目を覚ましたとき、千夏は自分の部屋にいた。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
見慣れた天井。
机の上に積まれた教科書。
壁に貼られた、友達と撮った写真。
何も変わっていない。
けれど、千夏にはわかった。
ここは、あの七日間が始まる前の世界ではない。
ソラを失ったあとに戻ってきた、元の世界なのだ。
「……ソラ?」
声に出した途端、胸の奥が冷たくなった。
返事はない。
いつもなら、千夏が起きた気配を感じると、階段の下から足音が聞こえてきた。
朝ごはんを待ちきれず、廊下を行ったり来たりする音。
千夏が部屋から出てくると、嬉しそうに尻尾を振る音。
けれど、今日は何も聞こえなかった。
千夏は布団から起き上がった。
枕元に、銀色の鈴が置かれていた。
表面には無数のひびが走っている。
もう光ってはいなかった。
千夏は震える指で、そっと鈴を持ち上げた。
「……戻ってきたんだ」
あの七日間は、夢だったのだろうか。
ソラと散歩をしたこと。
家族みんなで写真を撮ったこと。
公園のベンチで、ソラにありがとうを伝えたこと。
あんなにも鮮やかに覚えているのに。
千夏は、鈴を胸に抱きしめた。
「ソラ……」
その瞬間、記憶がよみがえった。
光に包まれた部屋。
最後に聞こえた、優しい声。
――大好きだよ。
「……っ」
千夏は口元を押さえた。
涙があふれて、止まらなかった。
やっぱり、夢ではなかった。
あの時間は、確かにあった。
ソラともう一度過ごした、かけがえのない七日間。
けれど、未来は変わらなかった。
ソラは、もういない。
*
階段を下りると、母が朝食の準備をしていた。
「あら、千夏。おはよう」
いつもと同じ声だった。
母は振り返り、千夏の顔を見ると、すぐに表情を変えた。
「……千夏?」
「お母さん」
千夏は、母のそばまで歩いた。
「今日って……何日?」
母は少し驚いたように壁のカレンダーを見た。
「十月二十八日よ。どうしたの?」
十月二十八日。
ソラがいなくなってから、三日が過ぎていた。
あの七日間の記憶を抱えたまま、千夏は元の時間に戻ってきたのだ。
千夏は、その場に立ち尽くした。
「そっか……」
たった一言しか出てこなかった。
母は何も聞かず、千夏を抱きしめた。
「……寂しいね」
その言葉を聞いた瞬間、千夏は母の胸に顔を埋めた。
「うん……寂しい」
涙が、次から次へとあふれた。
「会いたいよ、お母さん。ソラに会いたい……」
「うん」
「もう一回、撫でたい。名前を呼びたい。帰ってきたら、ただいまって言いたい……」
「うん。そうだね」
母は、ただ千夏の背中を撫でてくれた。
無理に励まさなかった。
もう大丈夫だと言わせようともしなかった。
千夏が泣きたいだけ泣けるように、ずっと抱きしめてくれた。
「わたし……ちゃんと、ありがとうって言えたんだよ」
千夏は、涙の中で呟いた。
「ソラに、いっぱい伝えたの。大好きだって。家族になってくれてありがとうって……」
母の手が、一瞬だけ止まった。
「そう……」
「だから、後悔ばっかりじゃなくていいんだよね?」
母は千夏の髪を撫でた。
「もちろんよ」
「でも、やっぱり寂しいよ……」
「寂しくていいの」
母の声も、少し震えていた。
「大切な家族だったんだもの。寂しくないわけ、ないでしょう?」
千夏は頷いた。
ずっと、悲しんではいけないと思っていた。
泣いている自分は弱いのだと思っていた。
けれど、違った。
悲しいのは、ソラが大切だったから。
会いたいのは、一緒にいた時間が幸せだったから。
その気持ちを、無理に消さなくてもいい。
千夏は母の胸に顔を埋めたまま、何度も泣いた。
その涙は、ソラを失った悲しみだけではなかった。
ソラと過ごせた幸せを、もう一度確かめる涙でもあった。
*
午後、千夏は自分の部屋で、ソラの写真を眺めていた。
初めて家に来た日の写真。
まだ小さくて、千夏の腕にすっぽり収まっている。
公園で走り回っている写真。
誕生日に、犬用のケーキを前に首を傾げている写真。
そして、最後に撮った家族写真。
写真の中のソラは、穏やかな顔をしていた。
「……ソラ」
千夏は写真の縁を指でなぞった。
「わたし、ちゃんと笑えるようになるからね」
言ってから、少しだけ考えた。
ちゃんと笑うというのは、悲しくなくなることではない。
ソラを思い出しても、涙を流さなくなることでもない。
きっと、いつか。
ソラの写真を見て、泣きながら笑える日が来る。
ソラの話をして、家族と一緒に笑える日が来る。
そういう未来を、少しずつ作っていけばいい。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「千夏、入っていい?」
秋斗の声だった。
「……うん」
扉が開き、秋斗が顔をのぞかせた。
手には、小さな紙袋を持っていた。
「これ、持ってきた」
「何?」
「ソラの写真。前に撮ったやつとか、現像しておいたんだ」
秋斗は紙袋から数枚の写真を取り出した。
その中の一枚を見て、千夏は目を見開いた。
公園で、ソラが秋斗の膝に前足を載せている写真だった。
秋斗は少し困った顔をしている。
ソラは、そんな秋斗を見上げながら、嬉しそうに尻尾を振っていた。
「……これ、いつ撮ったの?」
「それがさ。これは俺も撮った覚えがないんだ」
千夏には覚えがある光景だった。
あの不思議な七日間。
思い出のためにと撮ったときの一枚。
秋斗は写真を見つめた。
「俺、犬に好かれるタイプじゃないと思ってたんだけど」
「ソラ、人を見る目があったんだよ」
「それは褒めてるのか?」
「もちろん」
千夏は、久しぶりに少しだけ笑った。
秋斗は、その笑顔を見て、ほっとしたように息を吐いた。
けれど、すぐに真剣な顔に戻った。
「千夏」
「うん?」
「無理して元気にならなくていいからな」
千夏は、目を伏せた。
「……うん」
「学校でも、普通に振る舞おうとしなくていい。話したくないときは話さなくていいし、泣きたいときは泣いていい」
「うん……」
「俺、ソラの話なら何度でも聞くから」
その言葉に、千夏の目が潤んだ。
「何度でも?」
「ああ。初めて会った日の話でも、散歩の話でも、おまえがソラに怒られた話でも」
「ソラに怒られたことなんてないよ」
「おまえが勝手におやつを食べたとき、ソラにすごい顔で見られてただろ」
「あれは……ソラのおやつじゃなくて、わたしのおやつ!」
「でも、ソラにもあげるつもりだったんじゃないのか?」
「……そうだけど」
秋斗が笑った。
千夏も、つられて笑った。
ほんの短い時間だった。
それでも、笑ったあとに胸が痛くなることはなかった。
悲しみが消えたわけではない。
ただ、ソラの思い出の中には、笑えるものもたくさんある。
それを思い出してもいいのだと、千夏は初めて思えた。
「秋斗」
「ん?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「それと……」
千夏は、膝の上に置いていた銀色の鈴を手に取った。
「これ、見てくれる?」
秋斗は鈴を受け取り、しばらく眺めた。
「ずいぶん、ひびが入ってるな」
「うん」
「ずっと持ってたのか?」
「……うん。ソラと一緒に」
千夏は、あの七日間のことを話そうか迷った。
時間が戻ったこと。
もう一度、ソラと過ごせたこと。
そして、最後に「さよなら」と伝えたこと。
簡単には信じてもらえないかもしれない。
自分でも、うまく説明できる気がしなかった。
けれど、秋斗なら。
千夏は、ゆっくりと口を開いた。
「変な話だと思うかもしれないけど、聞いてくれる?」
秋斗は鈴を千夏に返した。
「変な話でも、聞くよ」
千夏は、七日間のことを話し始めた。
ソラがいなくなった日の後悔。
鈴を握りしめた夜。
目を覚ましたら、ソラがまだ生きていたこと。
何度も未来を変えようとして、結局、変えられなかったこと。
そして、最後にソラへ伝えた言葉。
秋斗は、途中で口を挟まず、最後まで聞いてくれた。
話し終えたとき、千夏は少しだけ不安になった。
「……信じられないよね」
秋斗はすぐには答えなかった。
手元の写真に目を落とし、それから千夏を見た。
「全部を説明できるわけじゃないけど」
秋斗は、穏やかな声で言った。
「千夏が、ソラに伝えたかったことを伝えられたんだってことは、わかった」
「……うん」
「それなら、俺は信じるよ」
千夏は目を見開いた。
「いいの? そんな簡単に」
「簡単じゃないよ。おまえがどれだけソラを大切にしてたか、知ってるから」
秋斗は、少しだけ笑った。
「それに、鈴のことは俺も知ってるだろ。おまえが昔から大切にしてたものだって」
千夏は鈴を握りしめた。
「……ソラが、最後にありがとうって言ってくれた気がしたんだ」
「そっか」
「夢だったのかもしれない。でも、わたしには、ちゃんと聞こえた」
秋斗は頷いた。
「じゃあ、それでいいんじゃないか」
千夏の目から、涙がこぼれた。
けれど、今度は少し違った。
悲しいのに、胸の奥が温かかった。
自分の気持ちを、誰かに受け止めてもらえる。
そのことが、こんなにも心強いなんて。
「秋斗……わたし、まだまだ泣くと思う」
「いいよ」
「何度もソラの話をすると思う」
「聞くよ」
「急に寂しくなって、何もできなくなる日もあるかもしれない」
「そのときは、そばにいる」
秋斗は、まっすぐに千夏を見た。
「だから、ひとりで全部抱え込まなくていい」
千夏は、何度も頷いた。
「……うん」
窓の外で、風が吹いた。
机の上に置かれた鈴が、小さく揺れた。
音は鳴らなかった。
けれど千夏には、あの七日間の最後に聞いた音が、胸の奥によみがえった。
ちりん。
ソラの声が聞こえた気がした。
――千夏。
千夏は、写真の中のソラを見つめた。
「大丈夫だよ」
そっと呟く。
「まだ寂しいけど、ちゃんと生きていくからね」
ソラは写真の中で、いつものように笑っていた。
*
夕方、千夏はリビングに下りた。
いつもソラが眠っていた窓辺には、きれいに畳まれた毛布が置かれていた。
その隣には、ソラの写真が飾られている。
千夏は写真の前に座った。
胸が痛まないわけではない。
今だって、名前を呼べば駆け寄ってきてくれるような気がする。
玄関が開くたび、帰ってきたのではないかと期待してしまう。
いつもの場所にいないことが、まだ信じられない。
それでも、千夏は写真に向かって微笑んだ。
「ただいま、ソラ」
返事はなかった。
静かなリビングに、千夏の声だけが響いた。
それでも、千夏は続けた。
「今日ね、秋斗が写真を持ってきてくれたよ。ソラ、秋斗のこと好きだったもんね」
少しだけ笑う。
「わたし、あのときのこと、ちゃんと覚えてるよ。ソラが秋斗にくっついて、離れなかったこと」
涙が、頬を伝った。
「……会いたいな」
千夏は、写真をそっと抱きしめた。
「でも、ありがとう」
あの七日間があったから、言える。
ソラに出会えてよかった。
一緒に過ごせてよかった。
そして、最後にありがとうを伝えられてよかった。
ソラがいなくなった世界は、確かに寂しい。
けれど、ソラがいたからこそ、今の自分がいる。
その事実は、これからも変わらない。
千夏は写真を元の場所に戻し、ゆっくりと立ち上がった。
夕食の準備をする母のもとへ向かう。
「お母さん、何か手伝おうか?」
母は驚いたように振り返った。
「いいの?」
「うん。一緒に作りたい」
千夏は、母の隣に立った。
いつもの台所。
いつもの夕食。
ソラのいない、初めての一日。
それでも、明日はやってくる。
千夏は、そのことを少しだけ怖いと思った。
同時に、明日が来ることを、ほんの少しだけ受け入れられた気がした。
悲しみは、すぐには消えない。
きっと、これからも何度も泣くだろう。
それでも。
ソラがくれた愛情を、今度は自分が誰かに渡していけるように。
ソラが教えてくれた優しさを、忘れないように。
千夏は、母と並んで野菜を洗い始めた。
窓の外では、秋の風が静かに吹いていた。
その風が、鈴をそっと揺らした。
ちりん。
今度こそ、聞こえたのは本当の音だったのかもしれない。
あるいは、千夏の心の中に残る、懐かしい記憶だったのかもしれない。
どちらでもよかった。
千夏は振り返り、写真の中のソラに微笑んだ。
「またね、ソラ」
それは、別れの言葉ではなかった。
これからもずっと、ソラを家族として愛し続けるための言葉だった。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
見慣れた天井。
机の上に積まれた教科書。
壁に貼られた、友達と撮った写真。
何も変わっていない。
けれど、千夏にはわかった。
ここは、あの七日間が始まる前の世界ではない。
ソラを失ったあとに戻ってきた、元の世界なのだ。
「……ソラ?」
声に出した途端、胸の奥が冷たくなった。
返事はない。
いつもなら、千夏が起きた気配を感じると、階段の下から足音が聞こえてきた。
朝ごはんを待ちきれず、廊下を行ったり来たりする音。
千夏が部屋から出てくると、嬉しそうに尻尾を振る音。
けれど、今日は何も聞こえなかった。
千夏は布団から起き上がった。
枕元に、銀色の鈴が置かれていた。
表面には無数のひびが走っている。
もう光ってはいなかった。
千夏は震える指で、そっと鈴を持ち上げた。
「……戻ってきたんだ」
あの七日間は、夢だったのだろうか。
ソラと散歩をしたこと。
家族みんなで写真を撮ったこと。
公園のベンチで、ソラにありがとうを伝えたこと。
あんなにも鮮やかに覚えているのに。
千夏は、鈴を胸に抱きしめた。
「ソラ……」
その瞬間、記憶がよみがえった。
光に包まれた部屋。
最後に聞こえた、優しい声。
――大好きだよ。
「……っ」
千夏は口元を押さえた。
涙があふれて、止まらなかった。
やっぱり、夢ではなかった。
あの時間は、確かにあった。
ソラともう一度過ごした、かけがえのない七日間。
けれど、未来は変わらなかった。
ソラは、もういない。
*
階段を下りると、母が朝食の準備をしていた。
「あら、千夏。おはよう」
いつもと同じ声だった。
母は振り返り、千夏の顔を見ると、すぐに表情を変えた。
「……千夏?」
「お母さん」
千夏は、母のそばまで歩いた。
「今日って……何日?」
母は少し驚いたように壁のカレンダーを見た。
「十月二十八日よ。どうしたの?」
十月二十八日。
ソラがいなくなってから、三日が過ぎていた。
あの七日間の記憶を抱えたまま、千夏は元の時間に戻ってきたのだ。
千夏は、その場に立ち尽くした。
「そっか……」
たった一言しか出てこなかった。
母は何も聞かず、千夏を抱きしめた。
「……寂しいね」
その言葉を聞いた瞬間、千夏は母の胸に顔を埋めた。
「うん……寂しい」
涙が、次から次へとあふれた。
「会いたいよ、お母さん。ソラに会いたい……」
「うん」
「もう一回、撫でたい。名前を呼びたい。帰ってきたら、ただいまって言いたい……」
「うん。そうだね」
母は、ただ千夏の背中を撫でてくれた。
無理に励まさなかった。
もう大丈夫だと言わせようともしなかった。
千夏が泣きたいだけ泣けるように、ずっと抱きしめてくれた。
「わたし……ちゃんと、ありがとうって言えたんだよ」
千夏は、涙の中で呟いた。
「ソラに、いっぱい伝えたの。大好きだって。家族になってくれてありがとうって……」
母の手が、一瞬だけ止まった。
「そう……」
「だから、後悔ばっかりじゃなくていいんだよね?」
母は千夏の髪を撫でた。
「もちろんよ」
「でも、やっぱり寂しいよ……」
「寂しくていいの」
母の声も、少し震えていた。
「大切な家族だったんだもの。寂しくないわけ、ないでしょう?」
千夏は頷いた。
ずっと、悲しんではいけないと思っていた。
泣いている自分は弱いのだと思っていた。
けれど、違った。
悲しいのは、ソラが大切だったから。
会いたいのは、一緒にいた時間が幸せだったから。
その気持ちを、無理に消さなくてもいい。
千夏は母の胸に顔を埋めたまま、何度も泣いた。
その涙は、ソラを失った悲しみだけではなかった。
ソラと過ごせた幸せを、もう一度確かめる涙でもあった。
*
午後、千夏は自分の部屋で、ソラの写真を眺めていた。
初めて家に来た日の写真。
まだ小さくて、千夏の腕にすっぽり収まっている。
公園で走り回っている写真。
誕生日に、犬用のケーキを前に首を傾げている写真。
そして、最後に撮った家族写真。
写真の中のソラは、穏やかな顔をしていた。
「……ソラ」
千夏は写真の縁を指でなぞった。
「わたし、ちゃんと笑えるようになるからね」
言ってから、少しだけ考えた。
ちゃんと笑うというのは、悲しくなくなることではない。
ソラを思い出しても、涙を流さなくなることでもない。
きっと、いつか。
ソラの写真を見て、泣きながら笑える日が来る。
ソラの話をして、家族と一緒に笑える日が来る。
そういう未来を、少しずつ作っていけばいい。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「千夏、入っていい?」
秋斗の声だった。
「……うん」
扉が開き、秋斗が顔をのぞかせた。
手には、小さな紙袋を持っていた。
「これ、持ってきた」
「何?」
「ソラの写真。前に撮ったやつとか、現像しておいたんだ」
秋斗は紙袋から数枚の写真を取り出した。
その中の一枚を見て、千夏は目を見開いた。
公園で、ソラが秋斗の膝に前足を載せている写真だった。
秋斗は少し困った顔をしている。
ソラは、そんな秋斗を見上げながら、嬉しそうに尻尾を振っていた。
「……これ、いつ撮ったの?」
「それがさ。これは俺も撮った覚えがないんだ」
千夏には覚えがある光景だった。
あの不思議な七日間。
思い出のためにと撮ったときの一枚。
秋斗は写真を見つめた。
「俺、犬に好かれるタイプじゃないと思ってたんだけど」
「ソラ、人を見る目があったんだよ」
「それは褒めてるのか?」
「もちろん」
千夏は、久しぶりに少しだけ笑った。
秋斗は、その笑顔を見て、ほっとしたように息を吐いた。
けれど、すぐに真剣な顔に戻った。
「千夏」
「うん?」
「無理して元気にならなくていいからな」
千夏は、目を伏せた。
「……うん」
「学校でも、普通に振る舞おうとしなくていい。話したくないときは話さなくていいし、泣きたいときは泣いていい」
「うん……」
「俺、ソラの話なら何度でも聞くから」
その言葉に、千夏の目が潤んだ。
「何度でも?」
「ああ。初めて会った日の話でも、散歩の話でも、おまえがソラに怒られた話でも」
「ソラに怒られたことなんてないよ」
「おまえが勝手におやつを食べたとき、ソラにすごい顔で見られてただろ」
「あれは……ソラのおやつじゃなくて、わたしのおやつ!」
「でも、ソラにもあげるつもりだったんじゃないのか?」
「……そうだけど」
秋斗が笑った。
千夏も、つられて笑った。
ほんの短い時間だった。
それでも、笑ったあとに胸が痛くなることはなかった。
悲しみが消えたわけではない。
ただ、ソラの思い出の中には、笑えるものもたくさんある。
それを思い出してもいいのだと、千夏は初めて思えた。
「秋斗」
「ん?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「それと……」
千夏は、膝の上に置いていた銀色の鈴を手に取った。
「これ、見てくれる?」
秋斗は鈴を受け取り、しばらく眺めた。
「ずいぶん、ひびが入ってるな」
「うん」
「ずっと持ってたのか?」
「……うん。ソラと一緒に」
千夏は、あの七日間のことを話そうか迷った。
時間が戻ったこと。
もう一度、ソラと過ごせたこと。
そして、最後に「さよなら」と伝えたこと。
簡単には信じてもらえないかもしれない。
自分でも、うまく説明できる気がしなかった。
けれど、秋斗なら。
千夏は、ゆっくりと口を開いた。
「変な話だと思うかもしれないけど、聞いてくれる?」
秋斗は鈴を千夏に返した。
「変な話でも、聞くよ」
千夏は、七日間のことを話し始めた。
ソラがいなくなった日の後悔。
鈴を握りしめた夜。
目を覚ましたら、ソラがまだ生きていたこと。
何度も未来を変えようとして、結局、変えられなかったこと。
そして、最後にソラへ伝えた言葉。
秋斗は、途中で口を挟まず、最後まで聞いてくれた。
話し終えたとき、千夏は少しだけ不安になった。
「……信じられないよね」
秋斗はすぐには答えなかった。
手元の写真に目を落とし、それから千夏を見た。
「全部を説明できるわけじゃないけど」
秋斗は、穏やかな声で言った。
「千夏が、ソラに伝えたかったことを伝えられたんだってことは、わかった」
「……うん」
「それなら、俺は信じるよ」
千夏は目を見開いた。
「いいの? そんな簡単に」
「簡単じゃないよ。おまえがどれだけソラを大切にしてたか、知ってるから」
秋斗は、少しだけ笑った。
「それに、鈴のことは俺も知ってるだろ。おまえが昔から大切にしてたものだって」
千夏は鈴を握りしめた。
「……ソラが、最後にありがとうって言ってくれた気がしたんだ」
「そっか」
「夢だったのかもしれない。でも、わたしには、ちゃんと聞こえた」
秋斗は頷いた。
「じゃあ、それでいいんじゃないか」
千夏の目から、涙がこぼれた。
けれど、今度は少し違った。
悲しいのに、胸の奥が温かかった。
自分の気持ちを、誰かに受け止めてもらえる。
そのことが、こんなにも心強いなんて。
「秋斗……わたし、まだまだ泣くと思う」
「いいよ」
「何度もソラの話をすると思う」
「聞くよ」
「急に寂しくなって、何もできなくなる日もあるかもしれない」
「そのときは、そばにいる」
秋斗は、まっすぐに千夏を見た。
「だから、ひとりで全部抱え込まなくていい」
千夏は、何度も頷いた。
「……うん」
窓の外で、風が吹いた。
机の上に置かれた鈴が、小さく揺れた。
音は鳴らなかった。
けれど千夏には、あの七日間の最後に聞いた音が、胸の奥によみがえった。
ちりん。
ソラの声が聞こえた気がした。
――千夏。
千夏は、写真の中のソラを見つめた。
「大丈夫だよ」
そっと呟く。
「まだ寂しいけど、ちゃんと生きていくからね」
ソラは写真の中で、いつものように笑っていた。
*
夕方、千夏はリビングに下りた。
いつもソラが眠っていた窓辺には、きれいに畳まれた毛布が置かれていた。
その隣には、ソラの写真が飾られている。
千夏は写真の前に座った。
胸が痛まないわけではない。
今だって、名前を呼べば駆け寄ってきてくれるような気がする。
玄関が開くたび、帰ってきたのではないかと期待してしまう。
いつもの場所にいないことが、まだ信じられない。
それでも、千夏は写真に向かって微笑んだ。
「ただいま、ソラ」
返事はなかった。
静かなリビングに、千夏の声だけが響いた。
それでも、千夏は続けた。
「今日ね、秋斗が写真を持ってきてくれたよ。ソラ、秋斗のこと好きだったもんね」
少しだけ笑う。
「わたし、あのときのこと、ちゃんと覚えてるよ。ソラが秋斗にくっついて、離れなかったこと」
涙が、頬を伝った。
「……会いたいな」
千夏は、写真をそっと抱きしめた。
「でも、ありがとう」
あの七日間があったから、言える。
ソラに出会えてよかった。
一緒に過ごせてよかった。
そして、最後にありがとうを伝えられてよかった。
ソラがいなくなった世界は、確かに寂しい。
けれど、ソラがいたからこそ、今の自分がいる。
その事実は、これからも変わらない。
千夏は写真を元の場所に戻し、ゆっくりと立ち上がった。
夕食の準備をする母のもとへ向かう。
「お母さん、何か手伝おうか?」
母は驚いたように振り返った。
「いいの?」
「うん。一緒に作りたい」
千夏は、母の隣に立った。
いつもの台所。
いつもの夕食。
ソラのいない、初めての一日。
それでも、明日はやってくる。
千夏は、そのことを少しだけ怖いと思った。
同時に、明日が来ることを、ほんの少しだけ受け入れられた気がした。
悲しみは、すぐには消えない。
きっと、これからも何度も泣くだろう。
それでも。
ソラがくれた愛情を、今度は自分が誰かに渡していけるように。
ソラが教えてくれた優しさを、忘れないように。
千夏は、母と並んで野菜を洗い始めた。
窓の外では、秋の風が静かに吹いていた。
その風が、鈴をそっと揺らした。
ちりん。
今度こそ、聞こえたのは本当の音だったのかもしれない。
あるいは、千夏の心の中に残る、懐かしい記憶だったのかもしれない。
どちらでもよかった。
千夏は振り返り、写真の中のソラに微笑んだ。
「またね、ソラ」
それは、別れの言葉ではなかった。
これからもずっと、ソラを家族として愛し続けるための言葉だった。


