私立星蘭学園には、女子生徒たちの間で密かに語られるランキングがある。
学園で一番かっこいい男子は誰か。
その答えは、ほぼ満場一致で決まっていた。
神崎颯真。
整った顔立ちに、すらりとした長身。成績優秀、運動神経抜群。人当たりもよく、誰にでも気さくに話しかける。
本人にその自覚があるかどうかはともかく、彼が歩けば女子生徒たちの視線が集まる。
そんな颯真には、誰にも知られたくない弱点があった。
「お前、絶対に一ノ瀬さんのこと好きだろ」
「はあ!?」
朝の教室。
友人の佐伯から突然そう告げられ、颯真は飲んでいた牛乳を吹き出しそうになった。
「な、何を言ってるんだ、お前!」
「いや、だってさ。最近のお前、明らかにおかしいじゃん」
「どこがおかしい!」
「まず、放課後は毎日のように生徒会室に行ってる」
「文化祭の準備を手伝ってるだけだ!」
「昨日なんか、一ノ瀬さんからメッセージが来ただけで、スマホを見ながらニヤニヤしてたぞ」
「ニヤニヤなんかしてない!」
「じゃあ、そのスマホの待ち受けを見せてみろよ」
「なんでだよ!」
佐伯は机に肘をつき、にやにやと笑った。
「それに、最近は一ノ瀬さんの話ばっかりだ」
「……そうか?」
「そうだよ。『一ノ瀬は料理も完璧なんだ』とか、『一ノ瀬は意外と素直なんだ』とか、『一ノ瀬は笑うと……』」
「待て! 最後のは言ってない!」
「言いかけたな?」
「言ってない!」
佐伯は声を上げて笑った。
「いやあ、まさか学園一のイケメンが、学園一の女王に恋するとはなあ」
「だから、違うって言ってるだろ!」
颯真は顔を赤くしながら机を叩いた。
そもそも、自分は冷花に勝ちたいだけなのだ。
数学でも、運動でも、料理でも。
何をやっても負けてしまうから、次こそは勝とうと努力している。
それだけだ。
それ以上の意味なんてない。
……ないはずだった。
「じゃあ、質問だ」
佐伯が人差し指を立てた。
「一ノ瀬さんが、ほかの男子と仲よく話してたらどう思う?」
「別に」
「一ノ瀬さんが、ほかの男子に料理を教えてたら?」
「……別に」
「一ノ瀬さんが、ほかの男子に『あなたが来てくれてよかったです』って言ったら?」
「……それは」
颯真は言葉に詰まった。
頭の中に、昨日の冷花の顔が浮かぶ。
いつも冷静な彼女が、ほんの少しだけ表情を和らげて、自分に言った言葉。
『あなたが来てくれて、よかったです』
思い出しただけで、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。
佐伯が、にやりと笑う。
「ほらな」
「……うるさい」
「図星か?」
「違う!」
「じゃあ、なんで耳まで赤いんだ?」
「暑いんだよ!」
「今日は涼しいけどな」
「そのやり取り、昨日もしたぞ!」
颯真が叫んだところで、教室の扉が開いた。
「おはようございます」
落ち着いた声が響く。
教室に入ってきたのは、一ノ瀬冷花だった。
その瞬間、ざわついていた教室が静かになった。
「お、おはようございます、一ノ瀬さん!」
「今日もお美しい……」
「今、こっちを見なかったか?」
冷花は周囲の声に特別な反応を示さず、自分の席へ向かう。
そして、途中で颯真の机の前に立ち止まった。
「神崎くん」
「お、おう!」
颯真の返事が、妙に裏返った。
佐伯が机の下で、颯真の足を軽く蹴る。
「何だよ……!」
「いえ、昨日の文化祭準備について、確認したいことがありまして」
「あ、ああ。何でも聞いてくれ!」
「ありがとうございます。では、昼休みに少しお時間をいただけますか?」
「もちろんだ!」
即答だった。
冷花は満足そうにうなずいた。
「助かります。それでは、よろしくお願いします」
そう言って立ち去る。
颯真は、その背中を見送った。
佐伯が、そっと耳元でささやく。
「……今の返事、めちゃくちゃうれしそうだったぞ」
「うるさい!」
◇
昼休み。
颯真が生徒会室へ向かうと、冷花はすでに机の上に書類を広げていた。
「来てくれてありがとうございます」
「いや、別に。何を確認するんだ?」
「文化祭の企画についてです。昨日、各クラスから追加の希望が届きました」
冷花は書類を一枚、颯真に渡した。
「こちらの二年三組ですが、展示に必要な備品が予定より増えています。一方、二年五組は当初の希望より少ない数で問題ないそうです」
「なるほど。じゃあ、余った分を三組に回せばいいんじゃないか?」
「その案も考えました。ただ、運搬の都合で、備品の配置を変更する必要があります」
「なら、配置図も見直せばいい。こっちの通路を少し広げれば、運びやすくなるんじゃないか?」
颯真は配置図を指でなぞった。
「それに、五組の展示は教室の後ろ側を使う予定だろ? 備品が減るなら、空いた場所に来場者の休憩スペースを作れるかもしれない」
冷花は配置図を見つめた。
そして、メモ帳に素早く書き込む。
「……確かに、その方法なら移動距離を短縮できます。休憩スペースについても、検討する価値がありますね」
「だろ?」
「神崎くんは、こういう調整が得意なのですね」
「得意ってほどじゃないけど。全体を見て、使えそうなものを組み合わせてるだけだよ」
冷花は感心したようにうなずいた。
「私一人では、思いつかなかったかもしれません」
「……え?」
颯真は手を止めた。
「今、何て?」
「私一人では思いつかなかったかもしれない、と申し上げました」
「いや、聞こえてたけど……」
「何か問題がありましたか?」
「いや、ない! 全然ない!」
颯真は慌てて首を振った。
冷花が、自分の考えを認めてくれた。
それだけで、どうしてこんなにうれしいのだろう。
彼女は普段から誰に対しても公平だ。
優れている点があれば、相手が誰であろうと正当に評価する。
だから、特別な意味などない。
それでも。
「……もっと、いろいろ考えてみるよ」
「期待しています」
冷花が微笑んだ。
颯真は思わず、書類に視線を落とした。
まずい。
このままでは、また顔が赤くなってしまう。
自分は学園一のイケメンと呼ばれている男だ。
女子生徒に褒められたくらいで動揺していては、格好がつかない。
しかも、相手は宿敵の一ノ瀬冷花。
絶対に、意識しているなどと思われてはいけない。
「神崎くん?」
「な、何でもない!」
「まだ何も尋ねていませんが……」
「とにかく、次の書類を見せてくれ!」
「はい。では、こちらをお願いします」
冷花は素直に次の書類を差し出した。
颯真は心の中で叫んだ。
誰か、この状況を何とかしてくれ。
◇
放課後。
文化祭の準備が一段落すると、冷花は机の上の書類をまとめた。
「本日は、ここまでにしましょう」
「お、もう終わりか?」
「はい。神崎くんのおかげで、予定より早く進みました」
「そ、そうか」
「ありがとうございます」
冷花は、丁寧に頭を下げた。
颯真は慌てて手を振った。
「いいって。俺も楽しかったし」
「楽しかった、ですか?」
「え?」
「仕事を手伝うことが、楽しかったのですか?」
冷花は不思議そうに尋ねた。
「……まあ、そうだな。自分の考えたことが役に立つと、うれしいだろ?」
「そういうものなのですね」
「お前は違うのか?」
「私は、仕事が予定どおりに終わるとうれしいです」
「いや、それもわかるけどさ……」
颯真は少し考えた。
「誰かと一緒にやるから楽しい、ってこともあるんじゃないか?」
「誰かと一緒に……」
冷花は、その言葉をゆっくりと繰り返した。
「私は、あまり考えたことがありませんでした」
「そうなのか?」
「はい。これまでは、一人で進めたほうが効率的だと思っていましたから」
颯真は、彼女の横顔を見つめた。
完璧な生徒会長。
学園の誰もが一目置く女王。
けれど、彼女はまだ知らないことがある。
誰かと一緒に何かをする楽しさも。
失敗を笑い合うことも。
自分の知らない考えを教えてもらうことも。
「……じゃあ、これから覚えていけばいいだろ」
颯真が言うと、冷花は彼を見た。
「神崎くんと一緒なら、覚えられるでしょうか?」
「……っ!」
不意打ちだった。
あまりにも自然な口調で、そんなことを言うものだから。
颯真の頭の中が、一瞬で真っ白になった。
「か、神崎くん?」
「……ああ、覚えられる! 絶対に!」
思わず大声で答えてしまった。
冷花は少し驚いたあと、微笑んだ。
「ありがとうございます。では、これからもよろしくお願いします」
「お、おう!」
颯真は顔をそらした。
もう駄目だ。
この人は、自分がどれだけ危険なことを言っているのか、まったく理解していない。
◇
その夜。
颯真は自室のベッドに寝転び、スマートフォンを眺めていた。
画面には、冷花とのメッセージのやり取りが表示されている。
『本日はありがとうございました』
『こちらこそ。明日も手伝えるぞ』
『ありがとうございます。ですが、神崎くんも休息を取ってくださいね』
『わかってるって』
『それなら安心しました』
たったそれだけのやり取りだ。
特別な言葉など、何もない。
それなのに、颯真は何度も読み返してしまう。
「……何やってんだ、俺」
スマートフォンを伏せた。
数秒後、また手に取った。
新しいメッセージは届いていない。
当然だ。
もう夜なのだから。
颯真は枕に顔を埋めた。
「……好きなわけ、ないだろ」
誰に言い訳しているのか、自分でもわからなかった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、冷花から新しいメッセージが届いていた。
『そういえば、ひとつ質問があります』
颯真は飛び起きた。
『何だ?』
すぐに返信すると、間を置かずに返事が来た。
『神崎くんは、どうして私に勝ちたいのですか?』
「……え?」
颯真は画面を見つめた。
それは、何度も聞かれた質問だった。
最初は、単純に負けるのが嫌だったから。
何でもできる冷花に勝てば、自分の実力を証明できると思っていた。
けれど、今は少し違う。
勝負に負けても、冷花と話す時間が増えるのはうれしい。
自分の考えを認めてもらえると、もっと頑張ろうと思える。
彼女が笑えば、また見たいと思ってしまう。
そんなことを、どう説明すればいいのだろう。
颯真はしばらく悩み、ようやく文字を打った。
『お前が相手だからだよ』
送信。
その瞬間、颯真はベッドの上で固まった。
「……いや、待て。これじゃ、どういう意味にも取れるだろ!」
慌てて訂正しようとしたが、すぐに返信が届いた。
『私が相手だから、ですか』
『はい。わかりました』
『では、これからも神崎くんに負けないよう、努力しますね』
颯真は、ゆっくりとスマートフォンを胸元に下ろした。
「……あいつ、本当にわかってるのか?」
もちろん、冷花は颯真の言葉を恋愛的な意味では受け取っていない。
彼女にとって颯真は、自分に遠慮なく意見を言ってくれる、貴重な挑戦者だ。
けれど。
その挑戦者が、ほかの誰とも違う存在になりつつあることを、冷花自身もまだ知らなかった。
同じ頃。
自室でメッセージを読み返していた冷花は、小さくつぶやいた。
「……神崎くんが相手だから、ですか」
彼女はメモ帳を開いた。
そこには、文化祭の準備についての記録が並んでいる。
その最後に、今日の気づきを書き加えた。
『神崎くんと一緒に仕事をすると、予定より楽しく感じる』
書き終えた冷花は、しばらくその文章を見つめた。
そして、静かにペンを置いた。
「……不思議ですね」
窓の外には、星が輝いていた。
学園一のイケメンの弱点。
それは、どんな勝負にも負けたくないはずなのに、一ノ瀬冷花の笑顔には、どうしても勝てないことだった。
学園で一番かっこいい男子は誰か。
その答えは、ほぼ満場一致で決まっていた。
神崎颯真。
整った顔立ちに、すらりとした長身。成績優秀、運動神経抜群。人当たりもよく、誰にでも気さくに話しかける。
本人にその自覚があるかどうかはともかく、彼が歩けば女子生徒たちの視線が集まる。
そんな颯真には、誰にも知られたくない弱点があった。
「お前、絶対に一ノ瀬さんのこと好きだろ」
「はあ!?」
朝の教室。
友人の佐伯から突然そう告げられ、颯真は飲んでいた牛乳を吹き出しそうになった。
「な、何を言ってるんだ、お前!」
「いや、だってさ。最近のお前、明らかにおかしいじゃん」
「どこがおかしい!」
「まず、放課後は毎日のように生徒会室に行ってる」
「文化祭の準備を手伝ってるだけだ!」
「昨日なんか、一ノ瀬さんからメッセージが来ただけで、スマホを見ながらニヤニヤしてたぞ」
「ニヤニヤなんかしてない!」
「じゃあ、そのスマホの待ち受けを見せてみろよ」
「なんでだよ!」
佐伯は机に肘をつき、にやにやと笑った。
「それに、最近は一ノ瀬さんの話ばっかりだ」
「……そうか?」
「そうだよ。『一ノ瀬は料理も完璧なんだ』とか、『一ノ瀬は意外と素直なんだ』とか、『一ノ瀬は笑うと……』」
「待て! 最後のは言ってない!」
「言いかけたな?」
「言ってない!」
佐伯は声を上げて笑った。
「いやあ、まさか学園一のイケメンが、学園一の女王に恋するとはなあ」
「だから、違うって言ってるだろ!」
颯真は顔を赤くしながら机を叩いた。
そもそも、自分は冷花に勝ちたいだけなのだ。
数学でも、運動でも、料理でも。
何をやっても負けてしまうから、次こそは勝とうと努力している。
それだけだ。
それ以上の意味なんてない。
……ないはずだった。
「じゃあ、質問だ」
佐伯が人差し指を立てた。
「一ノ瀬さんが、ほかの男子と仲よく話してたらどう思う?」
「別に」
「一ノ瀬さんが、ほかの男子に料理を教えてたら?」
「……別に」
「一ノ瀬さんが、ほかの男子に『あなたが来てくれてよかったです』って言ったら?」
「……それは」
颯真は言葉に詰まった。
頭の中に、昨日の冷花の顔が浮かぶ。
いつも冷静な彼女が、ほんの少しだけ表情を和らげて、自分に言った言葉。
『あなたが来てくれて、よかったです』
思い出しただけで、胸の奥が妙に落ち着かなくなった。
佐伯が、にやりと笑う。
「ほらな」
「……うるさい」
「図星か?」
「違う!」
「じゃあ、なんで耳まで赤いんだ?」
「暑いんだよ!」
「今日は涼しいけどな」
「そのやり取り、昨日もしたぞ!」
颯真が叫んだところで、教室の扉が開いた。
「おはようございます」
落ち着いた声が響く。
教室に入ってきたのは、一ノ瀬冷花だった。
その瞬間、ざわついていた教室が静かになった。
「お、おはようございます、一ノ瀬さん!」
「今日もお美しい……」
「今、こっちを見なかったか?」
冷花は周囲の声に特別な反応を示さず、自分の席へ向かう。
そして、途中で颯真の机の前に立ち止まった。
「神崎くん」
「お、おう!」
颯真の返事が、妙に裏返った。
佐伯が机の下で、颯真の足を軽く蹴る。
「何だよ……!」
「いえ、昨日の文化祭準備について、確認したいことがありまして」
「あ、ああ。何でも聞いてくれ!」
「ありがとうございます。では、昼休みに少しお時間をいただけますか?」
「もちろんだ!」
即答だった。
冷花は満足そうにうなずいた。
「助かります。それでは、よろしくお願いします」
そう言って立ち去る。
颯真は、その背中を見送った。
佐伯が、そっと耳元でささやく。
「……今の返事、めちゃくちゃうれしそうだったぞ」
「うるさい!」
◇
昼休み。
颯真が生徒会室へ向かうと、冷花はすでに机の上に書類を広げていた。
「来てくれてありがとうございます」
「いや、別に。何を確認するんだ?」
「文化祭の企画についてです。昨日、各クラスから追加の希望が届きました」
冷花は書類を一枚、颯真に渡した。
「こちらの二年三組ですが、展示に必要な備品が予定より増えています。一方、二年五組は当初の希望より少ない数で問題ないそうです」
「なるほど。じゃあ、余った分を三組に回せばいいんじゃないか?」
「その案も考えました。ただ、運搬の都合で、備品の配置を変更する必要があります」
「なら、配置図も見直せばいい。こっちの通路を少し広げれば、運びやすくなるんじゃないか?」
颯真は配置図を指でなぞった。
「それに、五組の展示は教室の後ろ側を使う予定だろ? 備品が減るなら、空いた場所に来場者の休憩スペースを作れるかもしれない」
冷花は配置図を見つめた。
そして、メモ帳に素早く書き込む。
「……確かに、その方法なら移動距離を短縮できます。休憩スペースについても、検討する価値がありますね」
「だろ?」
「神崎くんは、こういう調整が得意なのですね」
「得意ってほどじゃないけど。全体を見て、使えそうなものを組み合わせてるだけだよ」
冷花は感心したようにうなずいた。
「私一人では、思いつかなかったかもしれません」
「……え?」
颯真は手を止めた。
「今、何て?」
「私一人では思いつかなかったかもしれない、と申し上げました」
「いや、聞こえてたけど……」
「何か問題がありましたか?」
「いや、ない! 全然ない!」
颯真は慌てて首を振った。
冷花が、自分の考えを認めてくれた。
それだけで、どうしてこんなにうれしいのだろう。
彼女は普段から誰に対しても公平だ。
優れている点があれば、相手が誰であろうと正当に評価する。
だから、特別な意味などない。
それでも。
「……もっと、いろいろ考えてみるよ」
「期待しています」
冷花が微笑んだ。
颯真は思わず、書類に視線を落とした。
まずい。
このままでは、また顔が赤くなってしまう。
自分は学園一のイケメンと呼ばれている男だ。
女子生徒に褒められたくらいで動揺していては、格好がつかない。
しかも、相手は宿敵の一ノ瀬冷花。
絶対に、意識しているなどと思われてはいけない。
「神崎くん?」
「な、何でもない!」
「まだ何も尋ねていませんが……」
「とにかく、次の書類を見せてくれ!」
「はい。では、こちらをお願いします」
冷花は素直に次の書類を差し出した。
颯真は心の中で叫んだ。
誰か、この状況を何とかしてくれ。
◇
放課後。
文化祭の準備が一段落すると、冷花は机の上の書類をまとめた。
「本日は、ここまでにしましょう」
「お、もう終わりか?」
「はい。神崎くんのおかげで、予定より早く進みました」
「そ、そうか」
「ありがとうございます」
冷花は、丁寧に頭を下げた。
颯真は慌てて手を振った。
「いいって。俺も楽しかったし」
「楽しかった、ですか?」
「え?」
「仕事を手伝うことが、楽しかったのですか?」
冷花は不思議そうに尋ねた。
「……まあ、そうだな。自分の考えたことが役に立つと、うれしいだろ?」
「そういうものなのですね」
「お前は違うのか?」
「私は、仕事が予定どおりに終わるとうれしいです」
「いや、それもわかるけどさ……」
颯真は少し考えた。
「誰かと一緒にやるから楽しい、ってこともあるんじゃないか?」
「誰かと一緒に……」
冷花は、その言葉をゆっくりと繰り返した。
「私は、あまり考えたことがありませんでした」
「そうなのか?」
「はい。これまでは、一人で進めたほうが効率的だと思っていましたから」
颯真は、彼女の横顔を見つめた。
完璧な生徒会長。
学園の誰もが一目置く女王。
けれど、彼女はまだ知らないことがある。
誰かと一緒に何かをする楽しさも。
失敗を笑い合うことも。
自分の知らない考えを教えてもらうことも。
「……じゃあ、これから覚えていけばいいだろ」
颯真が言うと、冷花は彼を見た。
「神崎くんと一緒なら、覚えられるでしょうか?」
「……っ!」
不意打ちだった。
あまりにも自然な口調で、そんなことを言うものだから。
颯真の頭の中が、一瞬で真っ白になった。
「か、神崎くん?」
「……ああ、覚えられる! 絶対に!」
思わず大声で答えてしまった。
冷花は少し驚いたあと、微笑んだ。
「ありがとうございます。では、これからもよろしくお願いします」
「お、おう!」
颯真は顔をそらした。
もう駄目だ。
この人は、自分がどれだけ危険なことを言っているのか、まったく理解していない。
◇
その夜。
颯真は自室のベッドに寝転び、スマートフォンを眺めていた。
画面には、冷花とのメッセージのやり取りが表示されている。
『本日はありがとうございました』
『こちらこそ。明日も手伝えるぞ』
『ありがとうございます。ですが、神崎くんも休息を取ってくださいね』
『わかってるって』
『それなら安心しました』
たったそれだけのやり取りだ。
特別な言葉など、何もない。
それなのに、颯真は何度も読み返してしまう。
「……何やってんだ、俺」
スマートフォンを伏せた。
数秒後、また手に取った。
新しいメッセージは届いていない。
当然だ。
もう夜なのだから。
颯真は枕に顔を埋めた。
「……好きなわけ、ないだろ」
誰に言い訳しているのか、自分でもわからなかった。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、冷花から新しいメッセージが届いていた。
『そういえば、ひとつ質問があります』
颯真は飛び起きた。
『何だ?』
すぐに返信すると、間を置かずに返事が来た。
『神崎くんは、どうして私に勝ちたいのですか?』
「……え?」
颯真は画面を見つめた。
それは、何度も聞かれた質問だった。
最初は、単純に負けるのが嫌だったから。
何でもできる冷花に勝てば、自分の実力を証明できると思っていた。
けれど、今は少し違う。
勝負に負けても、冷花と話す時間が増えるのはうれしい。
自分の考えを認めてもらえると、もっと頑張ろうと思える。
彼女が笑えば、また見たいと思ってしまう。
そんなことを、どう説明すればいいのだろう。
颯真はしばらく悩み、ようやく文字を打った。
『お前が相手だからだよ』
送信。
その瞬間、颯真はベッドの上で固まった。
「……いや、待て。これじゃ、どういう意味にも取れるだろ!」
慌てて訂正しようとしたが、すぐに返信が届いた。
『私が相手だから、ですか』
『はい。わかりました』
『では、これからも神崎くんに負けないよう、努力しますね』
颯真は、ゆっくりとスマートフォンを胸元に下ろした。
「……あいつ、本当にわかってるのか?」
もちろん、冷花は颯真の言葉を恋愛的な意味では受け取っていない。
彼女にとって颯真は、自分に遠慮なく意見を言ってくれる、貴重な挑戦者だ。
けれど。
その挑戦者が、ほかの誰とも違う存在になりつつあることを、冷花自身もまだ知らなかった。
同じ頃。
自室でメッセージを読み返していた冷花は、小さくつぶやいた。
「……神崎くんが相手だから、ですか」
彼女はメモ帳を開いた。
そこには、文化祭の準備についての記録が並んでいる。
その最後に、今日の気づきを書き加えた。
『神崎くんと一緒に仕事をすると、予定より楽しく感じる』
書き終えた冷花は、しばらくその文章を見つめた。
そして、静かにペンを置いた。
「……不思議ですね」
窓の外には、星が輝いていた。
学園一のイケメンの弱点。
それは、どんな勝負にも負けたくないはずなのに、一ノ瀬冷花の笑顔には、どうしても勝てないことだった。



