海沿いの古工場と猫

 紙袋も中身も燃え尽き、流木だけが炭になって、白い煙が立ち上っていた。

 火もほとんど消えたようで、その場を後にしようとしたとき、男性と目が合ってしまった。

 すると、男性が煙草を手に持ち、口を開いた。

「お前の家、ここからどんくらい?」

 尋ねられたことに少し首を傾げつつ、すぐに返した。

「十分くらい、だと思い……ます」

「へぇ。じゃあ、そこの工場に車持って来い」男性はそう言って、煙草をくわえ、歩いて行った。

 思わず鼻が膨らみかけて、ゆっくり息を吐きながら戻した。そこで歩き始めると、男性は遠くのほうに見え、その姿は工場の中へと消えて行った。

 気乗りはしないけれど、ここで帰っても、噂が広がるかもしれない。そう思って、愛車に乗り込み、走らせて行った。

 工場の前に停めて、運転席から降りると、目の前は雑然としていた。タイヤが積まれていたり、壊れた車の部品やバンパーが転がっていた。辺りを見回しても名前が分からない工具類があって、バケツのような缶が幾つもあった。

 そのまま立ち止まっていると、微かにクラシックが聞こえてきた。

 優しいピアノの調べ、奏でられたノクターン。

 蘇った光景に、目を伏せることができなかった。

『まだ、子どもでしょ……大丈夫なのかしら』

『でもほら、叔父が黙ってないから……』

 潜めた声に、出来るだけ前を見て、耳を塞ぐこともしなかった。

 いつも見てた顔が並んでいたけれど、途方もない遠さに見えていた。

 その瞬間、右手が熱くなって、目の前に黒瀬さんが居た。

「わりぃけど、こっち来い。そこだと危ねぇから」

「ごめんなさい……帰ります」

 返してみても、黒瀬さんは手を引っ張って行った。そこから脇に置かれた二つ並んだ椅子の前で立ち止まり、こちらの身体を椅子のほうへ向かせると、優しく肩に手を添えて、腰を下ろすよう促した。

 そして目の前の小さなテーブルにティッシュを置き、こちらを見て言った。

「落ち着いたら帰れ。明日までにきっちり直してやる」

「ありがとう、ございます……」

 踵を返した黒瀬さんの背中が汗ばんでいた。汚れた軍手をはめたまま、黒瀬さんは愛車の下に滑って行った。

 そこでティッシュを一枚手にし、ふと視線を移すと、隅のほうに一枚の紙切れとペンが置いてあった。

 紙を見ると、見積もり表で、事細かに金額が記されていた。

 私はペンを持って、空欄に『篠崎千乃』と書いて、ペンを置いてから、涙を拭っていた。