パウチタイプのおかゆ、梅干し、シャインマスカットを買ってアパートへ急ぐ。
信号待ちがもどかしい。早く帰って、レイの熱を確かめたい。市販薬が効いたらいいのだけれど。
シャインマスカットを見せたら、どんな顔をするだろう。
髪を掻き上げると、バレッタに指を引っかけてしまった。
荷物を足元に置き、留め直す。
視界良好。
信号が青に変わりそうなのを見計らって、横断歩道を渡ろうとした。すると、真っ黒な車が目の前を勢いよく横切っていった。
「危なかった」
わたしの呟きは夕暮れの街並みに溶けていく。
■
「ただいま。レイ?」
玄関の鍵が開いていた。
パンプスのストラップを外しつつ、レイの革靴がないのに気づく。
「レイ?」
もう片方は脱ぎ捨て、玄関を上がる。返事はおろか、人の気配がない。
「レイってば」
慌ててリビングのドアを開け、息をのむ。
「――え」
部屋には、争った形跡が生々しく残っていた。
リンゴのうさぎがあちこちに散らばっている。朝、レイに切ってあげたものだ。
どれも切り口が乾き、果肉は黄色く変色している。ひとつは壁際に転がり、もうひとつは踏まれたのか無残に潰れ、滴った果汁が涙の跡のような染みを作っていた。
――しかも、羽毛布団ごと、レイが消えている。
「け、警察? てか、これ、なんて言うの? 誘拐?」
手が震え、スマホが指の間から滑り落ちそうになる。両手で握り締めて「落ち着け」「落ち着け」と自分に言い聞かせた。
まず外出の可能性は?
羽毛布団を持って出かけないだろう。
お風呂やトイレ、わたしの寝室にいる可能性は?
レイの靴はなかった。それでも確かめよう。
「いない――なんで?」
くまなく探し回ったものの、レイの姿はない。
本当に事件性があるなら、迷っている場合じゃない。分かってる。だけど、レイのことをなんにも知らないんだ。
玄関先に戻り、座り込む。ひっくり返った買い物袋から、シャインマスカットが覗いてる。
――違う。
違うよね。レイのこと、なんにも知らないわけじゃない。わたし――レイが記憶喪失じゃないって、分かっていたじゃないか。
スマホをタップする。
真っ暗な廊下に検索履歴が浮かび上がり、新しい順に、ネザーランドドワーフ、風邪治し方。そして『藤堂 怜』。
そのとき、画面が着信表示に切り替わる。 発信者は非通知だが、構わず通話ボタンを押した。
「……もしもし、河合真琴です。レイは無事ですか?」
「はい、怜さんには適切な治療を受けていただいてます。これまでのご対応、ありがとうございました」
一方的に通話を終えられそうになり、急いで引き止める。
「レイと話せますか? 治った後でもいいので」
「申し訳ございませんが、お繋ぎいたしかねます。体調が回復次第、様々な商談が控えておりますので」
「お別れの挨拶だとしても、ですか?」
「……貴女がお辛くなるだけですよ。怜さんには婚約者がいらっしゃいます」
ボトリ。なにが落ちたかと思えば、涙じゃない。バレッタだ。
「あなたのお宅へお邪魔した日は、婚約者とご一緒に出かける予定でした」
「それで、なぜケガを?」
「詳しい事情は怜さんの沽券にかかわりますので、私からは何も申し上げられません」
リビングに目を向ける。あの夜、わたしたちは壁に寄りかかり、床の上でピザを食べた。
「……あのピザ、美味しかったなあ。レイにそう伝えてくれませんか?」
「ええ、伝言を承りました。それではこれで失礼いたします」
通話が終わるなり、口元を覆う。そのまま背中を丸めて泣いた。
レイがいないと、夜がこんなに暗いなんて。忘れかけていた。また覚え直さなきゃ。
信号待ちがもどかしい。早く帰って、レイの熱を確かめたい。市販薬が効いたらいいのだけれど。
シャインマスカットを見せたら、どんな顔をするだろう。
髪を掻き上げると、バレッタに指を引っかけてしまった。
荷物を足元に置き、留め直す。
視界良好。
信号が青に変わりそうなのを見計らって、横断歩道を渡ろうとした。すると、真っ黒な車が目の前を勢いよく横切っていった。
「危なかった」
わたしの呟きは夕暮れの街並みに溶けていく。
■
「ただいま。レイ?」
玄関の鍵が開いていた。
パンプスのストラップを外しつつ、レイの革靴がないのに気づく。
「レイ?」
もう片方は脱ぎ捨て、玄関を上がる。返事はおろか、人の気配がない。
「レイってば」
慌ててリビングのドアを開け、息をのむ。
「――え」
部屋には、争った形跡が生々しく残っていた。
リンゴのうさぎがあちこちに散らばっている。朝、レイに切ってあげたものだ。
どれも切り口が乾き、果肉は黄色く変色している。ひとつは壁際に転がり、もうひとつは踏まれたのか無残に潰れ、滴った果汁が涙の跡のような染みを作っていた。
――しかも、羽毛布団ごと、レイが消えている。
「け、警察? てか、これ、なんて言うの? 誘拐?」
手が震え、スマホが指の間から滑り落ちそうになる。両手で握り締めて「落ち着け」「落ち着け」と自分に言い聞かせた。
まず外出の可能性は?
羽毛布団を持って出かけないだろう。
お風呂やトイレ、わたしの寝室にいる可能性は?
レイの靴はなかった。それでも確かめよう。
「いない――なんで?」
くまなく探し回ったものの、レイの姿はない。
本当に事件性があるなら、迷っている場合じゃない。分かってる。だけど、レイのことをなんにも知らないんだ。
玄関先に戻り、座り込む。ひっくり返った買い物袋から、シャインマスカットが覗いてる。
――違う。
違うよね。レイのこと、なんにも知らないわけじゃない。わたし――レイが記憶喪失じゃないって、分かっていたじゃないか。
スマホをタップする。
真っ暗な廊下に検索履歴が浮かび上がり、新しい順に、ネザーランドドワーフ、風邪治し方。そして『藤堂 怜』。
そのとき、画面が着信表示に切り替わる。 発信者は非通知だが、構わず通話ボタンを押した。
「……もしもし、河合真琴です。レイは無事ですか?」
「はい、怜さんには適切な治療を受けていただいてます。これまでのご対応、ありがとうございました」
一方的に通話を終えられそうになり、急いで引き止める。
「レイと話せますか? 治った後でもいいので」
「申し訳ございませんが、お繋ぎいたしかねます。体調が回復次第、様々な商談が控えておりますので」
「お別れの挨拶だとしても、ですか?」
「……貴女がお辛くなるだけですよ。怜さんには婚約者がいらっしゃいます」
ボトリ。なにが落ちたかと思えば、涙じゃない。バレッタだ。
「あなたのお宅へお邪魔した日は、婚約者とご一緒に出かける予定でした」
「それで、なぜケガを?」
「詳しい事情は怜さんの沽券にかかわりますので、私からは何も申し上げられません」
リビングに目を向ける。あの夜、わたしたちは壁に寄りかかり、床の上でピザを食べた。
「……あのピザ、美味しかったなあ。レイにそう伝えてくれませんか?」
「ええ、伝言を承りました。それではこれで失礼いたします」
通話が終わるなり、口元を覆う。そのまま背中を丸めて泣いた。
レイがいないと、夜がこんなに暗いなんて。忘れかけていた。また覚え直さなきゃ。

