動物病院の待合室は、消毒液の匂いがした。
千夏は、膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめていた。
隣には秋斗が座っている。
足元には、ソラのリードが伸びていた。
診察室の扉は閉じたままだった。
「……大丈夫かな」
思わず口にすると、秋斗がこちらを見た。
「先生がちゃんと診てくれてる。今は待とう」
「でも……」
千夏は唇を噛んだ。
七日前。
ソラがまだ元気だった時間に戻ってきたのだから、今度こそ何かを変えられると思っていた。
早く病院へ連れていけばいい。
体調を細かく確認すればいい。
ソラのそばにいて、異変を見逃さなければいい。
そうすれば、きっと未来は変わる。
そう信じたかった。
けれど、もしも。
もしも、どれだけ頑張っても結果が変わらなかったら?
もしも、ソラがいなくなる未来だけは、どうしても変えられなかったら?
「千夏」
秋斗の声に、千夏は顔を上げた。
「今、悪いことばっかり考えてるだろ」
「……どうしてわかるの?」
「昔から、わかりやすいんだよ」
秋斗は少し困ったように笑った。
「お前、心配なことがあると、すぐ手を握りしめるから」
千夏は自分の手を見た。
指先が白くなるほど、強く握っていた。
「……だって、怖いんだもん」
ぽつりとこぼれた本音に、秋斗は黙って耳を傾けた。
「ソラがいなくなるのが怖い。もう一度、あの日が来るのが怖い。私が何をしても、結局、同じことになるんじゃないかって……」
最後まで言えなかった。
言葉にしてしまえば、本当になってしまう気がした。
秋斗はしばらく考えたあと、静かに口を開いた。
「未来がどうなるかは、俺にもわからない」
「……うん」
「でも、今ここにいるソラは、まだ生きてる。俺たちにできることだって、きっとある」
秋斗は、千夏の手元に目を落とした。
「だから、今はその一つずつをやろう」
千夏は、ゆっくりと息を吸った。
すぐに不安が消えたわけではない。
それでも、秋斗の言葉は、千夏の胸に小さな明かりを灯してくれた。
そのとき、診察室の扉が開いた。
「水瀬さん」
獣医師が二人を呼んだ。
千夏は勢いよく立ち上がった。
「ソラは……?」
「ひとまず、落ち着いていますよ。こちらへどうぞ」
千夏は、祈るような気持ちで診察室へ入った。
*
診察台の上で、ソラは少し疲れた様子で伏せていた。
千夏を見ると、顔を上げて尻尾を振る。
「ソラ……」
千夏はそばに駆け寄り、そっと頭を撫でた。
獣医師は検査結果を確認しながら、丁寧に説明してくれた。
年齢による体の衰えもあり、いくつか注意すべき症状が見られること。
今の段階では、詳しい検査を重ねなければ原因を特定できないこと。
そして、これからは食事や水分、歩き方などをよく観察していく必要があること。
「早めに連れてきていただいたのは、よかったと思います」
その言葉に、千夏は胸を撫で下ろした。
少なくとも、何もせずにいるよりはいい。
「先生、ソラは治りますか?」
千夏は、思い切って尋ねた。
獣医師はすぐには答えなかった。
「今の情報だけでは、はっきりしたことは言えません。ただ、検査でわかることもありますし、体への負担を減らすためにできることもあります。一緒に考えていきましょう」
「……はい」
千夏は頷いた。
できることがある。
まだ、何も終わっていない。
診察が終わり、ソラを連れて病院を出たころには、外はすっかり暗くなっていた。
秋斗がリードを持ち、千夏はソラの歩調に合わせて隣を歩いた。
「ねえ、秋斗」
「ん?」
「今日、病院に来てよかった」
「そうだな」
「私、何もわかってなかったんだね。ソラのこと、ずっと一緒にいたのに」
千夏はうつむいた。
「元気なときは、ずっと元気でいてくれるって思ってた。ちょっと年を取ったなって思っても、それだけで……」
言葉が詰まる。
「もっとちゃんと見ていればよかった」
「千夏」
秋斗は歩みを緩めた。
「ソラと一緒にいた時間、全部を後悔にしなくていいんじゃないか」
「……でも」
「今まで気づけなかったことがあるなら、これから気づけばいい。今日だって、ちゃんと病院に連れてきたじゃん」
千夏は、足元を歩くソラを見た。
ソラは時折立ち止まり、秋斗と千夏を交互に見上げる。
昔からそうだった。
二人の歩く速度が違うと、間に入って待っていてくれた。
まるで、二人が一緒にいることを確かめているみたいに。
「……ありがとう、秋斗」
「どういたしまして」
「私、頑張るね」
秋斗は頷いた。
「一緒にな」
*
翌朝。
千夏は目覚まし時計が鳴るよりも早く目を覚ました。
最初にしたことは、ソラの様子を確かめることだった。
ベッドから降りて、部屋の扉を開ける。
廊下の向こうから、爪が床を叩く音が聞こえた。
ととと、と軽い足音。
ソラがやってきた。
「おはよう、ソラ」
千夏はしゃがみ込んだ。
ソラは尻尾を振り、千夏の手に鼻先を押しつけた。
「今日も元気?」
千夏は、ソラの様子をゆっくり確認した。
歩き方。
呼吸。
目の様子。
いつもと違うところはないだろうか。
昨日、獣医師に教えてもらったことを思い出しながら、一つずつ確認していく。
そのあと、ソラの朝ごはんを用意した。
「はい、どうぞ」
ソラは器に顔を近づけ、ゆっくりと食べ始めた。
千夏はほっと息を吐く。
食べてくれた。
それだけで、嬉しかった。
食事を終えると、千夏はノートを取り出した。
表紙には、太いペンでこう書いた。
『ソラの記録』
日付、食べた量、飲んだ水の量、散歩の様子。
小さな変化も見逃さないように、毎日記録していこうと決めた。
ノートの最初のページに、千夏は今日の日付を書いた。
十月十九日。
あと六日。
その数字を見た瞬間、ペンを持つ手が止まった。
六日後には、十月二十五日がやってくる。
千夏はノートを閉じた。
「……今は、考えない」
未来のことばかり考えていたら、今日のソラを見失ってしまう。
今、目の前にいるソラを大切にする。
それが、今の自分にできることだ。
*
学校では、千夏の変化に美咲が気づいた。
「ねえ、千夏。昨日、何かあった?」
「え?」
「なんか、今日はずっとスマホ見てるし、休み時間になるとノートに何か書いてるし」
千夏は慌ててノートを閉じた。
「ちょっと、家のことでね」
「ソラのこと?」
千夏は頷いた。
「昨日、病院に連れていったの。これから、ちゃんと様子を見ていこうと思って」
「そっか……」
美咲は少し考えてから言った。
「千夏がソラのこと大切にしてるの、知ってるよ」
「……うん」
「だから、無理しすぎないでね。千夏が倒れちゃったら、ソラだって心配すると思う」
千夏は目を瞬いた。
秋斗にも、似たようなことを言われた。
自分が頑張りすぎていることを、二人とも心配してくれている。
「ありがとう、美咲」
千夏は、今度は無理に笑うのではなく、自然に笑うことができた。
美咲も嬉しそうに笑った。
「よし。じゃあ今日の数学、一緒に頑張ろう!」
「それは別の意味で頑張らなきゃ……」
二人は顔を見合わせて笑った。
ほんの短い時間だったけれど、千夏は久しぶりに、いつもの高校生活に戻れた気がした。
ソラのことを考えない時間があってもいい。
笑ってもいい。
そのことを、少しだけ許せるようになった。
*
放課後、千夏は寄り道をせずに家へ帰った。
玄関を開けると、母がリビングから顔を出した。
「おかえり、千夏」
「ただいま。ソラは?」
「庭で日向ぼっこしてるわよ」
千夏は靴を脱ぐと、鞄を置くより先に庭へ向かった。
ソラは芝生の上で気持ちよさそうに横になっていた。
秋の日差しが、金色の毛並みを柔らかく照らしている。
「ソラ!」
呼ぶと、ソラは顔を上げた。
尻尾が、ぱたぱたと動く。
千夏は隣に座り、ソラの体をそっと撫でた。
「ただいま」
その言葉を口にした瞬間、胸がいっぱいになった。
今までは、毎日当たり前のように言っていた言葉。
けれど、もう二度と言えないと思っていた。
「……ただいま、ソラ」
千夏は、ソラの首に腕を回した。
「今日ね、学校で美咲と話したんだよ。秋斗にも会ったよ」
ソラは、じっと千夏の話を聞いている。
「みんな、優しいね。私、一人で何とかしなきゃって思ってたけど……そうじゃなかったんだね」
千夏はソラの背中を撫でた。
「だから、これからは、ちゃんとみんなに頼ることにする」
ソラは、くぅん、と鳴いた。
「うん。約束」
千夏は小指を差し出した。
もちろん、ソラには約束の意味なんてわからない。
それでも、ソラは千夏の指先をぺろりと舐めた。
千夏は笑った。
「……もう。そういうところ、変わらないね」
風が吹いた。
庭の木の葉が揺れ、夕方の光がゆっくりと傾いていく。
千夏は、この時間がずっと続けばいいと思った。
ずっと、このまま。
ソラの温かさを感じながら、何でもない話をしていられたらいいのに。
*
その夜。
千夏はソラの記録をノートに書き込んでいた。
食事は完食。
散歩は短め。
夕方は庭で日向ぼっこ。
目立った変化はなし。
書き終えたところで、母が温かいお茶を持ってきた。
「千夏、少し休んだら?」
「うん。もう少しだけ」
母はノートを見つめた。
「ソラの記録?」
「うん。昨日、先生に言われたことを忘れないように」
「そう……」
母は千夏の隣に座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて母が、静かに口を開いた。
「千夏。昨日はごめんね」
「え?」
「ソラを病院に連れていってって、すごく必死だったでしょう。お母さん、ちょっと驚いちゃって」
千夏は慌てて首を振った。
「ううん。私こそ、ごめん。急に大きな声を出して」
母は千夏の顔を見た。
「何か、心配なことがあるの?」
千夏は言葉に詰まった。
未来から戻ってきたこと。
ソラが亡くなる日を知っていること。
母に話せば、信じてもらえるだろうか。
いや、きっと困らせてしまう。
千夏は、しばらく迷ったあと、正直な気持ちだけを伝えることにした。
「……ソラがいなくなるのが、怖いの」
母の表情が変わった。
「千夏……」
「私、今まで、ずっと一緒にいられると思ってた。ソラが年を取ってることもわかってたのに、ずっと先のことだと思ってた」
涙が浮かんだ。
「もっと、ちゃんと見ていればよかった。もっと、一緒にいる時間を大切にすればよかった」
母は、そっと千夏を抱きしめた。
「お母さんも、怖いよ」
千夏は顔を上げた。
「……お母さんも?」
「当たり前でしょう。ソラは家族だもの」
母の声も、少し震えていた。
「ずっと元気でいてほしい。でも、どれだけ願っても、どうにもならないことがあるかもしれない。そう考えると、お母さんだって怖いの」
千夏の目から、涙がこぼれた。
母も、同じだった。
自分だけが悲しいのではない。
家族みんなが、ソラを大切に思っている。
「だからね、千夏」
母は娘の髪を撫でた。
「ソラのためにできることを、一緒に考えましょう。お母さんも、ちゃんと協力するから」
「……うん」
「それから、千夏自身のことも大切にしてね。ソラのそばにいたい気持ちはわかるけれど、ご飯も食べて、眠って。元気な千夏でいてほしいわ」
千夏は、母の胸に顔を埋めた。
「……ありがとう」
その夜、千夏は久しぶりに、母の前で声を上げて泣いた。
悲しみを隠さなくてもいい。
怖いときは、怖いと言っていい。
そう思えたことが、千夏にとって小さな一歩だった。
*
深夜。
千夏は、ふと目を覚ました。
部屋は暗く、窓の外から月明かりが差し込んでいる。
何か音がした気がした。
ちりん。
小さな鈴の音。
千夏は布団から起き上がった。
机の上には、ソラの首輪が置かれている。
首輪についている銀色の鈴が、月明かりの中で淡く光っていた。
「……また?」
千夏は、そっと鈴を手に取った。
表面に入ったひびが、昨日よりも少し長くなっている。
指先で触れると、鈴がかすかに震えた。
そして、耳元で声がした。
『千夏』
懐かしい声。
優しくて、温かくて、ずっと聞いていたい声。
千夏は息を止めた。
「……ソラ?」
返事はない。
けれど、次の瞬間、千夏の脳裏に光景が浮かんだ。
小さなソラが、初めて家に来た日のこと。
玄関でおそるおそる歩いていたソラ。
千夏が名前を呼ぶと、嬉しそうに駆け寄ってきた。
その光景は、一瞬で消えた。
千夏は、呆然と鈴を見つめた。
「今の……何?」
手の中で、鈴がもう一度鳴った。
ちりん。
その音が消えると同時に、千夏の胸に、言葉にならない感情が広がった。
懐かしさ。
温かさ。
そして、どうしようもない切なさ。
まるで、ソラが何かを伝えようとしているようだった。
千夏は鈴を胸に抱きしめた。
「ソラ……あなたは、何を伝えたいの?」
もちろん、答えは返ってこなかった。
ただ、窓の外では、月が静かに輝いていた。
千夏は、膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめていた。
隣には秋斗が座っている。
足元には、ソラのリードが伸びていた。
診察室の扉は閉じたままだった。
「……大丈夫かな」
思わず口にすると、秋斗がこちらを見た。
「先生がちゃんと診てくれてる。今は待とう」
「でも……」
千夏は唇を噛んだ。
七日前。
ソラがまだ元気だった時間に戻ってきたのだから、今度こそ何かを変えられると思っていた。
早く病院へ連れていけばいい。
体調を細かく確認すればいい。
ソラのそばにいて、異変を見逃さなければいい。
そうすれば、きっと未来は変わる。
そう信じたかった。
けれど、もしも。
もしも、どれだけ頑張っても結果が変わらなかったら?
もしも、ソラがいなくなる未来だけは、どうしても変えられなかったら?
「千夏」
秋斗の声に、千夏は顔を上げた。
「今、悪いことばっかり考えてるだろ」
「……どうしてわかるの?」
「昔から、わかりやすいんだよ」
秋斗は少し困ったように笑った。
「お前、心配なことがあると、すぐ手を握りしめるから」
千夏は自分の手を見た。
指先が白くなるほど、強く握っていた。
「……だって、怖いんだもん」
ぽつりとこぼれた本音に、秋斗は黙って耳を傾けた。
「ソラがいなくなるのが怖い。もう一度、あの日が来るのが怖い。私が何をしても、結局、同じことになるんじゃないかって……」
最後まで言えなかった。
言葉にしてしまえば、本当になってしまう気がした。
秋斗はしばらく考えたあと、静かに口を開いた。
「未来がどうなるかは、俺にもわからない」
「……うん」
「でも、今ここにいるソラは、まだ生きてる。俺たちにできることだって、きっとある」
秋斗は、千夏の手元に目を落とした。
「だから、今はその一つずつをやろう」
千夏は、ゆっくりと息を吸った。
すぐに不安が消えたわけではない。
それでも、秋斗の言葉は、千夏の胸に小さな明かりを灯してくれた。
そのとき、診察室の扉が開いた。
「水瀬さん」
獣医師が二人を呼んだ。
千夏は勢いよく立ち上がった。
「ソラは……?」
「ひとまず、落ち着いていますよ。こちらへどうぞ」
千夏は、祈るような気持ちで診察室へ入った。
*
診察台の上で、ソラは少し疲れた様子で伏せていた。
千夏を見ると、顔を上げて尻尾を振る。
「ソラ……」
千夏はそばに駆け寄り、そっと頭を撫でた。
獣医師は検査結果を確認しながら、丁寧に説明してくれた。
年齢による体の衰えもあり、いくつか注意すべき症状が見られること。
今の段階では、詳しい検査を重ねなければ原因を特定できないこと。
そして、これからは食事や水分、歩き方などをよく観察していく必要があること。
「早めに連れてきていただいたのは、よかったと思います」
その言葉に、千夏は胸を撫で下ろした。
少なくとも、何もせずにいるよりはいい。
「先生、ソラは治りますか?」
千夏は、思い切って尋ねた。
獣医師はすぐには答えなかった。
「今の情報だけでは、はっきりしたことは言えません。ただ、検査でわかることもありますし、体への負担を減らすためにできることもあります。一緒に考えていきましょう」
「……はい」
千夏は頷いた。
できることがある。
まだ、何も終わっていない。
診察が終わり、ソラを連れて病院を出たころには、外はすっかり暗くなっていた。
秋斗がリードを持ち、千夏はソラの歩調に合わせて隣を歩いた。
「ねえ、秋斗」
「ん?」
「今日、病院に来てよかった」
「そうだな」
「私、何もわかってなかったんだね。ソラのこと、ずっと一緒にいたのに」
千夏はうつむいた。
「元気なときは、ずっと元気でいてくれるって思ってた。ちょっと年を取ったなって思っても、それだけで……」
言葉が詰まる。
「もっとちゃんと見ていればよかった」
「千夏」
秋斗は歩みを緩めた。
「ソラと一緒にいた時間、全部を後悔にしなくていいんじゃないか」
「……でも」
「今まで気づけなかったことがあるなら、これから気づけばいい。今日だって、ちゃんと病院に連れてきたじゃん」
千夏は、足元を歩くソラを見た。
ソラは時折立ち止まり、秋斗と千夏を交互に見上げる。
昔からそうだった。
二人の歩く速度が違うと、間に入って待っていてくれた。
まるで、二人が一緒にいることを確かめているみたいに。
「……ありがとう、秋斗」
「どういたしまして」
「私、頑張るね」
秋斗は頷いた。
「一緒にな」
*
翌朝。
千夏は目覚まし時計が鳴るよりも早く目を覚ました。
最初にしたことは、ソラの様子を確かめることだった。
ベッドから降りて、部屋の扉を開ける。
廊下の向こうから、爪が床を叩く音が聞こえた。
ととと、と軽い足音。
ソラがやってきた。
「おはよう、ソラ」
千夏はしゃがみ込んだ。
ソラは尻尾を振り、千夏の手に鼻先を押しつけた。
「今日も元気?」
千夏は、ソラの様子をゆっくり確認した。
歩き方。
呼吸。
目の様子。
いつもと違うところはないだろうか。
昨日、獣医師に教えてもらったことを思い出しながら、一つずつ確認していく。
そのあと、ソラの朝ごはんを用意した。
「はい、どうぞ」
ソラは器に顔を近づけ、ゆっくりと食べ始めた。
千夏はほっと息を吐く。
食べてくれた。
それだけで、嬉しかった。
食事を終えると、千夏はノートを取り出した。
表紙には、太いペンでこう書いた。
『ソラの記録』
日付、食べた量、飲んだ水の量、散歩の様子。
小さな変化も見逃さないように、毎日記録していこうと決めた。
ノートの最初のページに、千夏は今日の日付を書いた。
十月十九日。
あと六日。
その数字を見た瞬間、ペンを持つ手が止まった。
六日後には、十月二十五日がやってくる。
千夏はノートを閉じた。
「……今は、考えない」
未来のことばかり考えていたら、今日のソラを見失ってしまう。
今、目の前にいるソラを大切にする。
それが、今の自分にできることだ。
*
学校では、千夏の変化に美咲が気づいた。
「ねえ、千夏。昨日、何かあった?」
「え?」
「なんか、今日はずっとスマホ見てるし、休み時間になるとノートに何か書いてるし」
千夏は慌ててノートを閉じた。
「ちょっと、家のことでね」
「ソラのこと?」
千夏は頷いた。
「昨日、病院に連れていったの。これから、ちゃんと様子を見ていこうと思って」
「そっか……」
美咲は少し考えてから言った。
「千夏がソラのこと大切にしてるの、知ってるよ」
「……うん」
「だから、無理しすぎないでね。千夏が倒れちゃったら、ソラだって心配すると思う」
千夏は目を瞬いた。
秋斗にも、似たようなことを言われた。
自分が頑張りすぎていることを、二人とも心配してくれている。
「ありがとう、美咲」
千夏は、今度は無理に笑うのではなく、自然に笑うことができた。
美咲も嬉しそうに笑った。
「よし。じゃあ今日の数学、一緒に頑張ろう!」
「それは別の意味で頑張らなきゃ……」
二人は顔を見合わせて笑った。
ほんの短い時間だったけれど、千夏は久しぶりに、いつもの高校生活に戻れた気がした。
ソラのことを考えない時間があってもいい。
笑ってもいい。
そのことを、少しだけ許せるようになった。
*
放課後、千夏は寄り道をせずに家へ帰った。
玄関を開けると、母がリビングから顔を出した。
「おかえり、千夏」
「ただいま。ソラは?」
「庭で日向ぼっこしてるわよ」
千夏は靴を脱ぐと、鞄を置くより先に庭へ向かった。
ソラは芝生の上で気持ちよさそうに横になっていた。
秋の日差しが、金色の毛並みを柔らかく照らしている。
「ソラ!」
呼ぶと、ソラは顔を上げた。
尻尾が、ぱたぱたと動く。
千夏は隣に座り、ソラの体をそっと撫でた。
「ただいま」
その言葉を口にした瞬間、胸がいっぱいになった。
今までは、毎日当たり前のように言っていた言葉。
けれど、もう二度と言えないと思っていた。
「……ただいま、ソラ」
千夏は、ソラの首に腕を回した。
「今日ね、学校で美咲と話したんだよ。秋斗にも会ったよ」
ソラは、じっと千夏の話を聞いている。
「みんな、優しいね。私、一人で何とかしなきゃって思ってたけど……そうじゃなかったんだね」
千夏はソラの背中を撫でた。
「だから、これからは、ちゃんとみんなに頼ることにする」
ソラは、くぅん、と鳴いた。
「うん。約束」
千夏は小指を差し出した。
もちろん、ソラには約束の意味なんてわからない。
それでも、ソラは千夏の指先をぺろりと舐めた。
千夏は笑った。
「……もう。そういうところ、変わらないね」
風が吹いた。
庭の木の葉が揺れ、夕方の光がゆっくりと傾いていく。
千夏は、この時間がずっと続けばいいと思った。
ずっと、このまま。
ソラの温かさを感じながら、何でもない話をしていられたらいいのに。
*
その夜。
千夏はソラの記録をノートに書き込んでいた。
食事は完食。
散歩は短め。
夕方は庭で日向ぼっこ。
目立った変化はなし。
書き終えたところで、母が温かいお茶を持ってきた。
「千夏、少し休んだら?」
「うん。もう少しだけ」
母はノートを見つめた。
「ソラの記録?」
「うん。昨日、先生に言われたことを忘れないように」
「そう……」
母は千夏の隣に座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて母が、静かに口を開いた。
「千夏。昨日はごめんね」
「え?」
「ソラを病院に連れていってって、すごく必死だったでしょう。お母さん、ちょっと驚いちゃって」
千夏は慌てて首を振った。
「ううん。私こそ、ごめん。急に大きな声を出して」
母は千夏の顔を見た。
「何か、心配なことがあるの?」
千夏は言葉に詰まった。
未来から戻ってきたこと。
ソラが亡くなる日を知っていること。
母に話せば、信じてもらえるだろうか。
いや、きっと困らせてしまう。
千夏は、しばらく迷ったあと、正直な気持ちだけを伝えることにした。
「……ソラがいなくなるのが、怖いの」
母の表情が変わった。
「千夏……」
「私、今まで、ずっと一緒にいられると思ってた。ソラが年を取ってることもわかってたのに、ずっと先のことだと思ってた」
涙が浮かんだ。
「もっと、ちゃんと見ていればよかった。もっと、一緒にいる時間を大切にすればよかった」
母は、そっと千夏を抱きしめた。
「お母さんも、怖いよ」
千夏は顔を上げた。
「……お母さんも?」
「当たり前でしょう。ソラは家族だもの」
母の声も、少し震えていた。
「ずっと元気でいてほしい。でも、どれだけ願っても、どうにもならないことがあるかもしれない。そう考えると、お母さんだって怖いの」
千夏の目から、涙がこぼれた。
母も、同じだった。
自分だけが悲しいのではない。
家族みんなが、ソラを大切に思っている。
「だからね、千夏」
母は娘の髪を撫でた。
「ソラのためにできることを、一緒に考えましょう。お母さんも、ちゃんと協力するから」
「……うん」
「それから、千夏自身のことも大切にしてね。ソラのそばにいたい気持ちはわかるけれど、ご飯も食べて、眠って。元気な千夏でいてほしいわ」
千夏は、母の胸に顔を埋めた。
「……ありがとう」
その夜、千夏は久しぶりに、母の前で声を上げて泣いた。
悲しみを隠さなくてもいい。
怖いときは、怖いと言っていい。
そう思えたことが、千夏にとって小さな一歩だった。
*
深夜。
千夏は、ふと目を覚ました。
部屋は暗く、窓の外から月明かりが差し込んでいる。
何か音がした気がした。
ちりん。
小さな鈴の音。
千夏は布団から起き上がった。
机の上には、ソラの首輪が置かれている。
首輪についている銀色の鈴が、月明かりの中で淡く光っていた。
「……また?」
千夏は、そっと鈴を手に取った。
表面に入ったひびが、昨日よりも少し長くなっている。
指先で触れると、鈴がかすかに震えた。
そして、耳元で声がした。
『千夏』
懐かしい声。
優しくて、温かくて、ずっと聞いていたい声。
千夏は息を止めた。
「……ソラ?」
返事はない。
けれど、次の瞬間、千夏の脳裏に光景が浮かんだ。
小さなソラが、初めて家に来た日のこと。
玄関でおそるおそる歩いていたソラ。
千夏が名前を呼ぶと、嬉しそうに駆け寄ってきた。
その光景は、一瞬で消えた。
千夏は、呆然と鈴を見つめた。
「今の……何?」
手の中で、鈴がもう一度鳴った。
ちりん。
その音が消えると同時に、千夏の胸に、言葉にならない感情が広がった。
懐かしさ。
温かさ。
そして、どうしようもない切なさ。
まるで、ソラが何かを伝えようとしているようだった。
千夏は鈴を胸に抱きしめた。
「ソラ……あなたは、何を伝えたいの?」
もちろん、答えは返ってこなかった。
ただ、窓の外では、月が静かに輝いていた。


