ソラがいなくなって、三日が過ぎた。
それなのに、千夏はまだ、玄関のドアが開くたびに顔を上げてしまう。
母が買い物から帰ってきた音。
郵便配達員がポストを開ける音。
風に揺れた庭の門が、小さくきしむ音。
そのたびに、もしかしたら、と思ってしまう。
――ソラが帰ってきたのかもしれない。
そんなはずはないと、頭ではわかっている。
それでも、心だけがどうしても追いつかなかった。
「千夏、ご飯できたわよ」
階下から母の声が聞こえた。
「……うん」
返事をして、千夏は机の上に置かれた写真立てを見つめた。
そこには、一匹のゴールデンレトリバーが写っている。
ふわふわの金色の毛並み。少し垂れた耳。嬉しそうに開いた口。
ソラだ。
去年の夏、近くの公園で撮った写真だった。
千夏がカメラを向けると、ソラはじっとしていられず、何度も尻尾を振って画面からはみ出してしまった。
ようやく撮れた一枚。
千夏のお気に入りだった。
「……ソラ」
写真に指先で触れる。
「お腹、空いてない?」
返事はない。
「お散歩、行きたいよね」
もちろん、返事はない。
それでも千夏は、いつものように話しかけてしまう。
話しかける相手がいなくなったことを、まだ認めたくなかった。
*
ソラが家に来たのは、千夏が小学一年生の春だった。
父が仕事の都合で家を離れて暮らすようになり、母と二人で過ごす時間が増えたころ。
寂しがり屋だった千夏のために、母が連れてきてくれたのがソラだった。
小さな体で、初めて千夏の膝に乗ってきた日。
千夏は嬉しくて、何度もソラの名前を呼んだ。
「ソラ! ソラ、こっちだよ!」
ソラは名前を覚えるより先に、千夏の顔を舐めた。
くすぐったくて、千夏は笑った。
それからずっと。
ソラは千夏の隣にいた。
友達と喧嘩して泣いた日も。
受験に失敗して、自分なんて何をやっても駄目だと思った日も。
初めて好きな人に告白して、あっさり振られた日も。
ソラは何も聞かず、ただ隣にいてくれた。
千夏が泣くと、ソラは決まって前足を膝に乗せた。
まるで、こう言っているみたいに。
――大丈夫。僕がいるよ。
だから千夏は、どんなに辛いことがあっても、最後には少しだけ笑うことができた。
ソラがいたから。
ソラが、いつもそばにいてくれたから。
「千夏?」
母が部屋の入口から顔をのぞかせた。
「いつまでそこにいるの。学校、遅刻するわよ」
「……うん。今行く」
千夏は写真立てをそっと置いた。
制服に着替え、鞄を肩にかける。
部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。
いつもなら、ソラがベッドの横までついてきていた。
千夏が出かける準備をしていると、寂しそうな顔で見上げてくる。
「すぐ帰ってくるからね」
そう言うと、ソラは尻尾を振った。
その姿が、今も目に浮かぶ。
千夏は唇を噛んだ。
「……行ってきます」
誰もいない部屋に向かって、そう告げた。
*
教室に入ると、友達の美咲が駆け寄ってきた。
「千夏、おはよう。今日、英語の小テストだよ。勉強した?」
「……あ、うん」
「え、どうしたの? また寝不足?」
「ちょっとね」
千夏は笑顔を作った。
いつもどおりに。
心配をかけないように。
自分は大丈夫だと、周りに思ってもらえるように。
けれど、美咲は笑わなかった。
「ねえ、無理してない?」
「してないよ」
「ソラのこと、まだ辛いよね」
その名前を聞いた瞬間、千夏の胸がぎゅっと締めつけられた。
喉の奥が熱くなる。
泣きそうになる。
けれど、千夏は首を横に振った。
「大丈夫。もう、平気だから」
「……そっか」
美咲はそれ以上、何も言わなかった。
その優しさが、かえって苦しかった。
平気なわけがない。
昨日も、一昨日も、ソラの夢を見た。
夢の中では、ソラは元気だった。
いつものように玄関まで走ってきて、尻尾を振って、千夏の顔を舐めた。
千夏は笑って、ソラを抱きしめた。
ずっと、このままでいたいと思った。
けれど、目が覚めると、そこには誰もいなかった。
夢だったのだと気づくたびに、ソラをもう一度失うような気持ちになった。
授業中も、千夏は何度も窓の外を見た。
青い空。
校庭を走る生徒たち。
いつもと変わらない景色。
世界は、何も変わっていない。
ソラがいなくなったのに。
どうして、みんな普通に笑っていられるんだろう。
どうして、時間は止まってくれないんだろう。
そんなことを考えていると、机の下でスマートフォンが震えた。
メッセージを送ってきたのは、幼なじみの朝倉秋斗だった。
『今日、帰りに少し話せる?』
秋斗は、千夏と同じ学校に通う二年生だ。
家が近所で、ソラが小さかったころから一緒に遊んできた。
ソラにとっても、秋斗は大好きな相手だった。
秋斗が家に来ると、ソラは千夏のとき以上に大きく尻尾を振った。
少しだけ悔しかったことを、千夏は覚えている。
『うん。大丈夫』
そう返信して、スマートフォンをしまった。
秋斗は、きっと心配してくれている。
それはわかっていた。
でも、今は誰とも話したくなかった。
ソラのことを話せば、泣いてしまいそうだから。
ソラのことを忘れようとすれば、ソラが本当にいなくなってしまうような気がするから。
千夏は、何も考えないようにして、黒板を見つめた。
*
放課後。
校門を出ると、秋斗が待っていた。
背が高く、少し癖のある黒髪。制服のネクタイを緩め、鞄を片手に持っている。
「千夏」
「……秋斗。どうしたの?」
「一緒に帰ろうと思って」
「そっか」
二人は並んで歩き始めた。
いつもなら、くだらない話をしながら帰る道だった。
テストの点数がどうだったとか。
クラスの誰と誰が付き合い始めたとか。
週末に何をするかとか。
けれど、今日は会話が続かなかった。
秋斗も、無理に話しかけようとはしなかった。
しばらく歩いたところで、彼がぽつりと言った。
「ソラ、散歩が好きだったよな」
千夏の足が止まった。
「……うん」
「俺が小さいころ、転んで泣いてたときも、ソラがずっとそばにいてくれたんだ」
「そうだったね」
「俺、あいつに何回も助けられた気がする」
秋斗は、少しだけ笑った。
懐かしいものを思い出すような、優しい笑顔だった。
「だからさ。俺も、千夏が辛いときは力になりたいんだ」
千夏は顔を上げた。
秋斗の瞳は、まっすぐこちらを見ていた。
「無理に元気にならなくていいから。ソラのこと、忘れなくていいから」
「……っ」
「俺も、忘れたくないんだ。あいつのこと」
その言葉を聞いた瞬間、千夏の目に涙が浮かんだ。
けれど、千夏は慌てて顔を背けた。
「ごめん。私、まだ……」
「謝るなよ」
秋斗は静かに言った。
「泣きたいなら、泣いていいんだよ」
その優しさが、千夏には苦しかった。
泣きたかった。
本当は、ずっと泣きたかった。
ソラに会いたい。
もう一度、抱きしめたい。
あの温かい体に顔を埋めて、何も心配しなくていいんだと、安心したかった。
でも、泣いてしまったら、本当にソラがいなくなったことを認めてしまうような気がした。
「……ごめんね」
千夏は、それだけ言って走り出した。
「千夏!」
秋斗の声が背中に届く。
それでも、振り返ることはできなかった。
*
家に帰ると、玄関の隅にソラのリードが置かれていた。
散歩に出るとき、いつも使っていたもの。
茶色い革のリードで、持ち手のところに小さな傷がある。
千夏が中学生のころ、ソラが急に走り出したせいで、手から滑り落ちてしまったのだ。
あのとき、千夏は転びそうになりながら、ソラを追いかけた。
ソラは途中で立ち止まり、心配そうに振り返った。
まるで、自分が悪いことをしたとわかっているようだった。
千夏は笑いながら、ソラの頭を撫でた。
『もう、びっくりしたよ。次はゆっくり歩こうね』
ソラは、嬉しそうに尻尾を振った。
千夏はリードを手に取った。
革の感触が、指先に残る。
「……散歩、行こうか」
思わず、口にしていた。
返事はない。
玄関にいるのは、千夏一人だけだった。
手の中のリードが、ひどく軽く感じられた。
「……ソラ」
千夏は、その場にしゃがみ込んだ。
「ソラ、会いたいよ……」
涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
「帰ってきてよ……。お願いだから……」
誰も答えてくれない。
どれだけ名前を呼んでも、ソラは帰ってこない。
千夏はリードを抱きしめ、声を殺して泣いた。
*
その夜、雨が降り始めた。
窓ガラスを叩く雨音が、静かな部屋に響いている。
千夏は机の前に座り、ソラの写真を見つめていた。
写真の中のソラは、笑っているように見えた。
「ねえ、ソラ」
千夏は、そっと話しかける。
「私、最後の日のこと、何度も思い出すんだ」
ソラが亡くなった日。
母は、朝から忙しそうにしていた。
ソラの具合が少し悪いことは知っていたけれど、前日には食事も取れていたし、獣医師からも様子を見ようと言われていた。
だから千夏は、学校へ行った。
すぐに帰るつもりだった。
ソラの好きなおやつを買って。
いっぱい撫でて。
今日は頑張ったね、と話しかけるつもりだった。
けれど。
スマートフォンを見ると、母から何件もの着信が入っていた。
慌てて電話をかけた千夏に、母は泣きながら告げた。
『千夏……ソラが……』
その先の言葉を、千夏はよく覚えていない。
ただ、家に帰ったときには、もう遅かった。
ソラは、いつものベッドで静かに眠っていた。
もう、二度と目を覚まさなかった。
「どうして、あの日……」
千夏は写真を抱きしめた。
「どうして、そばにいてあげられなかったんだろう……」
もし、あの日、学校を休んでいたら。
もし、もっと早く病院へ連れていっていたら。
もし、最後に一度だけでも、ソラの頭を撫でてあげられていたら。
違う未来があったのだろうか。
答えは、どこにもなかった。
時計の針が、午後十一時を指す。
雨は、ますます強くなっていた。
千夏は机の引き出しを開けた。
そこには、ソラの首輪が入っていた。
青い首輪。
散歩のときにつけていたもので、小さな銀色の鈴がついている。
ソラが走るたび、ちりん、ちりん、と音が鳴った。
千夏は首輪を両手で包み込んだ。
「お願い……」
声が震える。
「もう一度だけでいいから……」
涙が、鈴の上に落ちた。
「ソラに会いたい」
その瞬間だった。
ちりん。
小さな音がした。
千夏は顔を上げた。
窓は閉まっている。
風も吹いていない。
それなのに、手の中の鈴が、確かに鳴った。
「……え?」
銀色の鈴が、淡く光っていた。
最初は、ほんの小さな光だった。
けれど、次第に強くなり、千夏の手元から部屋全体へと広がっていく。
「なに、これ……?」
眩しさに目を閉じる。
耳元で、懐かしい音が聞こえた。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
それは、ソラが散歩のときに鳴らしていた鈴の音だった。
そして。
遠くから、誰かが千夏の名前を呼んだ気がした。
『千夏』
懐かしい声。
いや、声ではない。
言葉ではないのに、確かに伝わってくる。
――大丈夫だよ。
その瞬間、千夏の意識は白い光に包まれた。
*
「……夏」
誰かが呼んでいる。
「千夏、朝だよ」
聞き慣れた声に、千夏はゆっくりと目を開けた。
見慣れた天井。
カーテンの隙間から差し込む朝日。
机の上には、昨日と同じ写真立てが置かれている。
夢だったのだろうか。
千夏はぼんやりと考えた。
昨夜、鈴が光ったことも。
ソラに会いたいと願ったことも。
すべて、悲しみが見せた夢だったのかもしれない。
「……そうだよね」
千夏は小さく呟いた。
そのとき。
ベッドの横で、何かが動いた。
ふわりと揺れる、金色の毛並み。
千夏の頬に、温かな鼻先が触れた。
そして。
「ワンッ!」
元気な鳴き声が、部屋いっぱいに響いた。
千夏は息を止めた。
ゆっくりと顔を向ける。
そこには、ソラがいた。
いつものように尻尾を振り、嬉しそうに千夏を見つめている。
「……ソラ?」
声が震えた。
ソラは、もう一度鳴いた。
「ソラ……?」
千夏は震える手を伸ばした。
ふわふわの毛に触れる。
温かい。
生きている。
夢ではない。
ソラは千夏の手を舐め、嬉しそうに尻尾を振り続けていた。
「うそ……」
千夏の目から、涙があふれた。
「うそでしょ……? だって、ソラは……」
言葉が続かない。
千夏はソラを抱きしめた。
温かな体を、もう二度と離さないとでもいうように、ぎゅっと抱きしめる。
「会いたかった……! ソラ……!」
ソラは、千夏の腕の中で静かにしていた。
まるで、ずっとこうしていたかったかのように。
千夏は泣きながら、ソラの頭を何度も撫でた。
「よかった……。夢じゃない……。ソラがいる……!」
そのとき、部屋の外から母の声が聞こえた。
「千夏ー! いつまで寝てるの? 今日は十月十八日よ。学校、遅刻するわよ!」
千夏は、ぴたりと動きを止めた。
十月十八日。
その日付には、覚えがあった。
ソラが亡くなったのは、十月二十五日。
つまり。
今日は、七日前。
千夏はベッドから飛び起き、机の上のカレンダーを確かめた。
十月十八日。
何度見ても、同じだった。
スマートフォンを手に取り、日付を確認する。
やはり、十月十八日。
千夏はソラを見つめた。
ソラは、不思議そうに首を傾げている。
「……私、戻ってきたの?」
七日前に。
ソラが、まだ生きていた時間に。
千夏の目から、再び涙がこぼれ落ちた。
けれど、今度の涙は悲しみだけではなかった。
「ソラ……」
千夏はソラを抱きしめ、耳元で囁いた。
「今度こそ、絶対に助けるからね」
窓の外では、秋の風が木々を揺らしていた。
それなのに、千夏はまだ、玄関のドアが開くたびに顔を上げてしまう。
母が買い物から帰ってきた音。
郵便配達員がポストを開ける音。
風に揺れた庭の門が、小さくきしむ音。
そのたびに、もしかしたら、と思ってしまう。
――ソラが帰ってきたのかもしれない。
そんなはずはないと、頭ではわかっている。
それでも、心だけがどうしても追いつかなかった。
「千夏、ご飯できたわよ」
階下から母の声が聞こえた。
「……うん」
返事をして、千夏は机の上に置かれた写真立てを見つめた。
そこには、一匹のゴールデンレトリバーが写っている。
ふわふわの金色の毛並み。少し垂れた耳。嬉しそうに開いた口。
ソラだ。
去年の夏、近くの公園で撮った写真だった。
千夏がカメラを向けると、ソラはじっとしていられず、何度も尻尾を振って画面からはみ出してしまった。
ようやく撮れた一枚。
千夏のお気に入りだった。
「……ソラ」
写真に指先で触れる。
「お腹、空いてない?」
返事はない。
「お散歩、行きたいよね」
もちろん、返事はない。
それでも千夏は、いつものように話しかけてしまう。
話しかける相手がいなくなったことを、まだ認めたくなかった。
*
ソラが家に来たのは、千夏が小学一年生の春だった。
父が仕事の都合で家を離れて暮らすようになり、母と二人で過ごす時間が増えたころ。
寂しがり屋だった千夏のために、母が連れてきてくれたのがソラだった。
小さな体で、初めて千夏の膝に乗ってきた日。
千夏は嬉しくて、何度もソラの名前を呼んだ。
「ソラ! ソラ、こっちだよ!」
ソラは名前を覚えるより先に、千夏の顔を舐めた。
くすぐったくて、千夏は笑った。
それからずっと。
ソラは千夏の隣にいた。
友達と喧嘩して泣いた日も。
受験に失敗して、自分なんて何をやっても駄目だと思った日も。
初めて好きな人に告白して、あっさり振られた日も。
ソラは何も聞かず、ただ隣にいてくれた。
千夏が泣くと、ソラは決まって前足を膝に乗せた。
まるで、こう言っているみたいに。
――大丈夫。僕がいるよ。
だから千夏は、どんなに辛いことがあっても、最後には少しだけ笑うことができた。
ソラがいたから。
ソラが、いつもそばにいてくれたから。
「千夏?」
母が部屋の入口から顔をのぞかせた。
「いつまでそこにいるの。学校、遅刻するわよ」
「……うん。今行く」
千夏は写真立てをそっと置いた。
制服に着替え、鞄を肩にかける。
部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。
いつもなら、ソラがベッドの横までついてきていた。
千夏が出かける準備をしていると、寂しそうな顔で見上げてくる。
「すぐ帰ってくるからね」
そう言うと、ソラは尻尾を振った。
その姿が、今も目に浮かぶ。
千夏は唇を噛んだ。
「……行ってきます」
誰もいない部屋に向かって、そう告げた。
*
教室に入ると、友達の美咲が駆け寄ってきた。
「千夏、おはよう。今日、英語の小テストだよ。勉強した?」
「……あ、うん」
「え、どうしたの? また寝不足?」
「ちょっとね」
千夏は笑顔を作った。
いつもどおりに。
心配をかけないように。
自分は大丈夫だと、周りに思ってもらえるように。
けれど、美咲は笑わなかった。
「ねえ、無理してない?」
「してないよ」
「ソラのこと、まだ辛いよね」
その名前を聞いた瞬間、千夏の胸がぎゅっと締めつけられた。
喉の奥が熱くなる。
泣きそうになる。
けれど、千夏は首を横に振った。
「大丈夫。もう、平気だから」
「……そっか」
美咲はそれ以上、何も言わなかった。
その優しさが、かえって苦しかった。
平気なわけがない。
昨日も、一昨日も、ソラの夢を見た。
夢の中では、ソラは元気だった。
いつものように玄関まで走ってきて、尻尾を振って、千夏の顔を舐めた。
千夏は笑って、ソラを抱きしめた。
ずっと、このままでいたいと思った。
けれど、目が覚めると、そこには誰もいなかった。
夢だったのだと気づくたびに、ソラをもう一度失うような気持ちになった。
授業中も、千夏は何度も窓の外を見た。
青い空。
校庭を走る生徒たち。
いつもと変わらない景色。
世界は、何も変わっていない。
ソラがいなくなったのに。
どうして、みんな普通に笑っていられるんだろう。
どうして、時間は止まってくれないんだろう。
そんなことを考えていると、机の下でスマートフォンが震えた。
メッセージを送ってきたのは、幼なじみの朝倉秋斗だった。
『今日、帰りに少し話せる?』
秋斗は、千夏と同じ学校に通う二年生だ。
家が近所で、ソラが小さかったころから一緒に遊んできた。
ソラにとっても、秋斗は大好きな相手だった。
秋斗が家に来ると、ソラは千夏のとき以上に大きく尻尾を振った。
少しだけ悔しかったことを、千夏は覚えている。
『うん。大丈夫』
そう返信して、スマートフォンをしまった。
秋斗は、きっと心配してくれている。
それはわかっていた。
でも、今は誰とも話したくなかった。
ソラのことを話せば、泣いてしまいそうだから。
ソラのことを忘れようとすれば、ソラが本当にいなくなってしまうような気がするから。
千夏は、何も考えないようにして、黒板を見つめた。
*
放課後。
校門を出ると、秋斗が待っていた。
背が高く、少し癖のある黒髪。制服のネクタイを緩め、鞄を片手に持っている。
「千夏」
「……秋斗。どうしたの?」
「一緒に帰ろうと思って」
「そっか」
二人は並んで歩き始めた。
いつもなら、くだらない話をしながら帰る道だった。
テストの点数がどうだったとか。
クラスの誰と誰が付き合い始めたとか。
週末に何をするかとか。
けれど、今日は会話が続かなかった。
秋斗も、無理に話しかけようとはしなかった。
しばらく歩いたところで、彼がぽつりと言った。
「ソラ、散歩が好きだったよな」
千夏の足が止まった。
「……うん」
「俺が小さいころ、転んで泣いてたときも、ソラがずっとそばにいてくれたんだ」
「そうだったね」
「俺、あいつに何回も助けられた気がする」
秋斗は、少しだけ笑った。
懐かしいものを思い出すような、優しい笑顔だった。
「だからさ。俺も、千夏が辛いときは力になりたいんだ」
千夏は顔を上げた。
秋斗の瞳は、まっすぐこちらを見ていた。
「無理に元気にならなくていいから。ソラのこと、忘れなくていいから」
「……っ」
「俺も、忘れたくないんだ。あいつのこと」
その言葉を聞いた瞬間、千夏の目に涙が浮かんだ。
けれど、千夏は慌てて顔を背けた。
「ごめん。私、まだ……」
「謝るなよ」
秋斗は静かに言った。
「泣きたいなら、泣いていいんだよ」
その優しさが、千夏には苦しかった。
泣きたかった。
本当は、ずっと泣きたかった。
ソラに会いたい。
もう一度、抱きしめたい。
あの温かい体に顔を埋めて、何も心配しなくていいんだと、安心したかった。
でも、泣いてしまったら、本当にソラがいなくなったことを認めてしまうような気がした。
「……ごめんね」
千夏は、それだけ言って走り出した。
「千夏!」
秋斗の声が背中に届く。
それでも、振り返ることはできなかった。
*
家に帰ると、玄関の隅にソラのリードが置かれていた。
散歩に出るとき、いつも使っていたもの。
茶色い革のリードで、持ち手のところに小さな傷がある。
千夏が中学生のころ、ソラが急に走り出したせいで、手から滑り落ちてしまったのだ。
あのとき、千夏は転びそうになりながら、ソラを追いかけた。
ソラは途中で立ち止まり、心配そうに振り返った。
まるで、自分が悪いことをしたとわかっているようだった。
千夏は笑いながら、ソラの頭を撫でた。
『もう、びっくりしたよ。次はゆっくり歩こうね』
ソラは、嬉しそうに尻尾を振った。
千夏はリードを手に取った。
革の感触が、指先に残る。
「……散歩、行こうか」
思わず、口にしていた。
返事はない。
玄関にいるのは、千夏一人だけだった。
手の中のリードが、ひどく軽く感じられた。
「……ソラ」
千夏は、その場にしゃがみ込んだ。
「ソラ、会いたいよ……」
涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
「帰ってきてよ……。お願いだから……」
誰も答えてくれない。
どれだけ名前を呼んでも、ソラは帰ってこない。
千夏はリードを抱きしめ、声を殺して泣いた。
*
その夜、雨が降り始めた。
窓ガラスを叩く雨音が、静かな部屋に響いている。
千夏は机の前に座り、ソラの写真を見つめていた。
写真の中のソラは、笑っているように見えた。
「ねえ、ソラ」
千夏は、そっと話しかける。
「私、最後の日のこと、何度も思い出すんだ」
ソラが亡くなった日。
母は、朝から忙しそうにしていた。
ソラの具合が少し悪いことは知っていたけれど、前日には食事も取れていたし、獣医師からも様子を見ようと言われていた。
だから千夏は、学校へ行った。
すぐに帰るつもりだった。
ソラの好きなおやつを買って。
いっぱい撫でて。
今日は頑張ったね、と話しかけるつもりだった。
けれど。
スマートフォンを見ると、母から何件もの着信が入っていた。
慌てて電話をかけた千夏に、母は泣きながら告げた。
『千夏……ソラが……』
その先の言葉を、千夏はよく覚えていない。
ただ、家に帰ったときには、もう遅かった。
ソラは、いつものベッドで静かに眠っていた。
もう、二度と目を覚まさなかった。
「どうして、あの日……」
千夏は写真を抱きしめた。
「どうして、そばにいてあげられなかったんだろう……」
もし、あの日、学校を休んでいたら。
もし、もっと早く病院へ連れていっていたら。
もし、最後に一度だけでも、ソラの頭を撫でてあげられていたら。
違う未来があったのだろうか。
答えは、どこにもなかった。
時計の針が、午後十一時を指す。
雨は、ますます強くなっていた。
千夏は机の引き出しを開けた。
そこには、ソラの首輪が入っていた。
青い首輪。
散歩のときにつけていたもので、小さな銀色の鈴がついている。
ソラが走るたび、ちりん、ちりん、と音が鳴った。
千夏は首輪を両手で包み込んだ。
「お願い……」
声が震える。
「もう一度だけでいいから……」
涙が、鈴の上に落ちた。
「ソラに会いたい」
その瞬間だった。
ちりん。
小さな音がした。
千夏は顔を上げた。
窓は閉まっている。
風も吹いていない。
それなのに、手の中の鈴が、確かに鳴った。
「……え?」
銀色の鈴が、淡く光っていた。
最初は、ほんの小さな光だった。
けれど、次第に強くなり、千夏の手元から部屋全体へと広がっていく。
「なに、これ……?」
眩しさに目を閉じる。
耳元で、懐かしい音が聞こえた。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
それは、ソラが散歩のときに鳴らしていた鈴の音だった。
そして。
遠くから、誰かが千夏の名前を呼んだ気がした。
『千夏』
懐かしい声。
いや、声ではない。
言葉ではないのに、確かに伝わってくる。
――大丈夫だよ。
その瞬間、千夏の意識は白い光に包まれた。
*
「……夏」
誰かが呼んでいる。
「千夏、朝だよ」
聞き慣れた声に、千夏はゆっくりと目を開けた。
見慣れた天井。
カーテンの隙間から差し込む朝日。
机の上には、昨日と同じ写真立てが置かれている。
夢だったのだろうか。
千夏はぼんやりと考えた。
昨夜、鈴が光ったことも。
ソラに会いたいと願ったことも。
すべて、悲しみが見せた夢だったのかもしれない。
「……そうだよね」
千夏は小さく呟いた。
そのとき。
ベッドの横で、何かが動いた。
ふわりと揺れる、金色の毛並み。
千夏の頬に、温かな鼻先が触れた。
そして。
「ワンッ!」
元気な鳴き声が、部屋いっぱいに響いた。
千夏は息を止めた。
ゆっくりと顔を向ける。
そこには、ソラがいた。
いつものように尻尾を振り、嬉しそうに千夏を見つめている。
「……ソラ?」
声が震えた。
ソラは、もう一度鳴いた。
「ソラ……?」
千夏は震える手を伸ばした。
ふわふわの毛に触れる。
温かい。
生きている。
夢ではない。
ソラは千夏の手を舐め、嬉しそうに尻尾を振り続けていた。
「うそ……」
千夏の目から、涙があふれた。
「うそでしょ……? だって、ソラは……」
言葉が続かない。
千夏はソラを抱きしめた。
温かな体を、もう二度と離さないとでもいうように、ぎゅっと抱きしめる。
「会いたかった……! ソラ……!」
ソラは、千夏の腕の中で静かにしていた。
まるで、ずっとこうしていたかったかのように。
千夏は泣きながら、ソラの頭を何度も撫でた。
「よかった……。夢じゃない……。ソラがいる……!」
そのとき、部屋の外から母の声が聞こえた。
「千夏ー! いつまで寝てるの? 今日は十月十八日よ。学校、遅刻するわよ!」
千夏は、ぴたりと動きを止めた。
十月十八日。
その日付には、覚えがあった。
ソラが亡くなったのは、十月二十五日。
つまり。
今日は、七日前。
千夏はベッドから飛び起き、机の上のカレンダーを確かめた。
十月十八日。
何度見ても、同じだった。
スマートフォンを手に取り、日付を確認する。
やはり、十月十八日。
千夏はソラを見つめた。
ソラは、不思議そうに首を傾げている。
「……私、戻ってきたの?」
七日前に。
ソラが、まだ生きていた時間に。
千夏の目から、再び涙がこぼれ落ちた。
けれど、今度の涙は悲しみだけではなかった。
「ソラ……」
千夏はソラを抱きしめ、耳元で囁いた。
「今度こそ、絶対に助けるからね」
窓の外では、秋の風が木々を揺らしていた。


