さよならを言うために、君がくれた七日間

 ソラがいなくなって、三日が過ぎた。

 それなのに、千夏はまだ、玄関のドアが開くたびに顔を上げてしまう。

 母が買い物から帰ってきた音。

 郵便配達員がポストを開ける音。

 風に揺れた庭の門が、小さくきしむ音。

 そのたびに、もしかしたら、と思ってしまう。

 ――ソラが帰ってきたのかもしれない。

 そんなはずはないと、頭ではわかっている。

 それでも、心だけがどうしても追いつかなかった。

「千夏、ご飯できたわよ」

 階下から母の声が聞こえた。

「……うん」

 返事をして、千夏は机の上に置かれた写真立てを見つめた。

 そこには、一匹のゴールデンレトリバーが写っている。

 ふわふわの金色の毛並み。少し垂れた耳。嬉しそうに開いた口。

 ソラだ。

 去年の夏、近くの公園で撮った写真だった。

 千夏がカメラを向けると、ソラはじっとしていられず、何度も尻尾を振って画面からはみ出してしまった。

 ようやく撮れた一枚。

 千夏のお気に入りだった。

「……ソラ」

 写真に指先で触れる。

「お腹、空いてない?」

 返事はない。

「お散歩、行きたいよね」

 もちろん、返事はない。

 それでも千夏は、いつものように話しかけてしまう。

 話しかける相手がいなくなったことを、まだ認めたくなかった。

     *

 ソラが家に来たのは、千夏が小学一年生の春だった。

 父が仕事の都合で家を離れて暮らすようになり、母と二人で過ごす時間が増えたころ。

 寂しがり屋だった千夏のために、母が連れてきてくれたのがソラだった。

 小さな体で、初めて千夏の膝に乗ってきた日。

 千夏は嬉しくて、何度もソラの名前を呼んだ。

「ソラ! ソラ、こっちだよ!」

 ソラは名前を覚えるより先に、千夏の顔を舐めた。

 くすぐったくて、千夏は笑った。

 それからずっと。

 ソラは千夏の隣にいた。

 友達と喧嘩して泣いた日も。

 受験に失敗して、自分なんて何をやっても駄目だと思った日も。

 初めて好きな人に告白して、あっさり振られた日も。

 ソラは何も聞かず、ただ隣にいてくれた。

 千夏が泣くと、ソラは決まって前足を膝に乗せた。

 まるで、こう言っているみたいに。

 ――大丈夫。僕がいるよ。

 だから千夏は、どんなに辛いことがあっても、最後には少しだけ笑うことができた。

 ソラがいたから。

 ソラが、いつもそばにいてくれたから。

「千夏?」

 母が部屋の入口から顔をのぞかせた。

「いつまでそこにいるの。学校、遅刻するわよ」

「……うん。今行く」

 千夏は写真立てをそっと置いた。

 制服に着替え、鞄を肩にかける。

 部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。

 いつもなら、ソラがベッドの横までついてきていた。

 千夏が出かける準備をしていると、寂しそうな顔で見上げてくる。

「すぐ帰ってくるからね」

 そう言うと、ソラは尻尾を振った。

 その姿が、今も目に浮かぶ。

 千夏は唇を噛んだ。

「……行ってきます」

 誰もいない部屋に向かって、そう告げた。

     *

 教室に入ると、友達の美咲が駆け寄ってきた。

「千夏、おはよう。今日、英語の小テストだよ。勉強した?」

「……あ、うん」

「え、どうしたの? また寝不足?」

「ちょっとね」

 千夏は笑顔を作った。

 いつもどおりに。

 心配をかけないように。

 自分は大丈夫だと、周りに思ってもらえるように。

 けれど、美咲は笑わなかった。

「ねえ、無理してない?」

「してないよ」

「ソラのこと、まだ辛いよね」

 その名前を聞いた瞬間、千夏の胸がぎゅっと締めつけられた。

 喉の奥が熱くなる。

 泣きそうになる。

 けれど、千夏は首を横に振った。

「大丈夫。もう、平気だから」

「……そっか」

 美咲はそれ以上、何も言わなかった。

 その優しさが、かえって苦しかった。

 平気なわけがない。

 昨日も、一昨日も、ソラの夢を見た。

 夢の中では、ソラは元気だった。

 いつものように玄関まで走ってきて、尻尾を振って、千夏の顔を舐めた。

 千夏は笑って、ソラを抱きしめた。

 ずっと、このままでいたいと思った。

 けれど、目が覚めると、そこには誰もいなかった。

 夢だったのだと気づくたびに、ソラをもう一度失うような気持ちになった。

 授業中も、千夏は何度も窓の外を見た。

 青い空。

 校庭を走る生徒たち。

 いつもと変わらない景色。

 世界は、何も変わっていない。

 ソラがいなくなったのに。

 どうして、みんな普通に笑っていられるんだろう。

 どうして、時間は止まってくれないんだろう。

 そんなことを考えていると、机の下でスマートフォンが震えた。

 メッセージを送ってきたのは、幼なじみの朝倉秋斗だった。

『今日、帰りに少し話せる?』

 秋斗は、千夏と同じ学校に通う二年生だ。

 家が近所で、ソラが小さかったころから一緒に遊んできた。

 ソラにとっても、秋斗は大好きな相手だった。

 秋斗が家に来ると、ソラは千夏のとき以上に大きく尻尾を振った。

 少しだけ悔しかったことを、千夏は覚えている。

『うん。大丈夫』

 そう返信して、スマートフォンをしまった。

 秋斗は、きっと心配してくれている。

 それはわかっていた。

 でも、今は誰とも話したくなかった。

 ソラのことを話せば、泣いてしまいそうだから。

 ソラのことを忘れようとすれば、ソラが本当にいなくなってしまうような気がするから。

 千夏は、何も考えないようにして、黒板を見つめた。

     *

 放課後。

 校門を出ると、秋斗が待っていた。

 背が高く、少し癖のある黒髪。制服のネクタイを緩め、鞄を片手に持っている。

「千夏」

「……秋斗。どうしたの?」

「一緒に帰ろうと思って」

「そっか」

 二人は並んで歩き始めた。

 いつもなら、くだらない話をしながら帰る道だった。

 テストの点数がどうだったとか。

 クラスの誰と誰が付き合い始めたとか。

 週末に何をするかとか。

 けれど、今日は会話が続かなかった。

 秋斗も、無理に話しかけようとはしなかった。

 しばらく歩いたところで、彼がぽつりと言った。

「ソラ、散歩が好きだったよな」

 千夏の足が止まった。

「……うん」

「俺が小さいころ、転んで泣いてたときも、ソラがずっとそばにいてくれたんだ」

「そうだったね」

「俺、あいつに何回も助けられた気がする」

 秋斗は、少しだけ笑った。

 懐かしいものを思い出すような、優しい笑顔だった。

「だからさ。俺も、千夏が辛いときは力になりたいんだ」

 千夏は顔を上げた。

 秋斗の瞳は、まっすぐこちらを見ていた。

「無理に元気にならなくていいから。ソラのこと、忘れなくていいから」

「……っ」

「俺も、忘れたくないんだ。あいつのこと」

 その言葉を聞いた瞬間、千夏の目に涙が浮かんだ。

 けれど、千夏は慌てて顔を背けた。

「ごめん。私、まだ……」

「謝るなよ」

 秋斗は静かに言った。

「泣きたいなら、泣いていいんだよ」

 その優しさが、千夏には苦しかった。

 泣きたかった。

 本当は、ずっと泣きたかった。

 ソラに会いたい。

 もう一度、抱きしめたい。

 あの温かい体に顔を埋めて、何も心配しなくていいんだと、安心したかった。

 でも、泣いてしまったら、本当にソラがいなくなったことを認めてしまうような気がした。

「……ごめんね」

 千夏は、それだけ言って走り出した。

「千夏!」

 秋斗の声が背中に届く。

 それでも、振り返ることはできなかった。

     *

 家に帰ると、玄関の隅にソラのリードが置かれていた。

 散歩に出るとき、いつも使っていたもの。

 茶色い革のリードで、持ち手のところに小さな傷がある。

 千夏が中学生のころ、ソラが急に走り出したせいで、手から滑り落ちてしまったのだ。

 あのとき、千夏は転びそうになりながら、ソラを追いかけた。

 ソラは途中で立ち止まり、心配そうに振り返った。

 まるで、自分が悪いことをしたとわかっているようだった。

 千夏は笑いながら、ソラの頭を撫でた。

『もう、びっくりしたよ。次はゆっくり歩こうね』

 ソラは、嬉しそうに尻尾を振った。

 千夏はリードを手に取った。

 革の感触が、指先に残る。

「……散歩、行こうか」

 思わず、口にしていた。

 返事はない。

 玄関にいるのは、千夏一人だけだった。

 手の中のリードが、ひどく軽く感じられた。

「……ソラ」

 千夏は、その場にしゃがみ込んだ。

「ソラ、会いたいよ……」

 涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。

「帰ってきてよ……。お願いだから……」

 誰も答えてくれない。

 どれだけ名前を呼んでも、ソラは帰ってこない。

 千夏はリードを抱きしめ、声を殺して泣いた。

     *

 その夜、雨が降り始めた。

 窓ガラスを叩く雨音が、静かな部屋に響いている。

 千夏は机の前に座り、ソラの写真を見つめていた。

 写真の中のソラは、笑っているように見えた。

「ねえ、ソラ」

 千夏は、そっと話しかける。

「私、最後の日のこと、何度も思い出すんだ」

 ソラが亡くなった日。

 母は、朝から忙しそうにしていた。

 ソラの具合が少し悪いことは知っていたけれど、前日には食事も取れていたし、獣医師からも様子を見ようと言われていた。

 だから千夏は、学校へ行った。

 すぐに帰るつもりだった。

 ソラの好きなおやつを買って。

 いっぱい撫でて。

 今日は頑張ったね、と話しかけるつもりだった。

 けれど。

 スマートフォンを見ると、母から何件もの着信が入っていた。

 慌てて電話をかけた千夏に、母は泣きながら告げた。

『千夏……ソラが……』

 その先の言葉を、千夏はよく覚えていない。

 ただ、家に帰ったときには、もう遅かった。

 ソラは、いつものベッドで静かに眠っていた。

 もう、二度と目を覚まさなかった。

「どうして、あの日……」

 千夏は写真を抱きしめた。

「どうして、そばにいてあげられなかったんだろう……」

 もし、あの日、学校を休んでいたら。

 もし、もっと早く病院へ連れていっていたら。

 もし、最後に一度だけでも、ソラの頭を撫でてあげられていたら。

 違う未来があったのだろうか。

 答えは、どこにもなかった。

 時計の針が、午後十一時を指す。

 雨は、ますます強くなっていた。

 千夏は机の引き出しを開けた。

 そこには、ソラの首輪が入っていた。

 青い首輪。

 散歩のときにつけていたもので、小さな銀色の鈴がついている。

 ソラが走るたび、ちりん、ちりん、と音が鳴った。

 千夏は首輪を両手で包み込んだ。

「お願い……」

 声が震える。

「もう一度だけでいいから……」

 涙が、鈴の上に落ちた。

「ソラに会いたい」

 その瞬間だった。

 ちりん。

 小さな音がした。

 千夏は顔を上げた。

 窓は閉まっている。

 風も吹いていない。

 それなのに、手の中の鈴が、確かに鳴った。

「……え?」

 銀色の鈴が、淡く光っていた。

 最初は、ほんの小さな光だった。

 けれど、次第に強くなり、千夏の手元から部屋全体へと広がっていく。

「なに、これ……?」

 眩しさに目を閉じる。

 耳元で、懐かしい音が聞こえた。

 ちりん。

 ちりん。

 ちりん。

 それは、ソラが散歩のときに鳴らしていた鈴の音だった。

 そして。

 遠くから、誰かが千夏の名前を呼んだ気がした。

『千夏』

 懐かしい声。

 いや、声ではない。

 言葉ではないのに、確かに伝わってくる。

 ――大丈夫だよ。

 その瞬間、千夏の意識は白い光に包まれた。

     *

「……夏」

 誰かが呼んでいる。

「千夏、朝だよ」

 聞き慣れた声に、千夏はゆっくりと目を開けた。

 見慣れた天井。

 カーテンの隙間から差し込む朝日。

 机の上には、昨日と同じ写真立てが置かれている。

 夢だったのだろうか。

 千夏はぼんやりと考えた。

 昨夜、鈴が光ったことも。

 ソラに会いたいと願ったことも。

 すべて、悲しみが見せた夢だったのかもしれない。

「……そうだよね」

 千夏は小さく呟いた。

 そのとき。

 ベッドの横で、何かが動いた。

 ふわりと揺れる、金色の毛並み。

 千夏の頬に、温かな鼻先が触れた。

 そして。

「ワンッ!」

 元気な鳴き声が、部屋いっぱいに響いた。

 千夏は息を止めた。

 ゆっくりと顔を向ける。

 そこには、ソラがいた。

 いつものように尻尾を振り、嬉しそうに千夏を見つめている。

「……ソラ?」

 声が震えた。

 ソラは、もう一度鳴いた。

「ソラ……?」

 千夏は震える手を伸ばした。

 ふわふわの毛に触れる。

 温かい。

 生きている。

 夢ではない。

 ソラは千夏の手を舐め、嬉しそうに尻尾を振り続けていた。

「うそ……」

 千夏の目から、涙があふれた。

「うそでしょ……? だって、ソラは……」

 言葉が続かない。

 千夏はソラを抱きしめた。

 温かな体を、もう二度と離さないとでもいうように、ぎゅっと抱きしめる。

「会いたかった……! ソラ……!」

 ソラは、千夏の腕の中で静かにしていた。

 まるで、ずっとこうしていたかったかのように。

 千夏は泣きながら、ソラの頭を何度も撫でた。

「よかった……。夢じゃない……。ソラがいる……!」

 そのとき、部屋の外から母の声が聞こえた。

「千夏ー! いつまで寝てるの? 今日は十月十八日よ。学校、遅刻するわよ!」

 千夏は、ぴたりと動きを止めた。

 十月十八日。

 その日付には、覚えがあった。

 ソラが亡くなったのは、十月二十五日。

 つまり。

 今日は、七日前。

 千夏はベッドから飛び起き、机の上のカレンダーを確かめた。

 十月十八日。

 何度見ても、同じだった。

 スマートフォンを手に取り、日付を確認する。

 やはり、十月十八日。

 千夏はソラを見つめた。

 ソラは、不思議そうに首を傾げている。

「……私、戻ってきたの?」

 七日前に。

 ソラが、まだ生きていた時間に。

 千夏の目から、再び涙がこぼれ落ちた。

 けれど、今度の涙は悲しみだけではなかった。

「ソラ……」

 千夏はソラを抱きしめ、耳元で囁いた。

「今度こそ、絶対に助けるからね」

 窓の外では、秋の風が木々を揺らしていた。