海沿いの古工場と猫

 どこまでも広がる鮮やかな水色に浮かぶ白い雲、その下には穏やかな波が寄せては返していた。遠い水平線を横目にすると、その手前には白い砂浜とは言えない土色の地面が伸びている。海岸沿いを愛車の古いミニクーパーで走り続け、田舎町が見えたところで、小休憩スペースを見つけた。

 そこへ車を停めてから、車を抜け出して、思いきり潮風の匂いを吸い込んだ。

 しばらく海を眺めているうちに、嫌な思い出が蘇ってきた。

『千乃、ごめん。別れて欲しい。頼む』

 仕事を終えて帰宅している途中に、追いかけてきた彼氏が、見事なスライディング土下座をして、そう言った。

 元彼氏は周りの注目を浴びていて、私は前を向きながら、地下鉄の駅に歩いて行った。
 別れを切り出した内容の理由は、社内ですでに噂になっていたけれど、それよりも前から地味な嫌がらせが起きていた。薄々は気づいていたのに、見ないふりをしたのが原因だと思った。だけど……。

「もう、忘れよ」独り言を呟いて、思いきり背伸びをしながら、深呼吸をした。

 そして軽く息を吐いたあとで、愛車に乗り込み、エンジンを掛けた時だった。

「あれ……」また独り言を呟き、何度かキーを回してみたものの、愛車は動かなかった。

 誰か、嘘だと言って欲しい。そう頭に浮かべたあと、肩を落として、ポケットから携帯を取り出した。まずはロードサービスに連絡しようと検索窓に入力し、電話番号をタップして耳に当てた。すると、音声ガイダンスが流れるだけで、繋がりそうな様子もなく、そのまま電話を切った。

 郊外だったら大型のカー用品店に問い合わせられるけど、田舎町にあるとは思えない。そう考えながら、携帯を眺めて、近くの工場を探し出した。すると、一軒だけ見つかった。それは田舎町の外れにある 『黒瀬工場』という工場だった。

 電話番号をタップして耳に当て、コール音が一度鳴ったとき、相手が電話に出た。

「もしもし、黒瀬工場です」その声は気怠くて低い男性のものだった。

「あの、車を見て貰いたいんですけど……」そう言うと、男性は直ぐに「じゃあ、持ってきて」と投げるように言った。

 愛想のない人だなと感じたけれど、田舎町では普通のことだから、自分も普段通りに返した。

「動かなくて、乗って行けません」

「あ、そう。エンストか。どこ?」男性は相変わらずの口調で言い、こちらの様子を窺うように訊いた。

「湊町に向かうほうの小休憩所です」と答えてみると、男性は「了解」とだけ言って電話を切った。

 携帯を見ながら、もう少し何か言うことあるのに、と思いながら、ポケットに携帯を仕舞った。
 おもむろに車から抜け出して、愛車の脇に立ち、その人物が来るのを待っていた。