神崎颯真は、家庭科の教科書を開きながら、ひとり静かに拳を握っていた。
今日は、勝てる。
いや、今日こそ勝ってみせる。
「……ふっふっふ」
「何を笑ってるんだ、颯真」
隣の席の佐伯が、怪訝そうな顔をした。
「聞いて驚け。今日の家庭科は裁縫だ」
「知ってるけど?」
「数学では引き分け。持久走では負け。料理でも負けた。だが、裁縫なら話は別だ!」
「お前、裁縫が得意なのか?」
「……家庭科の授業で、ボタンを縫いつけたことくらいはある」
「それ、みんなあるだろ」
「うるさい! 重要なのは経験があることだ!」
颯真は自信満々に胸を張った。
実際、裁縫にはそれほど自信があるわけではない。
しかし、冷花に勝つためには、どんな分野でも挑戦する必要がある。
しかも、裁縫なら数学のように複雑な計算も必要ないし、運動のように体力の差が出るわけでもない。
丁寧に作業すれば、勝機はあるはずだ。
「今回は絶対に勝つ……!」
「その台詞、毎回聞いてる気がするけどな」
佐伯の言葉を無視して、颯真は家庭科室へ向かった。
◇
「本日の課題は、布製の小物入れを作ることです」
家庭科の先生が、見本を掲げた。
「布を裁断し、縫い合わせ、最後にボタンを取りつけます。完成度、縫い目の美しさ、作業の正確さを総合的に評価します」
教室がざわめいた。
「うわ、細かい作業が多いな」
「ボタンつけ、苦手なんだよな……」
颯真は配られた布を手に取った。
水色の布地に、白い糸。
まずは型紙に合わせて布を切り、端を折り込んで縫い合わせる。
よし。
手順は単純だ。
あとは丁寧に進めるだけ。
「一ノ瀬!」
颯真は隣の席に座る冷花に声をかけた。
「今日は裁縫で勝負だ!」
冷花は布地を広げながら、颯真を見た。
「裁縫で、ですか?」
「そうだ。今日こそ俺が勝つ!」
「わかりました。では、正確さを競いましょう」
「望むところだ!」
冷花は小さくうなずいた。
「神崎くんの作品を見るのが楽しみです」
「……っ!」
颯真は一瞬、言葉に詰まった。
「な、何だよ。今日は絶対に負けないからな!」
「はい。私も手を抜くつもりはありません」
冷花は真剣な表情で裁縫道具を並べた。
その手つきは、すでに慣れたものだった。
「……お前、裁縫も得意なのか?」
「はい。家で必要なものは、できるだけ自分で直すようにしています」
「自分で直す?」
「服のほつれや、取れかけたボタンなどです。直せるものを、そのままにするのはもったいないですから」
「……なるほど」
颯真は、嫌な予感がした。
料理ができる。
勉強ができる。
運動もできる。
そして裁縫まで得意。
もしかすると、冷花には本当に苦手なことがないのではないだろうか。
いや、まだ決めつけるのは早い。
今日こそは、何かひとつくらい勝てるはずだ。
「……よし、始めるか!」
◇
作業開始から十五分。
「……あれ?」
颯真は、自分の手元を見つめていた。
布の端を縫い合わせるところまでは、順調だった。
しかし、少しずつ縫い目が曲がり始めている。
さらに、糸を引く力が強すぎたのか、布が引きつってしまった。
「なんでだ……」
反対側の冷花を見る。
彼女は、驚くほどきれいな縫い目を作っていた。
針を刺す間隔が一定で、糸の張り具合もちょうどいい。
まるで、最初から完成品の形が見えているかのようだった。
「……おい、一ノ瀬」
「はい?」
「その縫い目、どうやったらそんなにきれいになるんだ?」
冷花は颯真の手元を見た。
「少し、見せていただいてもよろしいですか?」
「おう」
颯真が布を差し出すと、冷花は縫い目を確認した。
「神崎くん、針を進める間隔が少し不ぞろいになっています」
「やっぱりか……」
「それから、糸を引く力が強すぎます。布を引っ張らないように、もう少し緩めてみてください」
「なるほど……」
颯真は教わったとおりに、もう一度針を動かした。
しかし。
「……あれ? 今度は糸が絡まった!」
「神崎くん、少し落ち着きましょう」
「落ち着いてるつもりなんだけどな……」
「では、私が一度、やり方をお見せします」
冷花は椅子を少し寄せた。
「針を持つ手は、そのままで大丈夫です。こちら側から針を入れて……」
そう言いながら、彼女は颯真の手元をのぞき込んだ。
そして、針を持つ位置を確認しようと、そっと彼の手に触れた。
「……っ!?」
颯真の肩が跳ねた。
「神崎くん?」
「な、何でもない!」
「ですが、手が止まっています」
「そ、それは……!」
冷花は不思議そうに首をかしげた。
「針が危ないので、動かさないでくださいね」
「わ、わかった!」
冷花は颯真の手元を見ながら、丁寧に説明を続けた。
「針を布に対して垂直に入れます。そして、裏側に出た針を引き抜いて……」
「お、おう……」
「ここで、糸を強く引きすぎないようにします」
「……はい」
「神崎くん?」
「はいっ!」
返事が大きくなった。
近い。
とにかく、距離が近い。
冷花の髪が、颯真の肩に触れそうになっている。
彼女は裁縫に集中しているらしく、そんなことにはまったく気づいていない。
一方の颯真は、針の動かし方どころではなかった。
心臓がうるさい。
落ち着け。
相手は一ノ瀬冷花だ。
今まで何度も勝負してきた、宿敵だ。
こんなことで動揺してどうする。
「……神崎くん、顔が赤いですが、具合が悪いのですか?」
「悪くない!」
「ですが、先ほどから手が震えています」
「そ、それは……細かい作業だからだ!」
「なるほど。では、少し休憩しましょうか」
「いや、大丈夫だ!」
「無理は禁物です」
冷花は真剣な顔で颯真を見つめた。
「神崎くんが体調を崩したら、困りますから」
「……っ!」
颯真は、とうとう顔を伏せた。
もう駄目だ。
裁縫どころではない。
その様子を、少し離れた席から佐伯が目撃していた。
「……あいつ、何やってんだ?」
佐伯は数秒、二人を見つめた。
そして、すべてを察したように、にやりと笑った。
「なるほどなあ……」
◇
授業終了まで、残り十分。
「……よし、完成だ!」
颯真は、ようやく小物入れを仕上げた。
形は少し歪んでいる。
縫い目も、冷花の作品ほど整ってはいない。
しかし、自分なりに丁寧に作ったつもりだった。
「……どうだ?」
颯真が隣を見ると、冷花の作品はすでに完成していた。
水色の布はきれいな四角形に仕上がり、縫い目はまっすぐ。
ボタンも中央に取りつけられ、全体のバランスも整っている。
どう見ても、完成度が高かった。
「……また負けた」
颯真は肩を落とした。
「神崎くんの作品も、よくできていますよ」
「慰めはいらない……」
「慰めではありません。本当に、最初よりずっときれいになっています」
冷花は颯真の作品を手に取った。
「特に、最後の部分は縫い目がそろっていますね。途中でやり直したのでしょうか?」
「ああ。最初はひどかったからな」
「それでも、最後まで完成させたのは立派だと思います」
冷花はそう言って、颯真の小物入れをそっと机に戻した。
「私も、最初から完璧にできたわけではありません。何度も練習して、今のやり方を覚えました」
「……お前も、練習したのか?」
「もちろんです。最初から何でもできる人はいませんから」
颯真は、思わず冷花を見つめた。
彼女は何でもできる。
そう思っていた。
けれど、その裏には、きっと自分の知らない努力があるのだろう。
「……そうだよな」
颯真は、自分の作品をもう一度見た。
「俺も、もっと練習する。次こそは勝つからな!」
「はい。楽しみにしています」
冷花は、いつものように微笑んだ。
そして、颯真の作品を指さした。
「ところで、ひとつお願いがあります」
「何だ?」
「この小物入れ、私にいただけませんか?」
「……え?」
颯真は固まった。
「こ、これを?」
「はい。神崎くんが一生懸命作ったものですから」
「いや、でも……俺の作品なんて、そんなにきれいじゃないぞ?」
「それでも、いただきたいです」
冷花はまっすぐに颯真を見つめた。
「神崎くんが初めて作ったものですから」
「……っ!」
颯真の顔が、一気に赤くなった。
「わ、わかった! やるよ!」
「ありがとうございます。大切にしますね」
冷花は、小物入れを両手で受け取った。
そして、丁寧に自分の裁縫道具の袋へしまった。
その様子を見ていた佐伯が、颯真の肩に腕を回した。
「おい、颯真」
「……何だよ」
「お前、もう勝ち負けとかどうでもよくなってないか?」
「そんなわけあるか!」
「じゃあ、なんでそんなにうれしそうなんだ?」
「うれしくなんかない!」
「いや、顔が完全にうれしいやつだぞ」
「うるさい!」
教室に、笑い声が広がった。
◇
放課後。
颯真が帰り支度をしていると、冷花が近づいてきた。
「神崎くん」
「ん? どうした?」
「今日は、裁縫を教えてくださってありがとうございました」
「……いや、教えたのは俺じゃなくて、お前だろ」
「いいえ。神崎くんが挑戦してくれたからこそ、私も説明する機会がありました」
冷花は、鞄から小さな包みを取り出した。
「こちらを、どうぞ」
「……何だ、これ?」
「手作りのしおりです。先ほど、余った布で作りました」
包みを開けると、そこには小さな青いしおりが入っていた。
端は丁寧に縫われ、中央には白い糸で星の模様が刺繍されている。
「……すごいな、これ」
「勉強会のときに、神崎くんがよく本を使っていたので。必要かと思いまして」
「俺のために、作ったのか?」
「はい。迷惑でしたか?」
「そんなわけないだろ!」
颯真は慌てて否定した。
「ありがとう。大事に使うよ!」
冷花は、ほっとしたように微笑んだ。
「よかったです」
颯真は、しおりをそっと手のひらに乗せた。
丁寧に作られた、世界にひとつだけのしおり。
自分のために、冷花が作ってくれたもの。
それを考えるだけで、胸の奥が温かくなった。
「……一ノ瀬」
「はい?」
「今度、俺にもお前に何か作らせてくれよ」
「神崎くんが、私に?」
「ああ。今回のお礼っていうか……」
颯真は照れくさそうに頬をかいた。
「俺だって、お前に何かしてやりたいんだよ」
冷花は、少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「では、楽しみにしています」
「おう!」
二人は並んで廊下を歩き始めた。
その手元には、互いに相手からもらったものがある。
颯真の鞄には、冷花が作ったしおり。
冷花の鞄には、颯真が作った不格好な小物入れ。
どちらも、特別な贈り物というわけではない。
少なくとも、二人はそう思っていた。
しかし。
冷花は帰宅後、小物入れを机の上に置き、しばらく眺めていた。
「……神崎くんらしいですね」
縫い目は少し歪んでいる。
形も、見本とは違っている。
けれど、最後まで丁寧に仕上げようとしたことが伝わってくる。
冷花は、その小物入れに裁縫道具を入れてみた。
そして、満足そうにうなずいた。
「……大切に使いましょう」
その言葉の意味を、彼女自身はまだ深く考えていなかった。
一方、颯真は自室の机にしおりを置き、何度も眺めていた。
「……これ、使うのがもったいないな」
そうつぶやいてから、慌てて首を振る。
「いや、使わないほうが失礼だろ!」
結局、彼は翌日から、そのしおりをいつも使っている問題集に挟むことにした。
それを見るたびに、冷花の顔を思い出してしまうことなど。
今は、まだ考えないことにした。
今日は、勝てる。
いや、今日こそ勝ってみせる。
「……ふっふっふ」
「何を笑ってるんだ、颯真」
隣の席の佐伯が、怪訝そうな顔をした。
「聞いて驚け。今日の家庭科は裁縫だ」
「知ってるけど?」
「数学では引き分け。持久走では負け。料理でも負けた。だが、裁縫なら話は別だ!」
「お前、裁縫が得意なのか?」
「……家庭科の授業で、ボタンを縫いつけたことくらいはある」
「それ、みんなあるだろ」
「うるさい! 重要なのは経験があることだ!」
颯真は自信満々に胸を張った。
実際、裁縫にはそれほど自信があるわけではない。
しかし、冷花に勝つためには、どんな分野でも挑戦する必要がある。
しかも、裁縫なら数学のように複雑な計算も必要ないし、運動のように体力の差が出るわけでもない。
丁寧に作業すれば、勝機はあるはずだ。
「今回は絶対に勝つ……!」
「その台詞、毎回聞いてる気がするけどな」
佐伯の言葉を無視して、颯真は家庭科室へ向かった。
◇
「本日の課題は、布製の小物入れを作ることです」
家庭科の先生が、見本を掲げた。
「布を裁断し、縫い合わせ、最後にボタンを取りつけます。完成度、縫い目の美しさ、作業の正確さを総合的に評価します」
教室がざわめいた。
「うわ、細かい作業が多いな」
「ボタンつけ、苦手なんだよな……」
颯真は配られた布を手に取った。
水色の布地に、白い糸。
まずは型紙に合わせて布を切り、端を折り込んで縫い合わせる。
よし。
手順は単純だ。
あとは丁寧に進めるだけ。
「一ノ瀬!」
颯真は隣の席に座る冷花に声をかけた。
「今日は裁縫で勝負だ!」
冷花は布地を広げながら、颯真を見た。
「裁縫で、ですか?」
「そうだ。今日こそ俺が勝つ!」
「わかりました。では、正確さを競いましょう」
「望むところだ!」
冷花は小さくうなずいた。
「神崎くんの作品を見るのが楽しみです」
「……っ!」
颯真は一瞬、言葉に詰まった。
「な、何だよ。今日は絶対に負けないからな!」
「はい。私も手を抜くつもりはありません」
冷花は真剣な表情で裁縫道具を並べた。
その手つきは、すでに慣れたものだった。
「……お前、裁縫も得意なのか?」
「はい。家で必要なものは、できるだけ自分で直すようにしています」
「自分で直す?」
「服のほつれや、取れかけたボタンなどです。直せるものを、そのままにするのはもったいないですから」
「……なるほど」
颯真は、嫌な予感がした。
料理ができる。
勉強ができる。
運動もできる。
そして裁縫まで得意。
もしかすると、冷花には本当に苦手なことがないのではないだろうか。
いや、まだ決めつけるのは早い。
今日こそは、何かひとつくらい勝てるはずだ。
「……よし、始めるか!」
◇
作業開始から十五分。
「……あれ?」
颯真は、自分の手元を見つめていた。
布の端を縫い合わせるところまでは、順調だった。
しかし、少しずつ縫い目が曲がり始めている。
さらに、糸を引く力が強すぎたのか、布が引きつってしまった。
「なんでだ……」
反対側の冷花を見る。
彼女は、驚くほどきれいな縫い目を作っていた。
針を刺す間隔が一定で、糸の張り具合もちょうどいい。
まるで、最初から完成品の形が見えているかのようだった。
「……おい、一ノ瀬」
「はい?」
「その縫い目、どうやったらそんなにきれいになるんだ?」
冷花は颯真の手元を見た。
「少し、見せていただいてもよろしいですか?」
「おう」
颯真が布を差し出すと、冷花は縫い目を確認した。
「神崎くん、針を進める間隔が少し不ぞろいになっています」
「やっぱりか……」
「それから、糸を引く力が強すぎます。布を引っ張らないように、もう少し緩めてみてください」
「なるほど……」
颯真は教わったとおりに、もう一度針を動かした。
しかし。
「……あれ? 今度は糸が絡まった!」
「神崎くん、少し落ち着きましょう」
「落ち着いてるつもりなんだけどな……」
「では、私が一度、やり方をお見せします」
冷花は椅子を少し寄せた。
「針を持つ手は、そのままで大丈夫です。こちら側から針を入れて……」
そう言いながら、彼女は颯真の手元をのぞき込んだ。
そして、針を持つ位置を確認しようと、そっと彼の手に触れた。
「……っ!?」
颯真の肩が跳ねた。
「神崎くん?」
「な、何でもない!」
「ですが、手が止まっています」
「そ、それは……!」
冷花は不思議そうに首をかしげた。
「針が危ないので、動かさないでくださいね」
「わ、わかった!」
冷花は颯真の手元を見ながら、丁寧に説明を続けた。
「針を布に対して垂直に入れます。そして、裏側に出た針を引き抜いて……」
「お、おう……」
「ここで、糸を強く引きすぎないようにします」
「……はい」
「神崎くん?」
「はいっ!」
返事が大きくなった。
近い。
とにかく、距離が近い。
冷花の髪が、颯真の肩に触れそうになっている。
彼女は裁縫に集中しているらしく、そんなことにはまったく気づいていない。
一方の颯真は、針の動かし方どころではなかった。
心臓がうるさい。
落ち着け。
相手は一ノ瀬冷花だ。
今まで何度も勝負してきた、宿敵だ。
こんなことで動揺してどうする。
「……神崎くん、顔が赤いですが、具合が悪いのですか?」
「悪くない!」
「ですが、先ほどから手が震えています」
「そ、それは……細かい作業だからだ!」
「なるほど。では、少し休憩しましょうか」
「いや、大丈夫だ!」
「無理は禁物です」
冷花は真剣な顔で颯真を見つめた。
「神崎くんが体調を崩したら、困りますから」
「……っ!」
颯真は、とうとう顔を伏せた。
もう駄目だ。
裁縫どころではない。
その様子を、少し離れた席から佐伯が目撃していた。
「……あいつ、何やってんだ?」
佐伯は数秒、二人を見つめた。
そして、すべてを察したように、にやりと笑った。
「なるほどなあ……」
◇
授業終了まで、残り十分。
「……よし、完成だ!」
颯真は、ようやく小物入れを仕上げた。
形は少し歪んでいる。
縫い目も、冷花の作品ほど整ってはいない。
しかし、自分なりに丁寧に作ったつもりだった。
「……どうだ?」
颯真が隣を見ると、冷花の作品はすでに完成していた。
水色の布はきれいな四角形に仕上がり、縫い目はまっすぐ。
ボタンも中央に取りつけられ、全体のバランスも整っている。
どう見ても、完成度が高かった。
「……また負けた」
颯真は肩を落とした。
「神崎くんの作品も、よくできていますよ」
「慰めはいらない……」
「慰めではありません。本当に、最初よりずっときれいになっています」
冷花は颯真の作品を手に取った。
「特に、最後の部分は縫い目がそろっていますね。途中でやり直したのでしょうか?」
「ああ。最初はひどかったからな」
「それでも、最後まで完成させたのは立派だと思います」
冷花はそう言って、颯真の小物入れをそっと机に戻した。
「私も、最初から完璧にできたわけではありません。何度も練習して、今のやり方を覚えました」
「……お前も、練習したのか?」
「もちろんです。最初から何でもできる人はいませんから」
颯真は、思わず冷花を見つめた。
彼女は何でもできる。
そう思っていた。
けれど、その裏には、きっと自分の知らない努力があるのだろう。
「……そうだよな」
颯真は、自分の作品をもう一度見た。
「俺も、もっと練習する。次こそは勝つからな!」
「はい。楽しみにしています」
冷花は、いつものように微笑んだ。
そして、颯真の作品を指さした。
「ところで、ひとつお願いがあります」
「何だ?」
「この小物入れ、私にいただけませんか?」
「……え?」
颯真は固まった。
「こ、これを?」
「はい。神崎くんが一生懸命作ったものですから」
「いや、でも……俺の作品なんて、そんなにきれいじゃないぞ?」
「それでも、いただきたいです」
冷花はまっすぐに颯真を見つめた。
「神崎くんが初めて作ったものですから」
「……っ!」
颯真の顔が、一気に赤くなった。
「わ、わかった! やるよ!」
「ありがとうございます。大切にしますね」
冷花は、小物入れを両手で受け取った。
そして、丁寧に自分の裁縫道具の袋へしまった。
その様子を見ていた佐伯が、颯真の肩に腕を回した。
「おい、颯真」
「……何だよ」
「お前、もう勝ち負けとかどうでもよくなってないか?」
「そんなわけあるか!」
「じゃあ、なんでそんなにうれしそうなんだ?」
「うれしくなんかない!」
「いや、顔が完全にうれしいやつだぞ」
「うるさい!」
教室に、笑い声が広がった。
◇
放課後。
颯真が帰り支度をしていると、冷花が近づいてきた。
「神崎くん」
「ん? どうした?」
「今日は、裁縫を教えてくださってありがとうございました」
「……いや、教えたのは俺じゃなくて、お前だろ」
「いいえ。神崎くんが挑戦してくれたからこそ、私も説明する機会がありました」
冷花は、鞄から小さな包みを取り出した。
「こちらを、どうぞ」
「……何だ、これ?」
「手作りのしおりです。先ほど、余った布で作りました」
包みを開けると、そこには小さな青いしおりが入っていた。
端は丁寧に縫われ、中央には白い糸で星の模様が刺繍されている。
「……すごいな、これ」
「勉強会のときに、神崎くんがよく本を使っていたので。必要かと思いまして」
「俺のために、作ったのか?」
「はい。迷惑でしたか?」
「そんなわけないだろ!」
颯真は慌てて否定した。
「ありがとう。大事に使うよ!」
冷花は、ほっとしたように微笑んだ。
「よかったです」
颯真は、しおりをそっと手のひらに乗せた。
丁寧に作られた、世界にひとつだけのしおり。
自分のために、冷花が作ってくれたもの。
それを考えるだけで、胸の奥が温かくなった。
「……一ノ瀬」
「はい?」
「今度、俺にもお前に何か作らせてくれよ」
「神崎くんが、私に?」
「ああ。今回のお礼っていうか……」
颯真は照れくさそうに頬をかいた。
「俺だって、お前に何かしてやりたいんだよ」
冷花は、少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「では、楽しみにしています」
「おう!」
二人は並んで廊下を歩き始めた。
その手元には、互いに相手からもらったものがある。
颯真の鞄には、冷花が作ったしおり。
冷花の鞄には、颯真が作った不格好な小物入れ。
どちらも、特別な贈り物というわけではない。
少なくとも、二人はそう思っていた。
しかし。
冷花は帰宅後、小物入れを机の上に置き、しばらく眺めていた。
「……神崎くんらしいですね」
縫い目は少し歪んでいる。
形も、見本とは違っている。
けれど、最後まで丁寧に仕上げようとしたことが伝わってくる。
冷花は、その小物入れに裁縫道具を入れてみた。
そして、満足そうにうなずいた。
「……大切に使いましょう」
その言葉の意味を、彼女自身はまだ深く考えていなかった。
一方、颯真は自室の机にしおりを置き、何度も眺めていた。
「……これ、使うのがもったいないな」
そうつぶやいてから、慌てて首を振る。
「いや、使わないほうが失礼だろ!」
結局、彼は翌日から、そのしおりをいつも使っている問題集に挟むことにした。
それを見るたびに、冷花の顔を思い出してしまうことなど。
今は、まだ考えないことにした。



