち着き、手の震えも少しずつ治まっていく。

薬を受け取るという、それだけのことが、こんなにも大変だなんて。

亜耶奈は改めて、自分が病院や薬に対して抱えている恐怖の大きさを思い知った。

それでも、今日はここまで来られた。

怖くても、途中で立ち止まっても、助けを求めながら進むことはできた。

亜耶奈は薬の入った袋を大切に持ち、薬局の外へ出た。

*

外に出ると、見覚えのある男性が待っていた。

「お、千歳さん」

「……山下先生?」

以前会った山下が、こちらに気づいて手を上げた。

「神楽のやつ、外来が終わらなくて抜け出せないからって、必死の形相で電話してきてさ。『あんたを守ってくれ!』って、うるさいくらいだったよ」

山下は苦笑しながら続けた。

「だから、家に帰るまでちゃんと見届けることにした。神楽じゃなくて悪ぃな。ほら、タクシーを呼んであるから、乗って」

「山下先生、本当にありがとうございます……」

「いいって。今日はよく頑張ったな。あとは家でゆっくり休みな」

山下の言葉に、亜耶奈は何度も頭を下げた。

日向が来られなくても、こうして気にかけてくれる人がいる。

そのことに、胸が温かくなった。

タクシーに乗り込み、亜耶奈は自宅へ向かった。

*

帰宅すると、亜耶奈はようやく大きく息を吐いた。

自分の部屋。

見慣れた家具。

いつも過ごしているリビング。

病院や薬局で張り詰めていた気持ちが、少しずつ解けていく。

亜耶奈はスマートフォンを取り出し、日向にメッセージを送った。

『山下先生が来てくださって、タクシーを呼んでくださいました。今、自宅に着きました』

それから、安心した気持ちを伝えたくて、リビングの写真も撮って送った。

しばらくすると、スマートフォンが震えた。

日向からの着信だった。

「……もしもし?」

『亜耶奈さん! よかった……無事に家に着いたんだね。本当に安心した……!』

電話越しの日向の声には、心からほっとした様子がにじんでいた。

「はい。山下先生にも助けていただきました」

『そっか。山下にもお礼を言わないとね。本当に、よかった……』

少しの沈黙のあと、日向は優しい声で尋ねた。

『亜耶奈さん。今日の夜、外来も書類仕事も全部終わらせて、そっちに向かってもいい?』

「……え?」

『お腹に優しいお粥を、君のキッチンで作らせてほしいんだ。今日は本当によく頑張ったから。ひとりで不安な夜を過ごすより、俺がそばにいたいんだ』

亜耶奈は、スマートフォンを握りしめた。

日向は医師として、患者である自分を気にかけてくれている。

それだけではない。

怖がる自分を否定せず、失敗したときには謝ってくれて、今もこうして自分のことを心配してくれている。

その優しさが、胸に染みた。

「……来て、くれるんですか?」

『うん。もちろん。亜耶奈さんが嫌じゃなければ、行かせてほしい』

「……嫌じゃないです」

亜耶奈は、少しだけ声を震わせながら答えた。

「ありがとうございます。待ってます、日向さん。……気をつけて来てくださいね」

『うん。できるだけ早く行くよ。待っててね』

電話が切れた。

亜耶奈は、スマートフォンをぎゅっと胸に抱きしめた。

今日一日、怖いことはたくさんあった。

病院へ行くことも、診察を受けることも、薬局で粉薬を見つけたときも。

何度も逃げ出したくなった。

それでも、日向は怖がる自分を責めなかった。

無理に強くなれとも言わなかった。

ただ、亜耶奈が少しずつ前へ進めるように、そばで支えてくれた。

まだ、自分の気持ちに名前をつけることはできない。

けれど、日向が来てくれると思うだけで、心が温かくなる。

亜耶奈は、自然とこぼれた笑みを浮かべながら、もう一度スマートフォンを胸に抱きしめた。

今夜は、今日より少しだけ安心して過ごせるかもしれない。

そんな期待を胸に、亜耶奈は日向が来るのを待つことにした。