海沿いの古工場と猫

 家に帰ってから、お風呂に入り、着替えを済ませて、髪を乾かした。洗面台の鏡に映る顔と、軽くなった髪型を見ていた。何も残ってないことを確かめて、その場から抜け出し、小部屋に行って、布団の中に潜り込んだ。

 次の日。定食屋に行くまで風が強くて、何度か飛ばされそうになった。定食屋では同じ作業をしたけれど、お客さんが少なくて、手持ち無沙汰になった。すると、祥子さんが声を掛けてきた。

「今日は海がしけてるんだよ。覚えときな」と笑っていた。

 そこで出入り口のドアが開き、見たことのある人が入ってきた。

 センター分けの短い黒髪、真っ直ぐな眉毛に涼し気な目元、軽く口角を上げて結んだ唇が印象的な人。その人は無地のシャツに灰色のジャケットを羽織り、綿のパンツという出で立ちだった。

 どこかで……と首を傾げたとき、その人がこちらを見て、口を開いた。

「千乃さん、昨日ぶり。今日は何にしようかな……」

 その人はそう言いながら、テーブル席に着き、静かに腰を下ろした。

「誰だろ……」と呟き、コップに水を注いで、その人の席へ行き、テーブルの上に置いた。

「今度の休みいつ?」軽い口調で尋ねられたと同時に、祥子さんから声が掛かった。

「柏原、早く決めな」

 名前を聞いてから思い出したものの、普段着では分からなかった。

 すると、柏原さんが祥子さんに向かい、「じゃあ、鯖定食おねがいしまーす」と言った。

 そして、柏原さんはこちらに目を向け、明るい表情で尋ねてきた。

「千乃さん、休みいつ?」

「あの、名字で呼んで貰えませんか」そう返すと、柏原さんは一瞬だけ表情を止めたあと、すぐに昨日の調子に戻って、こちらに言った。

「ごめん。篠崎さん、この町住みやすいでしょ」変わらずの口調に、軽く頭を下げたところで、テーブルの上に食事が置かれ、祥子さんが言った。

「その辺にしときな。千乃ちゃんは、柏原に釣り合わないんだから、さっさと食べて帰りな」

 そこで、祥子さんはこちらに目を向けて言った。

「千乃ちゃんも、この辺でいいよ。あと、用事頼んでいい?」

「はい。なんですか?」尋ねてみると、祥子さんはこちらの肩を抱き、カウンターのほうへ近づいて行った。

 祥子さんはカウンターの上からビニール袋を手に取り、こちらの手前に置いて、耳打ちするように言った。

「悪いんだけど、これ工場に届けて。代金はツケだから、そのまま帰っていいから」

「でも……」と戸惑ってみると、祥子さんは言った。

「いつものことだから、気にしなくていいよ。唯稀はよく飯食べるの忘れるんだ。頼んだよ」

 祥子さんはこちらの手を取って、ビニール袋を少し強引に握らせた。

「わかりました。お疲れ様でした」

 そう言って、店から抜け出し、強い風に顔を顰めながら、工場に向かって行った。