『白い盾 〜不器用なドクターの特効薬〜』

合コンの夜から二週間。

亜耶奈と日向は、毎日のようにメッセージを交わすようになっていた。

日向からの返信は夜遅いことが多かった。それでも、どんなに短いメッセージにも丁寧な言葉が添えられ、亜耶奈の体調を気遣ってくれることもあった。

『今日もお疲れさま。ちゃんとご飯食べた?』

そんな何気ない一言が、亜耶奈には嬉しかった。

「神楽さん、本当にマメで優しい人だな……」

高級人間ドックを提供するクリニックの受付デスクで、亜耶奈はスマートフォンの画面を見つめながら、小さくため息をついた。

最近、職場は慌ただしかった。

VIP会員からの度重なるスケジュール変更に加え、新しい医療機器の導入に伴う研修まで重なっている。

笑顔を絶やさず、相手の要望に応え続ける毎日。

さすがの亜耶奈も、疲れを隠しきれなくなっていた。

キリキリ、とみぞおちのあたりが鈍く痛む。

(……また胃が痛い)

ここ最近、冷たいものを飲むと、決まって胃のあたりが痛くなる。

少し休めば治まる。そう自分に言い聞かせてきたけれど、以前よりも痛みを感じる頻度が増えていた。

(でも、絶対に病院には行かない。胃カメラなんて、死んでも嫌!)

考えただけで、背筋がぞわりとする。

亜耶奈は机の下でそっとお腹に手を当てた。

引き出しから市販の胃薬を取り出し、手元の水で飲み込む。

病院嫌いの亜耶奈にとって、自分の体調不良は「気合いと市販薬」で乗り切るものだった。

本当は、そんなやり方がいつまでも通用するわけではないと、心のどこかでは分かっている。

それでも、病院に行くことを考えるくらいなら、多少の痛みを我慢するほうがましだった。

そんなある日の会社帰り。

二人は二回目のデートとして、落ち着いた雰囲気の和食居酒屋で会うことになった。

「亜耶奈さん、お疲れさま」

先に店に着いていた日向が、笑顔で手を上げた。

「お待たせしました」

亜耶奈が席につくと、日向はふと、その表情を覗き込んだ。

「……あれ? なんか元気ない? 疲れてる?」

「えっ、そうですか?」

「うん。いつもより、ちょっと顔色がよくない気がする」

日向の目が、亜耶奈の顔から、座るときにわずかに前屈みになった姿勢へと移る。

彼女は席についたあとも、片手をお腹のあたりに添えていた。

ほんの些細な仕草だった。

けれど、日向は見逃さなかった。

消化器内科医として、毎日多くの患者の腹痛の訴えを聞いている。表情や姿勢、声の調子。診察室で患者が何気なく見せる動作にも、症状を知る手がかりが隠れていることがある。

(……腹痛? それとも、胃のあたりかな)

気にはなった。

けれど、ここは診察室ではない。

亜耶奈が話してくれない限り、勝手に決めつけるわけにはいかなかった。

「大丈夫です。ちょっと仕事が忙しくて。神楽さんこそ、相変わらず忙しそうですね」

「うん、最近ちょっと……お腹の風邪が流行っててさ」

口にしてから、日向は一瞬、言葉に詰まった。

「……いや、職場の周りでね。なんか体調崩してる人が多いみたいで」

危うく「外来が混んでいて」と言いそうになり、慌てて言い直す。

「そうなんですね。神楽さんも気をつけてくださいね」

「うん。ありがとう」

日向はほっとしたように笑い、グラスに手を伸ばした。

亜耶奈と過ごす時間は、日向にとって特別だった。

医師だと知れば、態度を変える人もいる。

肩書きに興味を持たれたり、何気ない会話が健康相談になったりすることも珍しくない。

けれど、亜耶奈は違った。

仕事の話も、休日の過ごし方も、何気ない冗談も、彼女は自然な笑顔で聞いてくれる。

医師という肩書きを知らないからこそ、目の前の自分と向き合ってくれている。

その心地よさを、今はまだ手放したくなかった。

だから今日も、本当の職業を打ち明けられずにいた。

「亜耶奈さん、今日は温かいお茶にする? それと、湯豆腐とか頼もうか」

「えっ、どうして……?」

「いや、最近冷えるし。温かいもののほうがいいかなと思って」

日向は、何でもないことのように笑った。

亜耶奈は、思わず頬が緩むのを感じた。

(本当に優しい人。技術職の人って、細かいところまで気がつくんだなぁ……)

彼が自分の体調を気にしていることも、何気なく温かい料理を勧めてくれたことも、亜耶奈には嬉しかった。

一緒にいると、無理をして笑わなくてもいいような気がする。

この人と、もっと一緒にいたい。

そんな気持ちが、少しずつ大きくなっていた。

けれど――。

みぞおちの奥に、また鈍い痛みが走る。

亜耶奈は気づかれないように、そっと息を吐いた。

(大丈夫。今日くらい、楽しもう)

そう自分に言い聞かせ、日向に笑顔を向ける。

その笑顔の奥で、彼女の体が発している小さなサインは、確実に大きくなり始めていた。