しばらくは市販の薬で、痛みをごまかしながら過ごしていた。
しかし、それも限界だったのかもしれない。
仕事を終え、自宅へ帰る途中。突然強くなった痛みに耐えきれず、亜耶奈は駅前の小さな公園のベンチに腰を下ろした。冷や汗が滲み、呼吸をするのもつらい。
そのときだった。
「……亜耶奈さん?」
聞き覚えのある声に、亜耶奈はゆっくりと顔を上げた。
「日向、さん……」
「やっぱり……! 遠目から見て、もしやと思ったんだ。冷や汗がすごいよ。お腹、また痛むの?」
日向は亜耶奈の顔色を確かめるように、膝を折って目線を合わせた。
「市販の薬で、ずっと我慢してたんでしょ。名刺、使ってくれなかったね」
「だって、病院……怖い、し……。日向さんに、迷惑、かけるから……」
「迷惑なわけないだろう!」
思わず声を荒らげた日向は、すぐにハッとしたように表情を和らげた。
「ごめん。怒鳴るつもりじゃなかったんだ。……でも、もう限界だよ。こんなに痛くて、冷や汗まで出てる。胃の病気だと決めつけることもできないし、何が起きているのか、ちゃんと調べなきゃいけない」
日向は、亜耶奈を支える手にそっと力を込めた。
「怖いのはわかってる。でも、今は我慢を続ける方が危ないんだ。お願いだから、俺に診せて」
日向は亜耶奈の体を片腕で支えながら、もう片方の手でスマートフォンを取り出した。
「もしもし、神楽です。夜分に恐れ入ります、部長。……はい、今、駅前で急患を見つけまして。上腹部の強い痛みと冷や汗があります。これから救急外来へ連れて行きたいのですが、受け入れをお願いできますか」
短く症状を伝えたあと、日向は一度言葉を切った。
「……はい。僕が責任を持って対応します。これから連れて行く人は……僕の、大切な人なんです。だから、お願いします」
いつも冷静な日向が、仕事上の立場も忘れたように必死に頭を下げている。
しかし、その必死さが伝われば伝わるほど、総合病院への恐怖が現実味を帯びて亜耶奈を襲った。
「ごめんなさい……。やっぱり……っ、やっぱり行けない……!」
亜耶奈はベンチの隅へと体を縮めた。
日向はスマートフォンをしまうと、彼女の前にしゃがみ込んだ。
「謝らないで、亜耶奈さん。我が儘なんかじゃない。怖いものは、怖いんだから仕方ないよ」
責める気持ちなど、少しもなかった。
「……でも、これだけは信じてほしい。さっき部長に言ったことに、一言も嘘はないよ。君は俺にとって、本当に大切な人なんだ」
日向は、亜耶奈の手に触れる前に、そっと尋ねた。
「手、握ってもいい?」
亜耶奈は震えながら、小さく頷いた。
その手を包み込むように握り、日向はまっすぐに彼女を見つめた。
「病院の中には、君が怖いと思うものがたくさんあると思う。でも、俺が全部消してあげるなんて、無責任なことは言えない。怖い思いをさせることもあるかもしれない」
亜耶奈の目に、涙が浮かぶ。
「それでも、ひとりにはしない。君が望む限り、できるだけそばにいる。だから……俺と一緒に来てくれないかな」
「……日向さんだけを、見ていれば……いいですか?」
「うん。まずは俺を見ていて。ほかのことは、ひとつずつ一緒に考えよう」
亜耶奈はしばらく俯いていたが、やがて、日向の手をぎゅっと握り返した。
「……行きます」
「ありがとう」
日向は彼女の歩調に合わせ、ゆっくりと立ち上がった。
* * *
自動ドアが開くと、消毒液の匂いが鼻をかすめた。
夜間救急の受付を通り抜けたところで、スクラブ姿の若い男性医師がすっ飛んできた。日向の同期、山下だった。
「オイ! 日向! どういうことだよ! 夜間にいきなり部長から『神楽が大切な人を連れてくるから、すぐ受け入れの準備をしろ』って連絡が来て、こっちは大騒ぎだぞ!」
山下は日向の隣にいる女性を見て、声を落とした。
「……で、この人が?」
亜耶奈は恐怖で日向の胸元に顔を埋めた。
日向は山下を鋭く見据える。
「今は診察が先だ。詳しい話はあとでする。部長の許可は取ってある。……二番の処置室を使わせてくれ」
「わかった。こっちは任せろ」
山下はすぐに表情を切り替え、看護師へ受け入れの指示を出した。
日向は亜耶奈を支えながら、処置室のベッドへゆっくりと横たわらせた。
「亜耶奈さん、俺を見て。約束しただろう? 今は俺の目だけ見ていていいからね」
日向は彼女の冷え切った左手を、両手でそっと包み込んだ。
「まず、今の痛みのことを教えてほしい。いつから、こんなに強くなった?」
「……さっき、駅に着く頃から……」
「そっか。市販の薬は、今日は何をどれくらい飲んだ? 最後に飲んだ時間も覚えてるかな」
「あ……ごめんなさい……。一気に聞かれると……」
「ごめん、俺が急ぎすぎたね。ひとつずつでいいよ。答えられるところから教えて」
日向は亜耶奈の顔色を確かめながら、看護師に血圧や脈拍などの測定を依頼した。
「吐き気はある? それとも、痛みだけ?」
「……痛い、だけで……吐き気は、ありません……。お昼に、ゼリーを少し食べただけです……」
「教えてくれてありがとう。よく頑張って答えてくれたね」
日向は彼女を安心させるように微笑んだ。
「……日向さんが、お医者様で……よかったです」
「うん。そう言ってもらえるのは嬉しいよ。でも、今は俺ひとりで判断せずに、必要な検査をして、ほかの先生にも確認してもらうからね」
「……ほかの先生も?」
亜耶奈の表情がこわばった。
「大丈夫。いきなり誰かに触らせたりしないよ。誰が何をするのか、できるだけ先に説明する。怖かったら、遠慮なく言って」
日向は彼女の手を一度だけ握り直し、看護師へ声をかけた。
「採血と必要な検査をお願いします。痛みが強いので、鎮痛の方法も含めて評価したいです。薬の名前と服用量は、本人から確認できた範囲で記録してください」
その後、日向は亜耶奈の様子を確認しながら、必要な検査や処置についてひとつずつ説明した。
「亜耶奈さん、点滴の針を入れる必要があるんだ。怖いと思うけど、少しでも楽になるように、痛み止めも含めて考えるからね」
「……針……」
亜耶奈はぎゅっと目を瞑った。
「うん、怖いよね。俺がそばにいる。腕に触る前にも声をかけるから」
日向は看護師と確認しながら、亜耶奈の腕にルートを確保した。彼女が針を見ずに済むよう、視線を遮る位置に立つ。
「目を瞑っていていいよ。ゆっくり息を吐いて……そう。上手だよ」
「……っ」
「はい、終わったよ。よく頑張ったね」
亜耶奈は、恐る恐る目を開けた。
「……全然、痛くなかった……」
「本当? よかった。もちろん、これからも痛くないとは約束できないけど、できるだけ負担を減らすようにするからね」
日向は、彼女の表情が少し和らいだのを見て、ほっと息をついた。
* * *
検査の結果を待つ間、日向は亜耶奈のそばを離れずにいた。
必要な採血や画像検査を進め、ほかの医師とも結果を確認する。強い腹痛と冷や汗が出ていた以上、単に胃の不調だと決めつけることはできなかった。
やがて、山下が処置室のカーテンの外から声をかけた。
「神楽、少しいいか?」
「……亜耶奈さん、すぐ戻るからね。ここに山下が来ても大丈夫か、先に確認しておくよ」
亜耶奈は不安そうに日向を見上げた。
「……日向さんも、一緒にいてくれますか?」
「もちろん。君が嫌なら、無理に話さなくていい」
亜耶奈が小さく頷いたのを確かめてから、日向はカーテンを少し開けた。
山下は中へ入る前に、亜耶奈から距離を取った位置で立ち止まった。
「初めまして。日向と同期の山下です。今は無理にお話ししなくて大丈夫ですからね。検査の結果については、日向から説明してもらいます」
それだけ伝えて、山下は日向に視線を向けた。
「神楽、外で確認したいことがある。少しだけいいか?」
日向は亜耶奈の手をそっと離した。
「すぐ戻るよ。何かあったら、看護師さんに伝えてね。俺もすぐそばにいるから」
カーテンの外へ出ると、山下は声を潜めた。
「お前、ずいぶん必死だな。あの人、そんなに大切なのか?」
日向は一瞬だけ目を伏せた。
「……俺の、世界で一番大切な人だ」
その声には、いつもの冷静さとは違う切実さが滲んでいた。
「病院が大嫌いで、これまでずっとひとりで痛みに耐えてきた。俺は、これ以上あいつを怖がらせたくないし、苦しませたくない」
「だからって、お前が全部背負う必要はないだろ」
「わかってる。医師として、必要なことはきちんとする。俺ひとりで判断もしない。でも、あいつが怖がっているとき、できるだけそばにいたいんだ」
山下はしばらく日向を見つめ、それからふっと息を吐いた。
「……なるほどな。お前がそこまで言うなら、俺も協力する。ただし、患者さんの安全が第一だ。それだけは忘れるなよ」
「わかってる。ありがとう」
日向は再びカーテンの奥へ戻った。
「亜耶奈さん、お待たせ。検査の結果を確認しているところだよ。今すぐ帰れるかどうかも含めて、きちんと説明するからね」
「……はい」
「痛みはどう? 少しは楽になった?」
「……さっきよりは、少し……」
「よかった。でも、痛みが軽くなったからといって、原因が全部わかったわけじゃない。そこはきちんと確認しようね」
日向は亜耶奈の目を見て、ゆっくりと話した。
「怖いことがあったら、途中でも止まって説明する。君が何もわからないまま、勝手に進めたりしないから」
亜耶奈は、日向の手を見つめたあと、そっとその指先に触れた。
「……日向さんが隣にいてくれるなら、私、頑張れます」
「うん。ありがとう、亜耶奈さん」
日向は微笑み、彼女の手を優しく握り返した。
その夜、亜耶奈は初めて、病院という場所で誰かを頼ることができた。
それでも、彼女の恐怖が消えたわけではない。
日向はまだ知らなかった。
亜耶奈がどうして、ここまで病院を怖がるようになったのか。
そして、その理由を知ったとき、自分が何をすべきなのか。
その答えは、ふたりが少しずつ距離を縮めていく先に待っていた。
しかし、それも限界だったのかもしれない。
仕事を終え、自宅へ帰る途中。突然強くなった痛みに耐えきれず、亜耶奈は駅前の小さな公園のベンチに腰を下ろした。冷や汗が滲み、呼吸をするのもつらい。
そのときだった。
「……亜耶奈さん?」
聞き覚えのある声に、亜耶奈はゆっくりと顔を上げた。
「日向、さん……」
「やっぱり……! 遠目から見て、もしやと思ったんだ。冷や汗がすごいよ。お腹、また痛むの?」
日向は亜耶奈の顔色を確かめるように、膝を折って目線を合わせた。
「市販の薬で、ずっと我慢してたんでしょ。名刺、使ってくれなかったね」
「だって、病院……怖い、し……。日向さんに、迷惑、かけるから……」
「迷惑なわけないだろう!」
思わず声を荒らげた日向は、すぐにハッとしたように表情を和らげた。
「ごめん。怒鳴るつもりじゃなかったんだ。……でも、もう限界だよ。こんなに痛くて、冷や汗まで出てる。胃の病気だと決めつけることもできないし、何が起きているのか、ちゃんと調べなきゃいけない」
日向は、亜耶奈を支える手にそっと力を込めた。
「怖いのはわかってる。でも、今は我慢を続ける方が危ないんだ。お願いだから、俺に診せて」
日向は亜耶奈の体を片腕で支えながら、もう片方の手でスマートフォンを取り出した。
「もしもし、神楽です。夜分に恐れ入ります、部長。……はい、今、駅前で急患を見つけまして。上腹部の強い痛みと冷や汗があります。これから救急外来へ連れて行きたいのですが、受け入れをお願いできますか」
短く症状を伝えたあと、日向は一度言葉を切った。
「……はい。僕が責任を持って対応します。これから連れて行く人は……僕の、大切な人なんです。だから、お願いします」
いつも冷静な日向が、仕事上の立場も忘れたように必死に頭を下げている。
しかし、その必死さが伝われば伝わるほど、総合病院への恐怖が現実味を帯びて亜耶奈を襲った。
「ごめんなさい……。やっぱり……っ、やっぱり行けない……!」
亜耶奈はベンチの隅へと体を縮めた。
日向はスマートフォンをしまうと、彼女の前にしゃがみ込んだ。
「謝らないで、亜耶奈さん。我が儘なんかじゃない。怖いものは、怖いんだから仕方ないよ」
責める気持ちなど、少しもなかった。
「……でも、これだけは信じてほしい。さっき部長に言ったことに、一言も嘘はないよ。君は俺にとって、本当に大切な人なんだ」
日向は、亜耶奈の手に触れる前に、そっと尋ねた。
「手、握ってもいい?」
亜耶奈は震えながら、小さく頷いた。
その手を包み込むように握り、日向はまっすぐに彼女を見つめた。
「病院の中には、君が怖いと思うものがたくさんあると思う。でも、俺が全部消してあげるなんて、無責任なことは言えない。怖い思いをさせることもあるかもしれない」
亜耶奈の目に、涙が浮かぶ。
「それでも、ひとりにはしない。君が望む限り、できるだけそばにいる。だから……俺と一緒に来てくれないかな」
「……日向さんだけを、見ていれば……いいですか?」
「うん。まずは俺を見ていて。ほかのことは、ひとつずつ一緒に考えよう」
亜耶奈はしばらく俯いていたが、やがて、日向の手をぎゅっと握り返した。
「……行きます」
「ありがとう」
日向は彼女の歩調に合わせ、ゆっくりと立ち上がった。
* * *
自動ドアが開くと、消毒液の匂いが鼻をかすめた。
夜間救急の受付を通り抜けたところで、スクラブ姿の若い男性医師がすっ飛んできた。日向の同期、山下だった。
「オイ! 日向! どういうことだよ! 夜間にいきなり部長から『神楽が大切な人を連れてくるから、すぐ受け入れの準備をしろ』って連絡が来て、こっちは大騒ぎだぞ!」
山下は日向の隣にいる女性を見て、声を落とした。
「……で、この人が?」
亜耶奈は恐怖で日向の胸元に顔を埋めた。
日向は山下を鋭く見据える。
「今は診察が先だ。詳しい話はあとでする。部長の許可は取ってある。……二番の処置室を使わせてくれ」
「わかった。こっちは任せろ」
山下はすぐに表情を切り替え、看護師へ受け入れの指示を出した。
日向は亜耶奈を支えながら、処置室のベッドへゆっくりと横たわらせた。
「亜耶奈さん、俺を見て。約束しただろう? 今は俺の目だけ見ていていいからね」
日向は彼女の冷え切った左手を、両手でそっと包み込んだ。
「まず、今の痛みのことを教えてほしい。いつから、こんなに強くなった?」
「……さっき、駅に着く頃から……」
「そっか。市販の薬は、今日は何をどれくらい飲んだ? 最後に飲んだ時間も覚えてるかな」
「あ……ごめんなさい……。一気に聞かれると……」
「ごめん、俺が急ぎすぎたね。ひとつずつでいいよ。答えられるところから教えて」
日向は亜耶奈の顔色を確かめながら、看護師に血圧や脈拍などの測定を依頼した。
「吐き気はある? それとも、痛みだけ?」
「……痛い、だけで……吐き気は、ありません……。お昼に、ゼリーを少し食べただけです……」
「教えてくれてありがとう。よく頑張って答えてくれたね」
日向は彼女を安心させるように微笑んだ。
「……日向さんが、お医者様で……よかったです」
「うん。そう言ってもらえるのは嬉しいよ。でも、今は俺ひとりで判断せずに、必要な検査をして、ほかの先生にも確認してもらうからね」
「……ほかの先生も?」
亜耶奈の表情がこわばった。
「大丈夫。いきなり誰かに触らせたりしないよ。誰が何をするのか、できるだけ先に説明する。怖かったら、遠慮なく言って」
日向は彼女の手を一度だけ握り直し、看護師へ声をかけた。
「採血と必要な検査をお願いします。痛みが強いので、鎮痛の方法も含めて評価したいです。薬の名前と服用量は、本人から確認できた範囲で記録してください」
その後、日向は亜耶奈の様子を確認しながら、必要な検査や処置についてひとつずつ説明した。
「亜耶奈さん、点滴の針を入れる必要があるんだ。怖いと思うけど、少しでも楽になるように、痛み止めも含めて考えるからね」
「……針……」
亜耶奈はぎゅっと目を瞑った。
「うん、怖いよね。俺がそばにいる。腕に触る前にも声をかけるから」
日向は看護師と確認しながら、亜耶奈の腕にルートを確保した。彼女が針を見ずに済むよう、視線を遮る位置に立つ。
「目を瞑っていていいよ。ゆっくり息を吐いて……そう。上手だよ」
「……っ」
「はい、終わったよ。よく頑張ったね」
亜耶奈は、恐る恐る目を開けた。
「……全然、痛くなかった……」
「本当? よかった。もちろん、これからも痛くないとは約束できないけど、できるだけ負担を減らすようにするからね」
日向は、彼女の表情が少し和らいだのを見て、ほっと息をついた。
* * *
検査の結果を待つ間、日向は亜耶奈のそばを離れずにいた。
必要な採血や画像検査を進め、ほかの医師とも結果を確認する。強い腹痛と冷や汗が出ていた以上、単に胃の不調だと決めつけることはできなかった。
やがて、山下が処置室のカーテンの外から声をかけた。
「神楽、少しいいか?」
「……亜耶奈さん、すぐ戻るからね。ここに山下が来ても大丈夫か、先に確認しておくよ」
亜耶奈は不安そうに日向を見上げた。
「……日向さんも、一緒にいてくれますか?」
「もちろん。君が嫌なら、無理に話さなくていい」
亜耶奈が小さく頷いたのを確かめてから、日向はカーテンを少し開けた。
山下は中へ入る前に、亜耶奈から距離を取った位置で立ち止まった。
「初めまして。日向と同期の山下です。今は無理にお話ししなくて大丈夫ですからね。検査の結果については、日向から説明してもらいます」
それだけ伝えて、山下は日向に視線を向けた。
「神楽、外で確認したいことがある。少しだけいいか?」
日向は亜耶奈の手をそっと離した。
「すぐ戻るよ。何かあったら、看護師さんに伝えてね。俺もすぐそばにいるから」
カーテンの外へ出ると、山下は声を潜めた。
「お前、ずいぶん必死だな。あの人、そんなに大切なのか?」
日向は一瞬だけ目を伏せた。
「……俺の、世界で一番大切な人だ」
その声には、いつもの冷静さとは違う切実さが滲んでいた。
「病院が大嫌いで、これまでずっとひとりで痛みに耐えてきた。俺は、これ以上あいつを怖がらせたくないし、苦しませたくない」
「だからって、お前が全部背負う必要はないだろ」
「わかってる。医師として、必要なことはきちんとする。俺ひとりで判断もしない。でも、あいつが怖がっているとき、できるだけそばにいたいんだ」
山下はしばらく日向を見つめ、それからふっと息を吐いた。
「……なるほどな。お前がそこまで言うなら、俺も協力する。ただし、患者さんの安全が第一だ。それだけは忘れるなよ」
「わかってる。ありがとう」
日向は再びカーテンの奥へ戻った。
「亜耶奈さん、お待たせ。検査の結果を確認しているところだよ。今すぐ帰れるかどうかも含めて、きちんと説明するからね」
「……はい」
「痛みはどう? 少しは楽になった?」
「……さっきよりは、少し……」
「よかった。でも、痛みが軽くなったからといって、原因が全部わかったわけじゃない。そこはきちんと確認しようね」
日向は亜耶奈の目を見て、ゆっくりと話した。
「怖いことがあったら、途中でも止まって説明する。君が何もわからないまま、勝手に進めたりしないから」
亜耶奈は、日向の手を見つめたあと、そっとその指先に触れた。
「……日向さんが隣にいてくれるなら、私、頑張れます」
「うん。ありがとう、亜耶奈さん」
日向は微笑み、彼女の手を優しく握り返した。
その夜、亜耶奈は初めて、病院という場所で誰かを頼ることができた。
それでも、彼女の恐怖が消えたわけではない。
日向はまだ知らなかった。
亜耶奈がどうして、ここまで病院を怖がるようになったのか。
そして、その理由を知ったとき、自分が何をすべきなのか。
その答えは、ふたりが少しずつ距離を縮めていく先に待っていた。
