『白い盾 〜不器用なドクターの特効薬〜』

あの大騒ぎの夜間救急から数日後。

総合病院の医局で、山下が缶コーヒーを日向のデスクに置きながら、詰め寄ってきた。

「おい、日向。今日こそ、ちゃんと説明してもらうからな。あの夜、俺が声をかけた瞬間のあの怯え方……ただの病院嫌いってレベルじゃなかったぞ。一体、何があったんだ?」

日向は手を止め、しばらく黙っていた。

あの夜、亜耶奈が見せた恐怖。そして、何かを必死にこらえるように自分の手を握りしめていた姿が、今も頭から離れなかった。

「……仕方ないな。お前には話しておくよ」

日向は静かに口を開いた。

「亜耶奈さんのトラウマは、病院が怖いってだけじゃないんだ。……幼い頃、病院に置き去りにされて、保護されたことがあるんだよ」

山下は息を呑んだ。

「……置き去り?」

「『すぐに戻るから、ここで待っていなさい』って、大きな病院の待合室のベンチに残されたらしい。それから夜遅くになって、看護師さんに発見されて保護されたんだ」

日向は、膝の上で両手を組んだ。

「幼い亜耶奈さんにとっては、きっと何が起きたのかも、どうして自分だけが残されたのかも、わからなかったんだと思う」

「……そう、だったのか……」

山下の声から、先ほどまでの勢いが消えていた。

「それじゃあ、あの夜の怯え方も……」

「うん。彼女にとって病院は、ただ怖い場所じゃない。大切な人に置き去りにされた場所なんだ。だから、病院に入ることそのものが、あの頃の恐怖を呼び起こしてしまうんだと思う」

日向は一度、深く息を吐いた。

「……俺も、彼女の気持ちを全部わかっているわけじゃない。どれだけそばにいても、代わりに怖がってあげることはできないから」

「日向……」

「それでも、少しずつ伝えていきたいんだ。病院は、必ずしも大切な人に捨てられる場所じゃない。怖いときに助けを求めてもいい場所なんだって」

日向は、まっすぐ前を見つめた。

「俺は、亜耶奈さんが安心して医療を受けられるように支えていきたい。医師としても、ひとりの大切な人としても。彼女が自分のペースで前に進めるように、これからもそばにいたいんだ」

山下はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。

「……お前が、あんなに必死になる理由がわかった気がするよ」

「うん。でも、俺が守るって決めたからって、彼女の気持ちを置き去りにしたら意味がない。俺が勝手に答えを決めるんじゃなくて、亜耶奈さん自身が安心できる方法を、一緒に探していきたい」

日向は、机の上の缶コーヒーに目を落とした。

「……いつか、彼女が病院に来ても、俺が隣にいなくても、必要なときに誰かを頼れるようになってくれたらいいな」

山下は日向の肩を軽く叩いた。

「だったら、ひとりで全部背負い込むなよ。お前が支えるのはいい。でも、医療はチームでやるものだろ。俺にもできることがあれば協力する」

「……ありがとう、山下」

日向は、ほんの少しだけ表情を和らげた。

亜耶奈の過去を知ったからといって、彼女の恐怖がすぐに消えるわけではない。

それでも、彼女がひとりで抱えてきたものを、これからは少しずつ分かち合っていきたい。

日向はそう願っていた。