海沿いの古工場と猫

 少しして落ち着いたとき、太ももの脇に温もりが触れた。そこに視線を向けると、猫が澄ました顔で座っていた。思わず「かわいい」と口にして、斑模様の毛並みを撫でていると、喉を鳴らし始めた。そのまま撫でていると、猫は徐々に身体を伸ばし、ついにはお腹を出して寝転んだ。

 ふと笑みが零れ、優しく触れると、前足を伸ばして、太ももを軽く揉み始めた。余りの可愛さに口元が緩み、里親を探そうかと考えながら、撫でていた時だった。

「は?お前なんでそこに居るんだよ」

 その声が聞こえたと同時に、猫は翻り、座り直した。

「ごめんなさい。すぐ帰ります」

 自分もつられて返してみたものの、黒瀬さんは苦笑いをしたあとで言った。

「お前じゃなくて、そっち」

 猫のほうを顎で示したけれど、紛らわしいと思っていた。

「名前は……」そう聞くと、黒瀬さんはすぐに「唯稀」と答えた。

 軽く首を傾げてから戻し、「そっちじゃなくて……」と聞いてみた。

 すると、黒瀬さんは「あ、そう……。確か、大福」と言った。

 私は「大福……」と言ってから、撫でようとしたところで、尋ねてみた。

「ここで暮らしてないんですか?」

「住み着いてんだよ」と黒瀬さんは言い、あきれたように鼻息を漏らした。

 その割には、とホームセンターでの姿を思い浮かべ、口元が緩みそうになり、誤魔化して言った。

「かわいいですね」

「そうでもねぇぞ、テーブルの上に座るし、ボルトで遊ぶし、仕事にならねぇ」

 黒瀬さんは投げるように言ったけれど、自分にはそう見えなかった。大福に向ける視線が優しいし、足元に行っても追い払わない。

 きっと、動物そのものより、大福が好きなんだと思った。

「好きなんですね」と言いながら腰を上げると、黒瀬さんは「……別に。帰るのか?」と言って、眉間に皺を寄せていた。

「はい。ありがとうございました。じゃあ、車宜しくお願いします」

 そう言って、軽く頭を下げてみると、黒瀬さんはこちらを見て、少し止まった。

 そこで軍手をはめながら、黒瀬さんが言った。

「仕事終わってからでいいから来いよ。釣りは用意しておくから。じゃあな」

「わかりました」と言ったものの、黒瀬さんは愛車に向かっていき、すぐに愛車の下に滑って行った。
 
 その様子を眺めたあとで、私は踵を返し、職場に向かって行った。