『白い盾 〜不器用なドクターの特効薬〜』

「千歳さん、次のVIP会員様のカルテ、準備できてる?」

「はい、こちらに用意してあります……」

高級人間ドッククリニックのフロア。

亜耶奈はデスクの端を強く握りしめ、どうにか声を絞り出した。

朝から、みぞおちの奥がひどく痛む。

雑巾をぎゅっと絞られるような痛みが、何度も波のように押し寄せていた。

いつもなら、市販の胃薬を飲んでやり過ごせるはずだった。

けれど、ここ数日の過密スケジュールとプレッシャーが重なり、痛みは次第に強くなっていた。

(痛い……。でも、ここで倒れるわけにはいかない……)

額に、じわりと汗がにじむ。

(倒れたら、診察室に連れていかれちゃう……!)

今、自分がいるのは医療の現場だ。

普段なら、受診する人を笑顔で迎え、安心して検査を受けられるように案内する場所。

けれど、自分が患者になることだけは、どうしても受け入れられなかった。

大嫌いな病院。

注射も、薬も、検査も怖い。

だからこそ、絶対に弱みを見せたくなかった。

「……あ、やなちゃん……?」

隣のデスクにいた同僚が、亜耶奈の異変に気づいた。

「どうしたの? 顔色、すごく悪いよ?」

「大丈夫、です……。ちょっと、胃が……」

言い終わる前に、みぞおちを鋭い痛みが襲った。

「っ……!」

亜耶奈は息を詰め、反射的にお腹を抱え込んだ。

顔から血の気が引いていく。額には大粒の冷や汗が浮かび、呼吸も浅くなっていた。

「ちょっと、亜耶奈ちゃん!?」

同僚が慌てて駆け寄る。

亜耶奈は椅子に座ろうとしたものの、足に力が入らず、その場に崩れそうになった。

「く、苦し……。大丈夫、ですから……っ」

「大丈夫じゃないよ! 動かないで!」

同僚は亜耶奈の体を支え、近くの椅子に座らせた。

「先生を呼んでくるね。すぐだから!」

「ダメ……っ! 先生は、呼ばないで……!」

亜耶奈は涙目で首を振った。

「お願い……。すぐ治りますから……」

「でも、こんなに冷や汗が出てるんだよ?」

同僚が困惑した、そのときだった。

「――失礼します。神楽です。こちらの院長先生に、今月からの共同研究の資料をお届けに……」

落ち着いた声が、フロアに響いた。

提携先の総合病院から、共同研究の資料を届けに来た神楽日向だった。

スーツ姿の日向は、受付で対応を待とうとした。

ところが、スタッフの輪の中に座り込む女性の姿が目に入った瞬間、その表情が変わった。

「……亜耶奈さん!?」

手にしていた紙袋を近くの台に置き、日向は急いで駆け寄った。

「日向、さん……?」

亜耶奈が驚いたように顔を上げる。

その目の前で、日向の表情からいつもの柔らかさが消えた。

代わりに浮かんだのは、患者の異変を見逃すまいとする、医師の真剣な眼差しだった。

「どうしたの? どこが痛い?」

「ちょっと……お腹が……」

「みぞおち?」

亜耶奈が小さく頷く。

「いつから痛い? 急に? それとも、朝からずっと?」

「朝から……。でも、いつものことだから……」

「いつものこと?」

日向の眉がわずかに寄った。

「今までも、こんなに痛くなったことがある?」

亜耶奈は答えられなかった。

痛みが強くなるたびに、薬を飲んで我慢してきた。

それを知られたくなかった。

「神楽先生……? こちらの方とお知り合いですか?」

同僚の問いかけに、日向は短く頷いた。

「はい。知り合いです。申し訳ありませんが、少し状態を確認させてください」

日向は亜耶奈の前に膝をついた。

「亜耶奈さん、俺の声、聞こえる?」

「……はい」

「よかった。今、息苦しさはある? 胸が痛いとか、冷や汗以外に何か変わったことは?」

「息は……少し、苦しいです……。でも……」

「分かった。無理に話さなくていいよ」

日向は亜耶奈の手元と顔色を確認しながら、同僚に声をかけた。

「すみません。こちらの院長先生か、今対応できる医師を呼んでもらえますか。それと、血圧や脈拍、酸素飽和度を確認できるようにお願いします」

「は、はい!」

同僚が急いで立ち上がる。

「それから、救急搬送も考えています。今の状態では、ここで休んでいるだけで大丈夫とは言えません」

「え……?」

亜耶奈の顔がこわばった。

救急搬送。

その言葉を聞いただけで、頭の中が真っ白になる。

「嫌……。救急車なんて、呼ばないで……」

「亜耶奈さん」

日向は、彼女の目線に合わせた。

「怖いよね。でも、今の痛みは、いつもの胃痛だと決めつけられないんだ」

「でも、胃が痛いだけです……」

「胃が原因かどうかも、まだ分からない。強い痛みと冷や汗が出ているから、きちんと調べる必要がある」

日向の声は落ち着いていた。

だからこそ、その言葉の重みが亜耶奈には伝わってしまう。

「……神楽さん」

亜耶奈は、彼の胸元に目を向けた。

そこには、病院名と所属、そして名前が記されたIDカードが下がっていた。

【消化器内科 神楽日向】

「……うそ」

唇が震える。

「技術職、じゃ……」

日向は一瞬、言葉を失った。

そして、苦しそうに眉を下げた。

「……うん。ごめん」

「お医者様……だったの?」

「そう。ここと提携してる総合病院の消化器内科で働いてる」

「どうして……」

「最初は、普通に自分のことを知ってほしかったんだ。医者だと分かった途端、相手の態度が変わることが何度もあって……。でも、それを理由に隠し続けたのは、俺が悪かった」

日向は亜耶奈の目を見つめた。

「騙すようなことをして、ごめん」

亜耶奈は何も言えなかった。

優しい人だと思った。

一緒にいると安心できる人だと思った。

もっと話したい。もっと一緒にいたい。

そう思い始めていた相手が、自分の最も苦手な医師だった。

しかも、ずっと職業を隠していた。

「……嫌」

小さな声が漏れた。

「亜耶奈さん……」

「お医者様は、嫌……。私、注射も、検査も、本当にダメなんです……」

亜耶奈の目に涙が浮かぶ。

日向は、彼女の手を握ろうとして、いったん動きを止めた。

今は、触れられることさえ怖いかもしれない。

「分かった。無理に触らないよ」

そう伝えてから、少しだけ声を柔らかくした。

「でも、今は体のことを優先させてほしい。君を怖がらせたいわけじゃないんだ」

亜耶奈は、ぎゅっとお腹を押さえた。

痛みは、まだ続いている。

それでも、病院へ行く恐怖のほうが、今は大きかった。

「ここじゃ……。みんなに見られてる……」

周囲のスタッフたちが、心配そうにこちらを見守っている。

日向はその様子を確かめ、同僚に尋ねた。

「静かに休める場所はありますか? できれば、医師が状態を確認できる部屋をお願いします」

「二番の診察室が空いています。ご案内します!」

「ありがとうございます」

日向は亜耶奈に向き直った。

「亜耶奈さん。移動するのもつらいよね。車椅子を用意してもらおうか?」

「……自分で、歩けます……」

「無理しなくていいよ。今は、体に余計な負担をかけないことが大切だから」

亜耶奈は悔しそうに唇を噛んだ。

いつもなら、どんな相手にも完璧な笑顔を向けられる。

困っている人がいれば、すぐに手を差し伸べられる。

なのに、自分のことになると、こんなにも何もできなくなってしまう。

「……お願いします」

ようやく絞り出した声に、日向は小さく頷いた。

「うん。一緒に行こう」

スタッフが用意した車椅子に移るとき、亜耶奈の手が不安そうに宙をさまよった。

日向はその手を見つめ、静かに尋ねた。

「手、握っていてもいい?」

亜耶奈は迷ったあと、小さく頷いた。

日向の手が、そっと彼女の手を包み込む。

強く握りしめるのではなく、いつでも離せるくらいの優しさで。

二人は、静かな二番診察室へと向かった。

*

診察室の中は、フロアよりもずっと静かだった。

それでも、白い壁も、診察台も、天井のライトも、亜耶奈には怖かった。

車椅子から診察台へ移るよう促されても、彼女はすぐに動けなかった。

「……やっぱり、嫌……」

震える声がこぼれる。

「病院、嫌なんです……。私、注射も、お医者様も、本当にダメで……」

日向は診察台の横に椅子を置き、亜耶奈と目線を合わせた。

「うん。怖いんだよね」

「……分からないでしょう? こんな大人になってまで、病院が怖いなんて……」

「俺には、君が感じている怖さを全部は分からないかもしれない」

日向は、正直に答えた。

「でも、怖いと思うことを、恥ずかしいとは思わないよ」

亜耶奈が顔を上げる。

「……え?」

「怖いものは、怖いよね。無理に平気なふりをしなくていい」

日向は、彼女の手元に視線を落とした。

「今、触れても大丈夫? 脈を確認したいんだ」

亜耶奈はしばらく迷っていたが、やがて小さく頷いた。

日向はそっと手首に触れ、脈を確認した。

「ありがとう。次に、痛みの場所をもう少し確認したい。でも、今の強い痛みと冷や汗がある状態では、触診だけで原因を判断することはできないんだ」

「……じゃあ、何をするんですか?」

「まず、ここにいる先生と一緒に、今の状態を確認する。それから、必要な検査ができる病院へ移ることを考えたい」

「検査……?」

亜耶奈の顔が、また強張った。

日向は、すぐに言葉を重ねなかった。

怖がらせたくない。

けれど、安心させるために、できない約束をするわけにもいかない。

「怖い検査があるかもしれない。だから、何をする必要があるのか、できるだけ事前に説明するよ。分からないことは、その都度聞いていい。嫌だと感じたら、その気持ちも伝えてほしい」

「……痛いこと、しないって言ってくれないんですか?」

その声は、今にも泣き出しそうだった。

日向の胸が痛む。

「痛いことを絶対にしない、とは約束できない。必要な検査や処置があるかもしれないから。でも、必要のないことを無理にするつもりはないよ。痛みや怖さをできるだけ減らせる方法も、一緒に考えたい」

亜耶奈の目から、ぽろりと涙がこぼれた。

「……優しく、してください」

「うん。約束する」

日向は、彼女の手をそっと握り返した。

その直後、診察室のドアがノックされた。

クリニックの医師が入室し、日向とともに亜耶奈の状態を確認する。

血圧や脈拍などの測定が進められる間も、亜耶奈は不安そうに日向の手を握っていた。

日向は、痛みの程度や始まった時間、これまでの症状について、答えられる範囲で尋ねていく。

「朝から痛かったんだね。ここ数日も、同じような痛みがあった?」

「……はい」

「胃薬は飲んだ?」

「……飲みました」

「分かった。教えてくれてありがとう」

日向はそれ以上、彼女を責めなかった。

忙しいから。

迷惑をかけたくないから。

病院が怖いから。

理由はどうあれ、亜耶奈が一人で痛みを抱えてきたことは分かった。

そして今も、痛みを訴えることさえ、彼女にとっては勇気のいることなのだ。

「みぞおちの痛みが強いんだね」

日向はクリニックの医師と確認を重ねた。

「ただ、胃炎と決めつけることはできません。ほかの病気の可能性も考えて、早急に検査できる施設へ搬送したほうがいいと思います」

その言葉を聞いた瞬間、亜耶奈の手に力が入った。

「……病院に、行くんですか?」

日向は、彼女の顔を見た。

「うん。今の状態では、ここで休んでいるだけで安全だとは言えないから」

「イヤ……」

亜耶奈は首を振った。

「どこも行きたくない……。少し休めば大丈夫だから……」

日向は、すぐには答えなかった。

彼女がどれほど怖がっているのか、目の前で見ている。

それでも、医師として見過ごすことはできない。

「亜耶奈さん。俺は、君が怖いと思っていることを無視したくない。でも、今の状態を放っておくこともできないんだ」

「でも……」

「今すぐ、ここで全部を受け入れなくてもいい。まずは、必要なことを一つずつ説明させてほしい」

日向はクリニックの医師と相談し、搬送に向けた対応を進めた。

亜耶奈は、まだ首を横に振っていた。

その姿を見て、日向は胸が締めつけられるような思いになった。

彼女が嫌がっているのは、単に病院という建物だけではない。

注射、検査、痛み、何をされるか分からない不安。

それらすべてが重なり、亜耶奈を動けなくしているのだ。

「……亜耶奈さん」

日向は、もう一度、彼女の目を見た。

「俺が医者だってことを隠していたのは、本当にごめん。信じてもらえなくなっても仕方ないと思ってる」

亜耶奈は、黙って彼を見つめていた。

「でも、今は医師として、君をきちんと診てもらいたい。それと……」

日向は一度、言葉を切った。

「一人の男としても、君がこんなに苦しんでいるのを見ているのはつらい」

「……日向さん」

「君がどれだけ病院を怖がっているか、今日、改めて分かった。俺がその怖さを全部理解できるとは言えない。でも、分からないからって、君を一人にしたくないんだ」

日向の声が、わずかに震えた。

「君が怖いときは、何が怖いのか教えてほしい。俺にできることがあれば、できる限り力になりたい。だから……今は、必要な診察を受けてほしい」

亜耶奈の目に、また涙が浮かんだ。

優しくしてくれる。

心配してくれる。

それなのに、彼は自分が最も嫌がる場所へ行くように言う。

その矛盾が、亜耶奈には苦しかった。

「……考えておきます」

ようやく出てきた言葉は、か細かった。

「でも、答えは同じだと思います。この気持ちは、誰も分かってくれないから……」

亜耶奈は唇を噛みしめ、握られていた手をそっと引いた。

日向は、傷ついたように目を伏せた。

けれど、彼女の気持ちを否定することはしなかった。

「……そう思うくらい、今まで怖い思いをしてきたんだね」

亜耶奈は答えなかった。

日向は、静かに続けた。

「俺が全部分かってあげられるとは言えない。でも、君の話を聞くことはできる。どうすれば少しでも怖さを減らせるのか、一緒に考えることもできる」

それから、彼女の手元を見つめた。

「だから、今は一人で我慢しないでほしい」

亜耶奈は、視線をそらした。

「……もう、いいです」

無理をして作った、いつものコンシェルジュの笑顔。

「少し休んだら、痛みも落ち着くと思います。日向さんもお仕事なんじゃ……? 戻ってください」

日向は、その笑顔が本心ではないことに気づいていた。

それでも、彼女を責めることはしなかった。

「分かった。ここでの対応は、クリニックの先生にお願いするね」

そう言ってから、日向は上着の内ポケットに手を入れた。

取り出したのは、一枚の名刺だった。

【消化器内科 医局員 神楽日向】

「これ、渡しておくね」

亜耶奈は、名刺を見つめた。

「病院に来ることができたら、受付でこれを見せて。俺に連絡がつくようにするから」

「……」

「でも、今の痛みは、落ち着いたからって放っておかないでほしい。俺の病院でも、ほかの病院でもいい。必要な診察を受けてほしいんだ」

日向は、まっすぐに亜耶奈を見た。

「君がどこで診てもらうかは、君の気持ちも大切にして決めてほしい。ただ、今の症状は、できるだけ早く調べてもらわないといけない」

亜耶奈は、名刺を受け取ることもできず、ただ見つめていた。

日向は、それを無理に手渡そうとはしなかった。

名刺を診察台のそばに置き、静かに立ち上がる。

「……亜耶奈さん」

彼女が顔を上げる。

「今日は、怖い思いをさせてごめん。でも、君のことを心配しているのは、本当だから」

それだけ告げて、日向は診察室を出た。

外では、同僚たちが心配そうに待っていた。

日向は彼女たちに頭を下げ、クリニックの医師と今後の対応について確認する。

「どうか、無理をさせないであげてください。痛みが続いているので、必要な対応をお願いします」

そう伝えたあと、日向は共同研究の資料を院長先生に渡してもらえるように受付のコンシェルジュに頼み、頼まれていた書類を受け取り病院へ戻っていった。

*

それからしばらくして。

亜耶奈は、クリニックの医師やスタッフの対応を受けながら、診察室で休んでいた。

痛みはまだ残っている。

それでも、彼女の頭の中は、別のことでいっぱいだった。

(神楽さんが……お医者様だったなんて)

日向の優しい声が、何度も思い出される。

『俺が全部分かってあげられるとは言えない。でも、君の話を聞くことはできる』

『一人で我慢しないでほしい』

彼は、自分のことを心配してくれていた。

それは、嘘ではないのかもしれない。

けれど、医師であるという事実は変わらない。

亜耶奈は、診察台のそばに置かれた名刺に目を向けた。

【消化器内科 医局員 神楽日向】

好きになりかけていた人。

一緒にいると安心できた人。

その人が、自分の最も苦手な世界にいる人だった。

「……どうしたら、いいの……」

小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。

やがて亜耶奈は、乱れた制服を整え、いつものように笑顔を作った。

完璧なメディカルコンシェルジュとして、仕事に戻ろうとする。

けれど、デスクに戻った彼女の手元には、日向の名刺が残っていた。

捨てることも、すぐに連絡することもできない。

ただ、名刺をそっと引き出しにしまう。

その小さな動作が、今の亜耶奈にできる精いっぱいの答えだった。