定期テストまで、あと二週間。
私立星蘭学園の教室では、少しずつ勉強の話題が増え始めていた。
「今回の数学、範囲が広すぎないか?」
「英語もやばいって。先生、絶対に難しい問題を出す気だよ」
「一ノ瀬さんは、今回も学年一位なんだろうな……」
そんな会話を聞きながら、神崎颯真は机に向かっていた。
目の前には、数学の問題集。
ノートには計算式がびっしりと書かれている。
「……よし。これならいける」
颯真は最後の答えを書き込み、満足げにうなずいた。
今回こそ、一ノ瀬冷花に勝つ。
前回の数学の小テストでは、冷花が百点、颯真が九十九点だった。
たった一点。
けれど、その一点がどうしても悔しい。
しかも、冷花は間違えた箇所を指摘したうえで、こう言ったのだ。
『符号を確認すれば、満点だったと思います』
あの言葉を思い出すだけで、颯真は再び闘志を燃やした。
「次のテストでは、絶対に満点を取ってやる……!」
「お前、朝から何を燃えてるんだ?」
隣の席から、佐伯がのぞき込んできた。
「次の定期テストだ」
「へえ。勉強熱心だな」
「当たり前だろ。今回は一ノ瀬に勝つ」
「……ああ、そういうことね」
佐伯は納得したようにうなずいた。
「でも、お前、前回もかなり勉強してたよな?」
「だからこそ、今回はもっとやるんだ」
「一ノ瀬さんに教えてもらえば?」
「……は?」
颯真の手が止まった。
佐伯は、さも当然という顔で続ける。
「学年トップなんだから、教え方だってうまいかもしれないだろ。わからないところを聞けばいいじゃん」
「いや、あいつに教えてもらったら、勝負にならないだろ!」
「なんで?」
「なんでって……!」
颯真は言葉に詰まった。
冷花に勉強を教えてもらう。
それは、確かに合理的な方法だ。
しかし、相手は宿敵だ。
しかも最近は、顔を合わせるだけで妙に調子が狂う。
そんな相手と二人きりで勉強など、平常心を保てる自信がない。
「……自分の力で勝つんだよ」
「ふーん。じゃあ、わからないところがあっても、一人で悩むんだ?」
「そうは言ってないだろ!」
「なら、頼んでみれば?」
佐伯は笑いながら颯真の肩を叩いた。
「まあ、頑張れよ。学園一のイケメンくん」
「その呼び方、やめろ!」
◇
その日の放課後。
颯真は、いつものように生徒会室へ向かっていた。
文化祭の準備を手伝うためだ。
しかし、今日はもうひとつ、目的があった。
生徒会室の扉を開けると、冷花が机で書類を整理していた。
「一ノ瀬、今、いいか?」
「はい。どうしましたか?」
「ちょっと、頼みがあるんだけど……」
言いかけて、颯真は口を閉じた。
いざ本人を前にすると、妙に言い出しにくい。
冷花はペンを置き、まっすぐに彼を見つめた。
「何でしょうか?」
「……次の定期テストのことで」
「勉強について、ですか?」
「そうだ。実は、数学で少し確認したいところがあって……」
颯真は頭をかいた。
「もしよかったら、勉強を教えてもらえないか?」
言ってしまった。
冷花は一瞬、目を瞬かせた。
それから、すぐにうなずいた。
「もちろんです」
「……え?」
「私でよければ、お手伝いします」
「い、いいのか?」
「はい。わからないところを教え合うのは、よい勉強方法だと思います」
冷花は机の上の書類を片づけた。
「いつがよろしいですか?」
「えっと……明日の放課後とか?」
「わかりました。では、明日は図書室で勉強しましょう」
「……図書室?」
「生徒会室は文化祭の資料が多いので、集中しにくいと思います」
「そ、そうだな!」
颯真は内心で胸をなで下ろした。
二人きりではない。
図書室なら、ほかの生徒もいる。
これなら、いつもどおりに振る舞えるはずだ。
「では、明日。数学の問題集と、これまでのテストを持ってきてください」
「わかった!」
「楽しみにしています」
「……っ!」
冷花は何気なく言っただけだった。
しかし、颯真には、その一言が妙に強く響いた。
勉強会を楽しみにしている。
それは、つまり。
いや、違う。
相手は一ノ瀬冷花だ。
彼女にとっては、ただ勉強をすることが楽しみなだけだろう。
「……俺も、楽しみにしてる」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
冷花はうれしそうに微笑んだ。
「はい」
颯真は、その笑顔から目をそらした。
明日までに、数学の復習を完璧にしておこう。
彼は固く決意した。
勉強のために。
決して、それ以外の理由ではない。
◇
翌日、放課後。
図書室の窓際には、二人分の席が用意されていた。
「お待たせしました」
冷花がやってくると、颯真は背筋を伸ばした。
「いや、俺も今来たところだ」
「そうですか。では、始めましょう」
冷花は向かいの席に座り、問題集を開いた。
颯真も自分のノートを広げる。
「まず、どこがわからないのでしょうか?」
「この二次方程式の応用問題だな。式は立てられるんだけど、途中で計算が合わなくなるんだ」
「見せていただけますか?」
颯真がノートを差し出す。
冷花は計算式をじっと見つめた。
「……なるほど」
「何かわかったか?」
「はい。ここで、移項した際の符号が変わっていません」
「えっ?」
冷花はノートの一行を指で示した。
「この部分です。こちら側に移すとき、符号を反対にする必要があります」
「あ……本当だ」
「ここを直せば、その後の計算は合っています」
颯真は慌てて計算し直した。
すると、きれいに答えが出た。
「……すげえ。こんなところを見落としてたのか」
「計算そのものは正確です。焦らずに確認すれば、解ける問題だと思います」
「でも、テストだと時間が気になって焦るんだよな」
「でしたら、問題を解いたあと、最後に符号だけを確認する時間を設けてみてはどうでしょうか」
冷花はノートの端に、簡単なチェック項目を書いた。
「符号、単位、問題文への回答。この三点を確認するだけでも、失点を減らせると思います」
颯真は、そのメモを見つめた。
「……なるほどな」
冷花の説明は、驚くほどわかりやすかった。
ただ答えを教えるのではなく、どこで間違えたのか、どうすれば次に防げるのかまで考えてくれる。
「お前、教えるのもうまいんだな」
「ありがとうございます。神崎くんが、どこまで理解しているのかを確認しながら説明するようにしています」
「そこまで考えてるのか……」
「はい。理解できている部分まで説明すると、時間がもったいないですから」
「合理的だなあ……」
颯真は感心しながら、次の問題を開いた。
「よし。じゃあ、次はこれを解いてみる」
「どうぞ」
冷花は静かに見守った。
颯真は問題文を読み、式を立てる。
途中で手が止まりそうになるが、さっき教わったことを思い出して計算を続けた。
数分後。
「……できた!」
答えを書き終え、颯真は冷花にノートを見せた。
冷花は丁寧に確認し、うなずいた。
「正解です」
「よっしゃ!」
思わず声が大きくなった。
近くで勉強していた生徒が、こちらを振り向く。
「す、すみません……」
颯真は慌てて頭を下げた。
冷花は口元に手を添えた。
「ふふっ」
「……え?」
今、笑った。
確かに笑った。
しかも、いつもの静かな微笑みよりも、少し自然な笑い方だった。
「な、何だよ?」
「いえ。神崎くんが、とても喜んでいたので」
「そりゃ、正解したんだから当然だろ!」
「そうですね」
冷花は楽しそうにうなずいた。
「私も、うれしいです」
「……っ!」
颯真は問題集に顔を向けた。
駄目だ。
この人と勉強していると、どうしても調子が狂う。
しかも、教え方がうまいせいで、勉強自体はどんどん楽しくなっている。
悔しいが、佐伯の提案は正しかったらしい。
◇
それから一時間。
二人は数学の問題を中心に、黙々と勉強を進めた。
颯真が問題を解き、冷花が確認する。
間違えれば原因を探し、正解すれば次の問題へ進む。
冷花は決して颯真を急かさなかった。
わからない問題があれば、答えをすぐに教えるのではなく、考えるためのヒントを出してくれる。
そのおかげで、颯真は自分の力で解ける問題が増えていった。
「……一ノ瀬」
「はい?」
「お前、勉強してて疲れないのか?」
「どうしてですか?」
「いや、ずっと集中してるだろ。休憩とかしなくていいのか?」
「必要であれば取ります」
「じゃあ、今、休憩しようぜ」
颯真は問題集を閉じた。
「少し頭を休めたほうが、次の問題も解きやすいだろ?」
冷花は時計を確認した。
「……確かに、適度な休憩は集中力の維持に役立ちますね」
「だろ?」
「では、十分間、休憩にしましょう」
冷花は本を閉じた。
颯真は、ほっと息をついた。
「何か飲み物でも買ってくるか?」
「ありがとうございます。ですが、飲み物なら持っています」
冷花は鞄から、小さな水筒を取り出した。
「神崎くんは?」
「俺は自動販売機で買ってくるよ。何かいるか?」
「いえ、大丈夫です」
「そっか」
颯真は席を立とうとした。
そのとき、冷花が小さく声をかけた。
「……神崎くん」
「ん?」
「今日は、とても楽しいです」
颯真は動きを止めた。
「……勉強が?」
「はい。それもありますが」
冷花は少しだけ考えた。
「誰かと一緒に勉強するのは、思っていたより楽しいのですね」
その言葉に、颯真は胸の奥が温かくなるのを感じた。
冷花は、いつも一人で何でもこなしてしまう。
けれど、彼女が一人でいることを望んでいるとは限らない。
ただ、誰かと一緒に何かをする方法を、知らなかっただけなのかもしれない。
「……だろ?」
颯真は笑った。
「一人でやるのもいいけど、誰かと一緒にやると、違う考え方もわかるしな」
「はい。神崎くんの説明も、参考になります」
「俺の説明?」
「先ほどの応用問題です。神崎くんは、問題文を図に置き換えて考えていましたね。あの方法は、私も使ってみたいと思いました」
「……そんなところまで見てたのか」
「はい。勉強は、互いに学ぶことが大切だと思いますので」
冷花はまっすぐに答えた。
颯真は、思わず笑みをこぼした。
「……そうだな」
勝ち負けだけではない。
こうして一緒に勉強している時間も、悪くない。
むしろ、もう少し続けばいいと思ってしまう。
そんな自分の気持ちに、颯真はまだ気づかないふりをしていた。
◇
翌週。
定期テスト初日。
颯真は、いつもより落ち着いた様子で問題用紙を見つめていた。
数学の問題は、勉強会で解いたものと似た形式が多い。
焦らず、式を立てる。
途中の計算を確認する。
最後に、符号と答えを見直す。
冷花から教わった方法を思い出しながら、颯真は一問ずつ解いていった。
そして、試験終了のチャイムが鳴った。
「……よし!」
手応えは十分だった。
翌日も、その翌日も。
颯真は最後まで集中して試験を受けた。
そして、数日後。
数学の答案が返却された。
「神崎颯真」
先生に名前を呼ばれ、颯真は答案を受け取った。
点数を見た瞬間、目を見開いた。
「……百点!?」
答案用紙の右上には、赤い文字で百点と書かれていた。
念願の満点だった。
「よっしゃあああ!」
颯真は思わず立ち上がった。
「神崎くん、静かに!」
「あっ、すみません!」
先生に注意され、慌てて座る。
しかし、頬が緩むのを止められなかった。
ついにやった。
数学で、百点を取った。
これなら、冷花にも勝てるかもしれない。
いや、まだ油断はできない。
彼女も百点を取っている可能性がある。
颯真は、返却を待つ冷花の席を見た。
冷花は答案用紙を受け取り、静かに点数を確認していた。
表情は変わらない。
それが、かえって気になった。
放課後。
颯真は、答案用紙を持って冷花のもとへ向かった。
「一ノ瀬!」
「神崎くん。どうしましたか?」
「数学、百点だった!」
「おめでとうございます」
冷花はすぐに微笑んだ。
「勉強会の成果が出ましたね」
「ああ! お前が教えてくれたおかげだ!」
「いいえ。実際に努力したのは神崎くんです」
冷花は自分の答案用紙を机の上に置いた。
颯真は、思わずそこに目を向けた。
赤い文字で書かれた点数。
百点。
「……お前もか!」
「はい」
「また同点じゃないか!」
「そうですね」
冷花は少し考えたあと、穏やかに言った。
「ですが、今回は神崎くんが満点を取れたことが、何よりうれしいです」
「……え?」
「以前、神崎くんは九十九点でしたね。今回は、間違えずに最後まで解けました。努力が結果につながったのだと思います」
颯真は答案用紙を見つめた。
勝負には、勝てなかった。
けれど、以前よりも確実に成長できた。
そして、それを冷花が認めてくれた。
「……次は、絶対に俺が勝つからな」
颯真が言うと、冷花はうれしそうにうなずいた。
「はい。楽しみにしています」
それから、少しだけ声を和らげた。
「また、一緒に勉強しましょう」
颯真は、思わず笑った。
「ああ!」
その返事は、今までのどの勝負のときよりも、晴れやかなものだった。
◇
その日の帰り道。
颯真は佐伯と並んで歩いていた。
「で、数学は百点だったんだって?」
「ああ!」
「すごいじゃん。ついにやったな!」
「まあな!」
颯真は誇らしげに胸を張った。
しかし、佐伯はすぐににやりと笑った。
「でも、一ノ瀬さんも百点だったんだろ?」
「……そうだけど」
「結局、勝負は引き分けか」
「うるさい!」
「それで、また一緒に勉強する約束をしたんだって?」
「な、なんで知ってるんだ!」
「さっき一ノ瀬さんが教えてくれた」
「いつの間に!?」
佐伯は肩をすくめた。
「いやあ、よかったな。これでまた一ノ瀬さんと一緒にいられるぞ」
「……だから、そういう意味じゃない!」
「はいはい」
颯真は、ため息をついた。
否定したい。
けれど、冷花と一緒に勉強することが楽しみなのは、本当だった。
彼女の知らない一面を知るたびに、もっと話したいと思ってしまう。
自分の考えを認めてもらえると、もっと頑張りたくなる。
そして、彼女が笑うと――。
「……ああ、もう!」
「何だよ、急に」
「何でもない!」
颯真は歩く速度を上げた。
佐伯は、そんな友人の背中を見ながら、楽しそうに笑った。
「……こりゃ、時間の問題だな」
◇
一方、その頃。
自宅で答案用紙を整理していた冷花は、数学の勉強会で使ったノートを開いていた。
そこには、颯真が解いた問題の記録が残っている。
最初は間違えていた問題。
何度も考え直して、最後には正解した問題。
その横には、冷花自身の字で短い感想が書かれていた。
『神崎くんは、諦めずに考え続けることができる』
冷花は、その一文を見つめた。
「……私も、見習わなければなりませんね」
彼女はノートを閉じた。
学園の女王と呼ばれる自分にも、まだ知らないことがある。
誰かと一緒に努力する楽しさ。
自分とは違う考え方を受け入れること。
そして、誰かの成長を、自分のことのようにうれしく思う気持ち。
冷花は窓の外を見た。
次に颯真と会うのは、明日の学校だ。
「……明日も、楽しみです」
その言葉を口にしたあと、冷花は少しだけ不思議そうに首をかしげた。
勉強の予定があるから、楽しみなのだろうか。
それとも。
神崎颯真と会えるから、楽しみなのだろうか。
彼女には、まだ答えがわからなかった。
私立星蘭学園の教室では、少しずつ勉強の話題が増え始めていた。
「今回の数学、範囲が広すぎないか?」
「英語もやばいって。先生、絶対に難しい問題を出す気だよ」
「一ノ瀬さんは、今回も学年一位なんだろうな……」
そんな会話を聞きながら、神崎颯真は机に向かっていた。
目の前には、数学の問題集。
ノートには計算式がびっしりと書かれている。
「……よし。これならいける」
颯真は最後の答えを書き込み、満足げにうなずいた。
今回こそ、一ノ瀬冷花に勝つ。
前回の数学の小テストでは、冷花が百点、颯真が九十九点だった。
たった一点。
けれど、その一点がどうしても悔しい。
しかも、冷花は間違えた箇所を指摘したうえで、こう言ったのだ。
『符号を確認すれば、満点だったと思います』
あの言葉を思い出すだけで、颯真は再び闘志を燃やした。
「次のテストでは、絶対に満点を取ってやる……!」
「お前、朝から何を燃えてるんだ?」
隣の席から、佐伯がのぞき込んできた。
「次の定期テストだ」
「へえ。勉強熱心だな」
「当たり前だろ。今回は一ノ瀬に勝つ」
「……ああ、そういうことね」
佐伯は納得したようにうなずいた。
「でも、お前、前回もかなり勉強してたよな?」
「だからこそ、今回はもっとやるんだ」
「一ノ瀬さんに教えてもらえば?」
「……は?」
颯真の手が止まった。
佐伯は、さも当然という顔で続ける。
「学年トップなんだから、教え方だってうまいかもしれないだろ。わからないところを聞けばいいじゃん」
「いや、あいつに教えてもらったら、勝負にならないだろ!」
「なんで?」
「なんでって……!」
颯真は言葉に詰まった。
冷花に勉強を教えてもらう。
それは、確かに合理的な方法だ。
しかし、相手は宿敵だ。
しかも最近は、顔を合わせるだけで妙に調子が狂う。
そんな相手と二人きりで勉強など、平常心を保てる自信がない。
「……自分の力で勝つんだよ」
「ふーん。じゃあ、わからないところがあっても、一人で悩むんだ?」
「そうは言ってないだろ!」
「なら、頼んでみれば?」
佐伯は笑いながら颯真の肩を叩いた。
「まあ、頑張れよ。学園一のイケメンくん」
「その呼び方、やめろ!」
◇
その日の放課後。
颯真は、いつものように生徒会室へ向かっていた。
文化祭の準備を手伝うためだ。
しかし、今日はもうひとつ、目的があった。
生徒会室の扉を開けると、冷花が机で書類を整理していた。
「一ノ瀬、今、いいか?」
「はい。どうしましたか?」
「ちょっと、頼みがあるんだけど……」
言いかけて、颯真は口を閉じた。
いざ本人を前にすると、妙に言い出しにくい。
冷花はペンを置き、まっすぐに彼を見つめた。
「何でしょうか?」
「……次の定期テストのことで」
「勉強について、ですか?」
「そうだ。実は、数学で少し確認したいところがあって……」
颯真は頭をかいた。
「もしよかったら、勉強を教えてもらえないか?」
言ってしまった。
冷花は一瞬、目を瞬かせた。
それから、すぐにうなずいた。
「もちろんです」
「……え?」
「私でよければ、お手伝いします」
「い、いいのか?」
「はい。わからないところを教え合うのは、よい勉強方法だと思います」
冷花は机の上の書類を片づけた。
「いつがよろしいですか?」
「えっと……明日の放課後とか?」
「わかりました。では、明日は図書室で勉強しましょう」
「……図書室?」
「生徒会室は文化祭の資料が多いので、集中しにくいと思います」
「そ、そうだな!」
颯真は内心で胸をなで下ろした。
二人きりではない。
図書室なら、ほかの生徒もいる。
これなら、いつもどおりに振る舞えるはずだ。
「では、明日。数学の問題集と、これまでのテストを持ってきてください」
「わかった!」
「楽しみにしています」
「……っ!」
冷花は何気なく言っただけだった。
しかし、颯真には、その一言が妙に強く響いた。
勉強会を楽しみにしている。
それは、つまり。
いや、違う。
相手は一ノ瀬冷花だ。
彼女にとっては、ただ勉強をすることが楽しみなだけだろう。
「……俺も、楽しみにしてる」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
冷花はうれしそうに微笑んだ。
「はい」
颯真は、その笑顔から目をそらした。
明日までに、数学の復習を完璧にしておこう。
彼は固く決意した。
勉強のために。
決して、それ以外の理由ではない。
◇
翌日、放課後。
図書室の窓際には、二人分の席が用意されていた。
「お待たせしました」
冷花がやってくると、颯真は背筋を伸ばした。
「いや、俺も今来たところだ」
「そうですか。では、始めましょう」
冷花は向かいの席に座り、問題集を開いた。
颯真も自分のノートを広げる。
「まず、どこがわからないのでしょうか?」
「この二次方程式の応用問題だな。式は立てられるんだけど、途中で計算が合わなくなるんだ」
「見せていただけますか?」
颯真がノートを差し出す。
冷花は計算式をじっと見つめた。
「……なるほど」
「何かわかったか?」
「はい。ここで、移項した際の符号が変わっていません」
「えっ?」
冷花はノートの一行を指で示した。
「この部分です。こちら側に移すとき、符号を反対にする必要があります」
「あ……本当だ」
「ここを直せば、その後の計算は合っています」
颯真は慌てて計算し直した。
すると、きれいに答えが出た。
「……すげえ。こんなところを見落としてたのか」
「計算そのものは正確です。焦らずに確認すれば、解ける問題だと思います」
「でも、テストだと時間が気になって焦るんだよな」
「でしたら、問題を解いたあと、最後に符号だけを確認する時間を設けてみてはどうでしょうか」
冷花はノートの端に、簡単なチェック項目を書いた。
「符号、単位、問題文への回答。この三点を確認するだけでも、失点を減らせると思います」
颯真は、そのメモを見つめた。
「……なるほどな」
冷花の説明は、驚くほどわかりやすかった。
ただ答えを教えるのではなく、どこで間違えたのか、どうすれば次に防げるのかまで考えてくれる。
「お前、教えるのもうまいんだな」
「ありがとうございます。神崎くんが、どこまで理解しているのかを確認しながら説明するようにしています」
「そこまで考えてるのか……」
「はい。理解できている部分まで説明すると、時間がもったいないですから」
「合理的だなあ……」
颯真は感心しながら、次の問題を開いた。
「よし。じゃあ、次はこれを解いてみる」
「どうぞ」
冷花は静かに見守った。
颯真は問題文を読み、式を立てる。
途中で手が止まりそうになるが、さっき教わったことを思い出して計算を続けた。
数分後。
「……できた!」
答えを書き終え、颯真は冷花にノートを見せた。
冷花は丁寧に確認し、うなずいた。
「正解です」
「よっしゃ!」
思わず声が大きくなった。
近くで勉強していた生徒が、こちらを振り向く。
「す、すみません……」
颯真は慌てて頭を下げた。
冷花は口元に手を添えた。
「ふふっ」
「……え?」
今、笑った。
確かに笑った。
しかも、いつもの静かな微笑みよりも、少し自然な笑い方だった。
「な、何だよ?」
「いえ。神崎くんが、とても喜んでいたので」
「そりゃ、正解したんだから当然だろ!」
「そうですね」
冷花は楽しそうにうなずいた。
「私も、うれしいです」
「……っ!」
颯真は問題集に顔を向けた。
駄目だ。
この人と勉強していると、どうしても調子が狂う。
しかも、教え方がうまいせいで、勉強自体はどんどん楽しくなっている。
悔しいが、佐伯の提案は正しかったらしい。
◇
それから一時間。
二人は数学の問題を中心に、黙々と勉強を進めた。
颯真が問題を解き、冷花が確認する。
間違えれば原因を探し、正解すれば次の問題へ進む。
冷花は決して颯真を急かさなかった。
わからない問題があれば、答えをすぐに教えるのではなく、考えるためのヒントを出してくれる。
そのおかげで、颯真は自分の力で解ける問題が増えていった。
「……一ノ瀬」
「はい?」
「お前、勉強してて疲れないのか?」
「どうしてですか?」
「いや、ずっと集中してるだろ。休憩とかしなくていいのか?」
「必要であれば取ります」
「じゃあ、今、休憩しようぜ」
颯真は問題集を閉じた。
「少し頭を休めたほうが、次の問題も解きやすいだろ?」
冷花は時計を確認した。
「……確かに、適度な休憩は集中力の維持に役立ちますね」
「だろ?」
「では、十分間、休憩にしましょう」
冷花は本を閉じた。
颯真は、ほっと息をついた。
「何か飲み物でも買ってくるか?」
「ありがとうございます。ですが、飲み物なら持っています」
冷花は鞄から、小さな水筒を取り出した。
「神崎くんは?」
「俺は自動販売機で買ってくるよ。何かいるか?」
「いえ、大丈夫です」
「そっか」
颯真は席を立とうとした。
そのとき、冷花が小さく声をかけた。
「……神崎くん」
「ん?」
「今日は、とても楽しいです」
颯真は動きを止めた。
「……勉強が?」
「はい。それもありますが」
冷花は少しだけ考えた。
「誰かと一緒に勉強するのは、思っていたより楽しいのですね」
その言葉に、颯真は胸の奥が温かくなるのを感じた。
冷花は、いつも一人で何でもこなしてしまう。
けれど、彼女が一人でいることを望んでいるとは限らない。
ただ、誰かと一緒に何かをする方法を、知らなかっただけなのかもしれない。
「……だろ?」
颯真は笑った。
「一人でやるのもいいけど、誰かと一緒にやると、違う考え方もわかるしな」
「はい。神崎くんの説明も、参考になります」
「俺の説明?」
「先ほどの応用問題です。神崎くんは、問題文を図に置き換えて考えていましたね。あの方法は、私も使ってみたいと思いました」
「……そんなところまで見てたのか」
「はい。勉強は、互いに学ぶことが大切だと思いますので」
冷花はまっすぐに答えた。
颯真は、思わず笑みをこぼした。
「……そうだな」
勝ち負けだけではない。
こうして一緒に勉強している時間も、悪くない。
むしろ、もう少し続けばいいと思ってしまう。
そんな自分の気持ちに、颯真はまだ気づかないふりをしていた。
◇
翌週。
定期テスト初日。
颯真は、いつもより落ち着いた様子で問題用紙を見つめていた。
数学の問題は、勉強会で解いたものと似た形式が多い。
焦らず、式を立てる。
途中の計算を確認する。
最後に、符号と答えを見直す。
冷花から教わった方法を思い出しながら、颯真は一問ずつ解いていった。
そして、試験終了のチャイムが鳴った。
「……よし!」
手応えは十分だった。
翌日も、その翌日も。
颯真は最後まで集中して試験を受けた。
そして、数日後。
数学の答案が返却された。
「神崎颯真」
先生に名前を呼ばれ、颯真は答案を受け取った。
点数を見た瞬間、目を見開いた。
「……百点!?」
答案用紙の右上には、赤い文字で百点と書かれていた。
念願の満点だった。
「よっしゃあああ!」
颯真は思わず立ち上がった。
「神崎くん、静かに!」
「あっ、すみません!」
先生に注意され、慌てて座る。
しかし、頬が緩むのを止められなかった。
ついにやった。
数学で、百点を取った。
これなら、冷花にも勝てるかもしれない。
いや、まだ油断はできない。
彼女も百点を取っている可能性がある。
颯真は、返却を待つ冷花の席を見た。
冷花は答案用紙を受け取り、静かに点数を確認していた。
表情は変わらない。
それが、かえって気になった。
放課後。
颯真は、答案用紙を持って冷花のもとへ向かった。
「一ノ瀬!」
「神崎くん。どうしましたか?」
「数学、百点だった!」
「おめでとうございます」
冷花はすぐに微笑んだ。
「勉強会の成果が出ましたね」
「ああ! お前が教えてくれたおかげだ!」
「いいえ。実際に努力したのは神崎くんです」
冷花は自分の答案用紙を机の上に置いた。
颯真は、思わずそこに目を向けた。
赤い文字で書かれた点数。
百点。
「……お前もか!」
「はい」
「また同点じゃないか!」
「そうですね」
冷花は少し考えたあと、穏やかに言った。
「ですが、今回は神崎くんが満点を取れたことが、何よりうれしいです」
「……え?」
「以前、神崎くんは九十九点でしたね。今回は、間違えずに最後まで解けました。努力が結果につながったのだと思います」
颯真は答案用紙を見つめた。
勝負には、勝てなかった。
けれど、以前よりも確実に成長できた。
そして、それを冷花が認めてくれた。
「……次は、絶対に俺が勝つからな」
颯真が言うと、冷花はうれしそうにうなずいた。
「はい。楽しみにしています」
それから、少しだけ声を和らげた。
「また、一緒に勉強しましょう」
颯真は、思わず笑った。
「ああ!」
その返事は、今までのどの勝負のときよりも、晴れやかなものだった。
◇
その日の帰り道。
颯真は佐伯と並んで歩いていた。
「で、数学は百点だったんだって?」
「ああ!」
「すごいじゃん。ついにやったな!」
「まあな!」
颯真は誇らしげに胸を張った。
しかし、佐伯はすぐににやりと笑った。
「でも、一ノ瀬さんも百点だったんだろ?」
「……そうだけど」
「結局、勝負は引き分けか」
「うるさい!」
「それで、また一緒に勉強する約束をしたんだって?」
「な、なんで知ってるんだ!」
「さっき一ノ瀬さんが教えてくれた」
「いつの間に!?」
佐伯は肩をすくめた。
「いやあ、よかったな。これでまた一ノ瀬さんと一緒にいられるぞ」
「……だから、そういう意味じゃない!」
「はいはい」
颯真は、ため息をついた。
否定したい。
けれど、冷花と一緒に勉強することが楽しみなのは、本当だった。
彼女の知らない一面を知るたびに、もっと話したいと思ってしまう。
自分の考えを認めてもらえると、もっと頑張りたくなる。
そして、彼女が笑うと――。
「……ああ、もう!」
「何だよ、急に」
「何でもない!」
颯真は歩く速度を上げた。
佐伯は、そんな友人の背中を見ながら、楽しそうに笑った。
「……こりゃ、時間の問題だな」
◇
一方、その頃。
自宅で答案用紙を整理していた冷花は、数学の勉強会で使ったノートを開いていた。
そこには、颯真が解いた問題の記録が残っている。
最初は間違えていた問題。
何度も考え直して、最後には正解した問題。
その横には、冷花自身の字で短い感想が書かれていた。
『神崎くんは、諦めずに考え続けることができる』
冷花は、その一文を見つめた。
「……私も、見習わなければなりませんね」
彼女はノートを閉じた。
学園の女王と呼ばれる自分にも、まだ知らないことがある。
誰かと一緒に努力する楽しさ。
自分とは違う考え方を受け入れること。
そして、誰かの成長を、自分のことのようにうれしく思う気持ち。
冷花は窓の外を見た。
次に颯真と会うのは、明日の学校だ。
「……明日も、楽しみです」
その言葉を口にしたあと、冷花は少しだけ不思議そうに首をかしげた。
勉強の予定があるから、楽しみなのだろうか。
それとも。
神崎颯真と会えるから、楽しみなのだろうか。
彼女には、まだ答えがわからなかった。



