「不備はなさそうなので、あとはこちらで手続きします」
元彼――啓太は書類を受け取り、顔色ひとつ変えなかった。
「……お願いします」
返事が届いたかは分からない。室内は祝福に溢れ、騒がしいからだ。
「おめでとう」「おめでとう」背後で繰り返される中、お腹の底から冷たい言葉が出る。
「足立さんと結婚、されるんですね?」
啓太はパソコンから顔を上げない。
「お子さんも生まれるとか?……それは色々と入り用ですね」
無視。
「もし書類に不備が見つかったら、本人へ連絡してください。わたしはこれで」
踵を返そうとすると、机の上でファイルの角を鳴らす。
「なにか?」
「話したのか?」
同期の彼女に、という意味だろう。
「話してないし――」
足立さんへ視線を移すと、こちらにも会釈してくる。
小柄で、可愛らしく、若い。啓太の好みを並べたビンゴカードなら、真ん中一列が揃いそう。
「話さない。身重の人に話せるはず、ないでしょう」
「いちおう言っておくが、オレはずっと別れたがっていた。とっくに終わっていたんだ」
たしかに、妊娠が分かったであろう時期からケンカは絶えず、他に好きな人がいるとも告げられた。
「家具もオレが買った」
違う。ヘアアイロンはわたしのだろ。
俯き、巻けなかった毛先を撫でる。
「後ろめたくないなら、大きな声で言えば?」
ヒラヒラ振る手を震わせないよう、指先まで神経を集中する。いずれきちんと話し合うにしても、今ここで事を荒立てるつもりはない。
大回りして、退出しようとした。
「あの!」
タタッと足立さんが駆けてくる。昨夜、写真で顔を知ったばかりの浮気相手が、まさか社内にいたなんて。
――いや、結果的に、わたしが浮気相手ってことになるのか?
息をのむ。「おめでとう」なんて言葉が出てくるはずもなく、2秒くらい見つめ合ってしまった。
「河合さん、啓太さんと同期なんですよね! 結婚式で、同期の皆さんに余興をお願いしたくて。河合さんにも参加してもらえたら嬉しいです!」
「……はい?」
「え?」
「いや、だって、その」
そんなわたしに小首を傾げる足立さんは、毛先をきれいに巻いている。
■
「それで今夜は酒盛りってわけか」
「それでって? なんにも知らないのに、分かった風に言わないで」
玄関でわたしを出迎えたレイは腕組みする。
「酒より先に買わないといけないものがあるだろうに」
「うるさい! 下着は買ったんでしょ?」
「部屋着が欲しい」
「はん!」
両手に携えたビニール袋をいったん置き、Tシャツとデニムを引っ張り出すと投げつけた。
「これは――アイデンティティを損なうデザインだな」
「記憶喪失のくせして、もうアイデンティティ確立したの? すごーい」
レイが広げたシャツには「自宅警備員」とプリントされている。パンツの丈もきっと短い。どちらも処分価格になっていたから買っただけ。
「会社で嫌なことでもあったのか?」
「……別に」
「話を聞こう」
「話しても無駄です」
「言ったじゃないか、俺はよく喋る観葉植物。植物は話しかけると健やかに育つらしいぞ? 試してみよう。ほら、来い」
レイはビニール袋を持ち、キッチンへ。床で数字のろうそくが灯っている。
レイの言う通り、照明器具やカーテンを真っ先に揃えるべきだ。けれど、部屋着とお酒を買ってしまう。
「ひとまず着替えてくるから、座ってろ」
「ここ、わたしの家なんですが?」
言いつつ、ペタンッと座り込む。今日一日、本当に疲れた。
顔を覆うと、わたしのことなんて忘れた啓太の表情、幸せそうな足立さんの様子がちらつく。
はっきり言って、惨めだった。
自分だけ取り残されていく。そう思うと、怖くて。
「――っく」
「……真琴、泣いてるのか?」
「泣いてませんけど」
「真琴、顔を上げて」
言われるまま顔を上げる。目の前に――自宅警備員がいた。
「ぷっ」
「ははっ、どうだ? 恐ろしく似合わないだろ」
「あはははっ、パンツもピチピチじゃないですか!」
レイは屈んでこちらを覗き込み、頬に触れかけた手を止めた。
「あ、怒りました?」
ゆっくり首を横に振る。前髪を下ろすと、切れ長な目元の印象が柔らかくなる。
「……いいや、真琴が笑ってくれるなら、着替えた甲斐がある」
「レイ?」
もう一度、伸ばしてきて。
「痛っ!」
デコピンされる。
「真琴も着替えろ。俺は朝からクロワッサンしか食べてないんだぞ!」
元彼――啓太は書類を受け取り、顔色ひとつ変えなかった。
「……お願いします」
返事が届いたかは分からない。室内は祝福に溢れ、騒がしいからだ。
「おめでとう」「おめでとう」背後で繰り返される中、お腹の底から冷たい言葉が出る。
「足立さんと結婚、されるんですね?」
啓太はパソコンから顔を上げない。
「お子さんも生まれるとか?……それは色々と入り用ですね」
無視。
「もし書類に不備が見つかったら、本人へ連絡してください。わたしはこれで」
踵を返そうとすると、机の上でファイルの角を鳴らす。
「なにか?」
「話したのか?」
同期の彼女に、という意味だろう。
「話してないし――」
足立さんへ視線を移すと、こちらにも会釈してくる。
小柄で、可愛らしく、若い。啓太の好みを並べたビンゴカードなら、真ん中一列が揃いそう。
「話さない。身重の人に話せるはず、ないでしょう」
「いちおう言っておくが、オレはずっと別れたがっていた。とっくに終わっていたんだ」
たしかに、妊娠が分かったであろう時期からケンカは絶えず、他に好きな人がいるとも告げられた。
「家具もオレが買った」
違う。ヘアアイロンはわたしのだろ。
俯き、巻けなかった毛先を撫でる。
「後ろめたくないなら、大きな声で言えば?」
ヒラヒラ振る手を震わせないよう、指先まで神経を集中する。いずれきちんと話し合うにしても、今ここで事を荒立てるつもりはない。
大回りして、退出しようとした。
「あの!」
タタッと足立さんが駆けてくる。昨夜、写真で顔を知ったばかりの浮気相手が、まさか社内にいたなんて。
――いや、結果的に、わたしが浮気相手ってことになるのか?
息をのむ。「おめでとう」なんて言葉が出てくるはずもなく、2秒くらい見つめ合ってしまった。
「河合さん、啓太さんと同期なんですよね! 結婚式で、同期の皆さんに余興をお願いしたくて。河合さんにも参加してもらえたら嬉しいです!」
「……はい?」
「え?」
「いや、だって、その」
そんなわたしに小首を傾げる足立さんは、毛先をきれいに巻いている。
■
「それで今夜は酒盛りってわけか」
「それでって? なんにも知らないのに、分かった風に言わないで」
玄関でわたしを出迎えたレイは腕組みする。
「酒より先に買わないといけないものがあるだろうに」
「うるさい! 下着は買ったんでしょ?」
「部屋着が欲しい」
「はん!」
両手に携えたビニール袋をいったん置き、Tシャツとデニムを引っ張り出すと投げつけた。
「これは――アイデンティティを損なうデザインだな」
「記憶喪失のくせして、もうアイデンティティ確立したの? すごーい」
レイが広げたシャツには「自宅警備員」とプリントされている。パンツの丈もきっと短い。どちらも処分価格になっていたから買っただけ。
「会社で嫌なことでもあったのか?」
「……別に」
「話を聞こう」
「話しても無駄です」
「言ったじゃないか、俺はよく喋る観葉植物。植物は話しかけると健やかに育つらしいぞ? 試してみよう。ほら、来い」
レイはビニール袋を持ち、キッチンへ。床で数字のろうそくが灯っている。
レイの言う通り、照明器具やカーテンを真っ先に揃えるべきだ。けれど、部屋着とお酒を買ってしまう。
「ひとまず着替えてくるから、座ってろ」
「ここ、わたしの家なんですが?」
言いつつ、ペタンッと座り込む。今日一日、本当に疲れた。
顔を覆うと、わたしのことなんて忘れた啓太の表情、幸せそうな足立さんの様子がちらつく。
はっきり言って、惨めだった。
自分だけ取り残されていく。そう思うと、怖くて。
「――っく」
「……真琴、泣いてるのか?」
「泣いてませんけど」
「真琴、顔を上げて」
言われるまま顔を上げる。目の前に――自宅警備員がいた。
「ぷっ」
「ははっ、どうだ? 恐ろしく似合わないだろ」
「あはははっ、パンツもピチピチじゃないですか!」
レイは屈んでこちらを覗き込み、頬に触れかけた手を止めた。
「あ、怒りました?」
ゆっくり首を横に振る。前髪を下ろすと、切れ長な目元の印象が柔らかくなる。
「……いいや、真琴が笑ってくれるなら、着替えた甲斐がある」
「レイ?」
もう一度、伸ばしてきて。
「痛っ!」
デコピンされる。
「真琴も着替えろ。俺は朝からクロワッサンしか食べてないんだぞ!」

