海沿いの古工場と猫

 その後はスーパーに寄り、食材を幾つか買って、すぐ家に帰った。居間に入ってから、冷蔵庫に食材を入れたあとで、カーテンを取り付けて開き、窓も開けた。縁側に腰を下ろし、そこから広がる景色を眺めた。

 緑が生い茂る山の麓には微かに海が覗き、時々、潮風が吹き抜けていった。新しい職場に行く前に髪を切ろうかと少し悩みながら、視線を横に向けたところで、愛車が目に止まった。

 そこで昔の思い出が蘇りそうになり、いったん視線を伏せてから、再び戻した。

 洗車や中の清掃はしていたけれど、車検以外ではほとんど何も手を付けていないことを思い出した。そろそろ時期も近いし、と考えたとき、なぜかあの男性のことが浮かんでいた。

 あの人は確かに愛車を動かした。でも、口調や態度を思い返したら、愛車を預けに行くことに気が引けた。だけど、市街に持って行くには、帰る手段がバスだけになる。田舎町の時刻表を見なくても、大体の見当はつく。考えを整理してから、おもむろに腰を上げた。

「とりあえず、髪切ろ」と呟き、部屋に入って、窓とカーテンを閉めた。携帯を取り出し、市街の美容室を検索し、一時間後の予約を入れた。そこからキッチンに行って、冷蔵庫からボトルの紅茶を手にした。

 居間には角が丸いテーブルの前に、淡い色のソファーを置いていた。ソファーに腰掛けて、紅茶を飲みながら、軽く気を緩めた。二人掛けには少し狭い大きさでも、その新しさが自分を迎えてくれているようだった。

 やがて予約の時間が近づき、部屋を抜けて、愛車で美容室に向かった。そこではセミロングの髪をどうするか悩んだ末、ショートボブにすることを決め、美容師に切って貰った。

 その後で湊町に戻り、職場に挨拶に行こうと、漁港まで赴いた。漁港には大きな倉庫があり、中には卸市場が広がり、左側に定食屋が併設されていた。そこに足を進めていると、途中で人の良さそうな中年男性が声を掛けてきた。最初は愛想笑いで応えたけれど、何人かに声を掛けられるうちに、気軽に声を掛けられるこの町の空気を受け入れていた。

 定食屋に入ってからは、恰幅の良い女性に声を掛けられ、名前を言った途端に、満面の笑顔で席に案内された。

 席に着くと、女性も席に着き、一人で切り盛りしてることや、どんな客が多いのかを話し始めた。ふと思い出したように、「アタシは祥子。気軽に呼んでよ」と言って、明るく笑った。

 私は『祥子さん』と呼ぶことにしたけれど、きっと、祥子ちゃんでも応えてくれそうな雰囲気だった。