私立星蘭学園の生徒会室には、ひとつの都市伝説がある。
生徒会長の一ノ瀬冷花は、どんな仕事でも一人で完璧に片づけてしまうらしい。
文化祭の予算管理から、学校行事の企画書作成、先生たちとの打ち合わせまで。
彼女の机には、いつも大量の書類が積まれている。
しかし、不思議なことに、翌朝にはすべて片づいているのだ。
「……あの人、本当に寝てるのかな?」
「もしかして、夜中に生徒会室で仕事してるんじゃ……」
「怖いこと言うなよ!」
そんな噂が飛び交う昼休み。
神崎颯真は、友人の佐伯から一枚の紙を見せられていた。
「これ、文化祭の実行委員募集だってさ」
「文化祭か」
紙には、文化祭の開催日とともに、各クラスから実行委員を募る旨が書かれていた。
今年の星蘭学園の文化祭は、例年より規模を拡大するらしい。
展示、演劇、模擬店、音楽発表会。
準備することは山ほどある。
「生徒会も忙しくなるだろうな」
「だろうな。一ノ瀬さんが仕切るんだろ?」
佐伯は、ふと思いついたように颯真を見た。
「お前、手伝いに行けば?」
「は?」
「最近、やたら一ノ瀬さんと話してるじゃん。料理のことも教えるんだろ?」
「それとこれとは関係ないだろ」
「じゃあ、行かないのか?」
「……行く」
「即答かよ!」
佐伯が吹き出した。
「いや、別にあいつが心配だからとかじゃないぞ。俺だって学園の生徒だし、文化祭を成功させたいと思ってるだけだ」
「はいはい」
「本当だ!」
颯真は募集用紙を手に取った。
文化祭の仕事なら、冷花に勝つための競争とは違う。
自分にも何かできることがあるかもしれない。
それに――。
彼女が普段、どんなふうに仕事をしているのか。
少しだけ、気になっていた。
◇
放課後。
生徒会室の扉を開けた颯真は、思わず足を止めた。
「……おいおい」
長机の上には、書類の束がいくつも並んでいた。
壁には文化祭の予定表。
黒板には、びっしりと書き込まれた作業項目。
そして、その中央で冷花が黙々とペンを動かしていた。
「一ノ瀬」
「神崎くん。どうしましたか?」
冷花は顔を上げた。
いつもと同じ、落ち着いた表情だ。
「どうしたも何も……これ、全部お前がやってるのか?」
「はい。現時点では、私が担当しています」
「現時点では、って……」
颯真は机の上の書類を一枚手に取った。
文化祭の予算案。
その隣には、各クラスの企画一覧。
さらにその横には、当日の警備配置と来場者の誘導計画まである。
「こんなに仕事があるなら、ほかの生徒会役員に振ればいいだろ」
「分担はしています。こちらは私が確認する必要のある書類です」
「確認する必要があるって、全部じゃないか!」
「すべてではありません。こちらの三種類は副会長が担当していますし、こちらは会計がまとめています」
冷花は淡々と説明した。
颯真は書類の山を見渡した。
「……それでも多すぎるだろ」
「そうでしょうか」
「そうだよ!」
冷花は少し考えたあと、首をかしげた。
「作業量には問題ありません。予定どおりに進めれば、明後日には終わります」
「明後日!?」
「はい」
「今日、何時までやるつもりだ?」
「すべて終わるまでです」
「それじゃ答えになってない!」
颯真は額に手を当てた。
この人は、料理でも勉強でもそうだった。
自分にできることは、当然のように自分でやろうとする。
そして、できない人がいることを責めたりはしないが、誰かに頼ることもほとんどない。
「……一ノ瀬」
「はい」
「俺にも手伝わせろ」
冷花のペンが止まった。
「神崎くんが、ですか?」
「ほかに誰がいるんだよ」
「ですが、神崎くんは生徒会役員ではありません」
「文化祭の実行委員なら、今からでも参加できるだろ?」
「それはそうですが……」
冷花は少しだけ視線を落とした。
「私の仕事を手伝ってもらう理由がありません」
颯真は眉をひそめた。
「理由ならある」
「何でしょうか?」
「お前が倒れたら、俺が勝負できなくなるだろ」
「……勝負?」
「そうだ。俺はお前に勝つまで、挑戦をやめるつもりはないからな!」
冷花は数秒、黙っていた。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「神崎くんらしい理由ですね」
「褒めてるのか、それ?」
「はい。少なくとも、わかりやすいです」
冷花は机の上の書類を整理し始めた。
「では、お願いしてもよろしいでしょうか」
「おう!」
「まず、こちらの企画一覧を確認してください。提出された内容と、必要な備品の数が一致しているか調べてほしいのです」
「わかった!」
「それから、こちらの書類は――」
「待った!」
颯真は両手を上げた。
「一気に説明されても覚えられない! 一つずつ頼む!」
冷花は目を瞬かせた。
「……なるほど。説明の仕方にも改善の余地があるのですね」
「そこから学ぶのかよ!」
生徒会室に、颯真の声が響いた。
◇
それから一時間。
「……終わった!」
颯真は、確認済みの企画一覧を机に置いた。
書類の数字を照合し、不足している備品をチェックする。
地味な作業だったが、思っていたよりも時間がかかった。
「お疲れさまでした」
冷花が、温かいお茶を差し出した。
「お、ありがとう」
颯真は湯飲みを受け取った。
一口飲むと、ほっと息が漏れた。
「ふう……。これ、いつも一人でやってるのか?」
「いいえ。先ほども説明したとおり、役割分担はしています」
「いや、そうじゃなくて。最後の確認とか、細かい調整とかさ」
「必要な部分は私が担当します」
「……疲れないのか?」
何気なく尋ねた言葉だった。
しかし、冷花はすぐには答えなかった。
いつもなら、彼女は何でも即座に答える。
だからこそ、そのわずかな沈黙が、颯真には気になった。
「疲れないわけではありません」
やがて、冷花は静かに言った。
「ただ、私がやれば早く終わりますから」
「……それだけか?」
「はい」
冷花は湯飲みを両手で持った。
「誰かに説明するより、自分で進めたほうが時間を短縮できます。確認を任せて間違いがあれば、結局、修正する必要がありますから」
「なるほどな……」
理屈はわかる。
実際、冷花の仕事は正確だ。
彼女に任せれば、間違いなく高い水準で仕上がるのだろう。
けれど。
「それじゃ、お前が休めないだろ」
颯真の言葉に、冷花は顔を上げた。
「休む必要があるほどの仕事量ではありません」
「今日、何時間ここにいる?」
「放課後からです」
「その前は?」
「昼休みに、少しだけ」
「授業中は?」
「授業には集中しています」
「そういう問題じゃない!」
颯真は思わず声を上げた。
「お前、完璧に仕事をすることばっかり考えてるだろ。もっと周りを頼ってもいいんじゃないか?」
「……周りを、頼る」
冷花はその言葉を繰り返した。
「はい。神崎くんにも手伝っていただきましたが、確認作業は問題なく終わりました」
「そうだろ?」
「ですが、神崎くんは今回、私を手伝いたいと思って来てくれたのですよね」
「まあ、そうだけど」
「ほかの人が同じように考えてくれるとは限りません」
颯真は口をつぐんだ。
冷花の言うことにも、一理ある。
彼女が人に頼らないのは、単に意地を張っているからではないのかもしれない。
頼んでも断られる。
説明する時間が余計にかかる。
結局、自分でやったほうが確実だ。
そういう経験を積み重ねてきたのだろうか。
「……なあ、一ノ瀬」
「はい」
「俺は、お前に頼まれたら手伝うぞ」
冷花の目が、わずかに見開かれた。
「今回だけじゃない。文化祭が終わるまで、必要なら手伝いに来る」
「ですが、神崎くんにも予定があるでしょう」
「あるけど、全部が全部、勝負のことばかりじゃないからな」
「……そうですか」
冷花は湯飲みを机に置いた。
それから、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「では、明日もお願いしてよろしいでしょうか」
「もちろんだ!」
「ありがとうございます。とても助かります」
その言葉を聞いた瞬間、颯真の胸が妙に温かくなった。
いつもなら、冷花は何でも一人で片づけてしまう。
そんな彼女が、自分に助けを求めてくれた。
それが、思っていた以上にうれしかった。
「……おう。任せとけ!」
颯真は照れ隠しに、少し大きな声で答えた。
◇
翌日。
颯真が生徒会室に向かうと、扉の前に数人の生徒が集まっていた。
「どうしたんだ?」
声をかけると、三年生らしい男子生徒が振り返った。
「いや、ちょっと……」
「一ノ瀬さんに、書類を届けに来たんだけど」
「入ればいいだろ?」
「それが……」
男子生徒は困ったように笑った。
「昨日、会長に質問したら、すごく丁寧に説明してくれたんだ。でも、あまりにも正確で、途中から何を聞きに来たのか忘れちゃってさ」
「……は?」
「いや、会長は悪くないんだよ! むしろ、こっちが申し訳なくなるくらい親切で!」
別の女子生徒も、こくこくとうなずいた。
「私も備品の相談をしたんだけど、解決策を三つも考えてくれて……。どれも正しくて、どれを選べばいいのかわからなくなっちゃった」
「それで、ここに集まってるのか?」
「会長が忙しそうだから、タイミングを見てるんだ」
颯真は頭を抱えた。
冷花は決して怖い人ではない。
むしろ、誰よりも真面目に相手のことを考えている。
ただ、その完璧さが、周囲を萎縮させてしまうのだ。
「……わかった。俺が先に入って、話を通しておくよ」
「神崎くんが?」
「一ノ瀬とは話ができるから」
男子生徒たちは、驚いた顔を見合わせた。
「すごいな……」
「神崎くん、さすがだ」
「女王の側近って、本当にいたんだ……」
「誰が側近だ!」
颯真は抗議したが、三人はすでに深く感心していた。
◇
「一ノ瀬、ちょっといいか?」
生徒会室に入ると、冷花はすぐに顔を上げた。
「神崎くん。おはようございます」
「おはよう。それより、扉の前に生徒が何人か来てるぞ」
「はい。先ほどから気配は感じていました」
「気配って……」
「ですが、皆さん、なかなか入ってこないので」
「それは、お前に話しかけるのを緊張してるんだよ」
冷花は不思議そうに首をかしげた。
「私に、ですか?」
「そうだ。お前は親切なんだけど、説明が完璧すぎるんだよ。相手が何を知りたいのか、先に聞いてやったほうがいい」
「……質問の意図を確認する、ということでしょうか」
「そうそう。あと、全部を一度に説明しなくてもいい」
「必要な情報を省略するのは、効率が悪いのでは?」
「だから、そうじゃなくて!」
颯真は深呼吸した。
落ち着け。
相手は一ノ瀬冷花だ。
数学でも料理でも、何でも完璧な女王だ。
だからこそ、説明の仕方を考えなければならない。
「たとえば、相手が備品の相談に来たとするだろ?」
「はい」
「そのときは、まず何に困ってるのか聞くんだ」
「なるほど」
「それで、相手が知りたいことだけを説明する」
「……それでは、必要な情報を伝えきれない可能性があります」
「そのときは、相手が質問してきたら答えればいいだろ!」
冷花は黙り込んだ。
そして、机の端に置いてあったメモ帳を手に取る。
「質問を先にする。説明は必要な範囲に絞る。相手が質問した場合は追加で回答する……」
「おい、全部メモするのか?」
「はい。重要な改善点ですから」
「いや、まあ、いいけど……」
冷花は真剣な表情で書き終えた。
それから颯真を見つめる。
「神崎くんは、よく周囲を見ていますね」
「え?」
「私が気づいていないことを、よく指摘してくれます。数学のときも、料理のときも、今回も」
「……そりゃ、お前と違って、俺は完璧じゃないからな」
颯真は苦笑した。
「だから、できないことがあるのも、失敗するのも普通だと思ってる。誰かに頼ったっていいし、うまくいかなかったらやり直せばいい」
冷花は、じっと彼を見ていた。
「……そういう考え方も、あるのですね」
「あるだろ。少なくとも、俺はそう思ってる」
しばらくして、冷花は小さくうなずいた。
「ありがとうございます。神崎くん」
その声は、いつもより柔らかかった。
颯真は思わず視線をそらした。
「べ、別に。俺は思ったことを言っただけだ」
「はい。だからこそ、参考になります」
冷花は立ち上がり、扉へ向かった。
そして、外で待っていた生徒たちに向かって、静かに声をかけた。
「お待たせして、申し訳ありません。ご相談でしょうか?」
生徒たちは一斉に背筋を伸ばした。
「は、はい!」
「どのようなことで困っていますか? まずは、お話を聞かせてください」
冷花は、いつもと同じ落ち着いた表情で微笑んだ。
しかし、今回は違った。
すぐに答えを提示するのではなく、相手の話を最後まで聞いている。
生徒が言葉に詰まれば、少し待つ。
わからないところがあれば、質問を返す。
決して完璧な会話ではなかった。
それでも、相手の表情は少しずつ和らいでいった。
「……ありがとうございました、一ノ瀬さん!」
「お役に立てたなら、よかったです」
生徒たちが帰ったあと、冷花は颯真のほうを振り返った。
「神崎くん。先ほどの助言は、効果があったようです」
「そうだな」
「今後も、私の話し方について気づいたことがあれば、教えていただけますか?」
「……ああ。もちろんだ」
「よろしくお願いします」
冷花は丁寧に頭を下げた。
颯真は、そんな彼女を見て笑った。
「お前、そういうところは本当に素直だよな」
「改善できる点があるなら、改善したいと思っていますので」
「そういう意味じゃないんだけどな……」
颯真は小さくつぶやいた。
完璧な学園の女王。
けれど、その内側には、まだ知らないことがたくさんある。
そして、自分の言葉を聞いて、少しずつ変わろうとしてくれている。
それが、どうしようもなくうれしかった。
◇
夕方。
文化祭の書類を整理し終えた二人は、並んで生徒会室を出た。
「今日はありがとうございました、神崎くん」
「いや、俺もいい経験になったよ」
「そうですか?」
「ああ。お前がどれだけ仕事してるかもわかったしな」
冷花は少しだけ考えてから言った。
「……明日も、手伝っていただけますか?」
「もちろん」
「では、明日は備品の確認をお願いします」
「任せろ!」
颯真が胸を張ると、冷花はふっと笑った。
その笑顔を見て、颯真の足が止まった。
「……え?」
「どうしましたか?」
「いや、今……」
「何かありましたか?」
「……いや、何でもない」
颯真は慌てて歩き出した。
今の笑顔は、いつもの完璧な微笑みとは少し違っていた。
誰かに見せるためのものではなく、自然にこぼれたような笑顔。
そんな表情を、自分は初めて見た気がした。
冷花は、颯真の横を歩きながら、そっと彼を見上げた。
「神崎くん」
「ん?」
「あなたが来てくれて、よかったです」
颯真は、今度こそ完全に足を止めた。
「……っ!」
「神崎くん?」
「な、なんでもない! 急にそういうことを言うな!」
「そういうこと、とは?」
「だから……!」
冷花は不思議そうに首をかしげた。
そして、少し考えたあと、真面目な顔で言った。
「では、次回からは、事前に伝えるようにします」
「そういう問題じゃないんだよ!」
廊下に、颯真の声が響いた。
その日の夜。
颯真のスマートフォンに、一件のメッセージが届いた。
『今日はありがとうございました。おかげで、仕事が予定より早く終わりました』
送り主は、一ノ瀬冷花だった。
続けて、もう一通。
『また明日も、よろしくお願いします』
颯真は画面を見つめ、しばらく動けなかった。
そして、ゆっくりと返信を打つ。
『おう! 明日も任せろ!』
送信したあと、彼はベッドに倒れ込んだ。
「……くそ。なんなんだよ、あいつ」
勝負では、まだ一度も勝てていない。
なのに。
最近は、彼女と話すだけで、調子が狂ってしまう。
颯真はスマートフォンを枕元に置き、天井を見上げた。
「……次は絶対、勝つからな」
そうつぶやいた声は、いつもより少しだけ優しかった。
生徒会長の一ノ瀬冷花は、どんな仕事でも一人で完璧に片づけてしまうらしい。
文化祭の予算管理から、学校行事の企画書作成、先生たちとの打ち合わせまで。
彼女の机には、いつも大量の書類が積まれている。
しかし、不思議なことに、翌朝にはすべて片づいているのだ。
「……あの人、本当に寝てるのかな?」
「もしかして、夜中に生徒会室で仕事してるんじゃ……」
「怖いこと言うなよ!」
そんな噂が飛び交う昼休み。
神崎颯真は、友人の佐伯から一枚の紙を見せられていた。
「これ、文化祭の実行委員募集だってさ」
「文化祭か」
紙には、文化祭の開催日とともに、各クラスから実行委員を募る旨が書かれていた。
今年の星蘭学園の文化祭は、例年より規模を拡大するらしい。
展示、演劇、模擬店、音楽発表会。
準備することは山ほどある。
「生徒会も忙しくなるだろうな」
「だろうな。一ノ瀬さんが仕切るんだろ?」
佐伯は、ふと思いついたように颯真を見た。
「お前、手伝いに行けば?」
「は?」
「最近、やたら一ノ瀬さんと話してるじゃん。料理のことも教えるんだろ?」
「それとこれとは関係ないだろ」
「じゃあ、行かないのか?」
「……行く」
「即答かよ!」
佐伯が吹き出した。
「いや、別にあいつが心配だからとかじゃないぞ。俺だって学園の生徒だし、文化祭を成功させたいと思ってるだけだ」
「はいはい」
「本当だ!」
颯真は募集用紙を手に取った。
文化祭の仕事なら、冷花に勝つための競争とは違う。
自分にも何かできることがあるかもしれない。
それに――。
彼女が普段、どんなふうに仕事をしているのか。
少しだけ、気になっていた。
◇
放課後。
生徒会室の扉を開けた颯真は、思わず足を止めた。
「……おいおい」
長机の上には、書類の束がいくつも並んでいた。
壁には文化祭の予定表。
黒板には、びっしりと書き込まれた作業項目。
そして、その中央で冷花が黙々とペンを動かしていた。
「一ノ瀬」
「神崎くん。どうしましたか?」
冷花は顔を上げた。
いつもと同じ、落ち着いた表情だ。
「どうしたも何も……これ、全部お前がやってるのか?」
「はい。現時点では、私が担当しています」
「現時点では、って……」
颯真は机の上の書類を一枚手に取った。
文化祭の予算案。
その隣には、各クラスの企画一覧。
さらにその横には、当日の警備配置と来場者の誘導計画まである。
「こんなに仕事があるなら、ほかの生徒会役員に振ればいいだろ」
「分担はしています。こちらは私が確認する必要のある書類です」
「確認する必要があるって、全部じゃないか!」
「すべてではありません。こちらの三種類は副会長が担当していますし、こちらは会計がまとめています」
冷花は淡々と説明した。
颯真は書類の山を見渡した。
「……それでも多すぎるだろ」
「そうでしょうか」
「そうだよ!」
冷花は少し考えたあと、首をかしげた。
「作業量には問題ありません。予定どおりに進めれば、明後日には終わります」
「明後日!?」
「はい」
「今日、何時までやるつもりだ?」
「すべて終わるまでです」
「それじゃ答えになってない!」
颯真は額に手を当てた。
この人は、料理でも勉強でもそうだった。
自分にできることは、当然のように自分でやろうとする。
そして、できない人がいることを責めたりはしないが、誰かに頼ることもほとんどない。
「……一ノ瀬」
「はい」
「俺にも手伝わせろ」
冷花のペンが止まった。
「神崎くんが、ですか?」
「ほかに誰がいるんだよ」
「ですが、神崎くんは生徒会役員ではありません」
「文化祭の実行委員なら、今からでも参加できるだろ?」
「それはそうですが……」
冷花は少しだけ視線を落とした。
「私の仕事を手伝ってもらう理由がありません」
颯真は眉をひそめた。
「理由ならある」
「何でしょうか?」
「お前が倒れたら、俺が勝負できなくなるだろ」
「……勝負?」
「そうだ。俺はお前に勝つまで、挑戦をやめるつもりはないからな!」
冷花は数秒、黙っていた。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「神崎くんらしい理由ですね」
「褒めてるのか、それ?」
「はい。少なくとも、わかりやすいです」
冷花は机の上の書類を整理し始めた。
「では、お願いしてもよろしいでしょうか」
「おう!」
「まず、こちらの企画一覧を確認してください。提出された内容と、必要な備品の数が一致しているか調べてほしいのです」
「わかった!」
「それから、こちらの書類は――」
「待った!」
颯真は両手を上げた。
「一気に説明されても覚えられない! 一つずつ頼む!」
冷花は目を瞬かせた。
「……なるほど。説明の仕方にも改善の余地があるのですね」
「そこから学ぶのかよ!」
生徒会室に、颯真の声が響いた。
◇
それから一時間。
「……終わった!」
颯真は、確認済みの企画一覧を机に置いた。
書類の数字を照合し、不足している備品をチェックする。
地味な作業だったが、思っていたよりも時間がかかった。
「お疲れさまでした」
冷花が、温かいお茶を差し出した。
「お、ありがとう」
颯真は湯飲みを受け取った。
一口飲むと、ほっと息が漏れた。
「ふう……。これ、いつも一人でやってるのか?」
「いいえ。先ほども説明したとおり、役割分担はしています」
「いや、そうじゃなくて。最後の確認とか、細かい調整とかさ」
「必要な部分は私が担当します」
「……疲れないのか?」
何気なく尋ねた言葉だった。
しかし、冷花はすぐには答えなかった。
いつもなら、彼女は何でも即座に答える。
だからこそ、そのわずかな沈黙が、颯真には気になった。
「疲れないわけではありません」
やがて、冷花は静かに言った。
「ただ、私がやれば早く終わりますから」
「……それだけか?」
「はい」
冷花は湯飲みを両手で持った。
「誰かに説明するより、自分で進めたほうが時間を短縮できます。確認を任せて間違いがあれば、結局、修正する必要がありますから」
「なるほどな……」
理屈はわかる。
実際、冷花の仕事は正確だ。
彼女に任せれば、間違いなく高い水準で仕上がるのだろう。
けれど。
「それじゃ、お前が休めないだろ」
颯真の言葉に、冷花は顔を上げた。
「休む必要があるほどの仕事量ではありません」
「今日、何時間ここにいる?」
「放課後からです」
「その前は?」
「昼休みに、少しだけ」
「授業中は?」
「授業には集中しています」
「そういう問題じゃない!」
颯真は思わず声を上げた。
「お前、完璧に仕事をすることばっかり考えてるだろ。もっと周りを頼ってもいいんじゃないか?」
「……周りを、頼る」
冷花はその言葉を繰り返した。
「はい。神崎くんにも手伝っていただきましたが、確認作業は問題なく終わりました」
「そうだろ?」
「ですが、神崎くんは今回、私を手伝いたいと思って来てくれたのですよね」
「まあ、そうだけど」
「ほかの人が同じように考えてくれるとは限りません」
颯真は口をつぐんだ。
冷花の言うことにも、一理ある。
彼女が人に頼らないのは、単に意地を張っているからではないのかもしれない。
頼んでも断られる。
説明する時間が余計にかかる。
結局、自分でやったほうが確実だ。
そういう経験を積み重ねてきたのだろうか。
「……なあ、一ノ瀬」
「はい」
「俺は、お前に頼まれたら手伝うぞ」
冷花の目が、わずかに見開かれた。
「今回だけじゃない。文化祭が終わるまで、必要なら手伝いに来る」
「ですが、神崎くんにも予定があるでしょう」
「あるけど、全部が全部、勝負のことばかりじゃないからな」
「……そうですか」
冷花は湯飲みを机に置いた。
それから、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「では、明日もお願いしてよろしいでしょうか」
「もちろんだ!」
「ありがとうございます。とても助かります」
その言葉を聞いた瞬間、颯真の胸が妙に温かくなった。
いつもなら、冷花は何でも一人で片づけてしまう。
そんな彼女が、自分に助けを求めてくれた。
それが、思っていた以上にうれしかった。
「……おう。任せとけ!」
颯真は照れ隠しに、少し大きな声で答えた。
◇
翌日。
颯真が生徒会室に向かうと、扉の前に数人の生徒が集まっていた。
「どうしたんだ?」
声をかけると、三年生らしい男子生徒が振り返った。
「いや、ちょっと……」
「一ノ瀬さんに、書類を届けに来たんだけど」
「入ればいいだろ?」
「それが……」
男子生徒は困ったように笑った。
「昨日、会長に質問したら、すごく丁寧に説明してくれたんだ。でも、あまりにも正確で、途中から何を聞きに来たのか忘れちゃってさ」
「……は?」
「いや、会長は悪くないんだよ! むしろ、こっちが申し訳なくなるくらい親切で!」
別の女子生徒も、こくこくとうなずいた。
「私も備品の相談をしたんだけど、解決策を三つも考えてくれて……。どれも正しくて、どれを選べばいいのかわからなくなっちゃった」
「それで、ここに集まってるのか?」
「会長が忙しそうだから、タイミングを見てるんだ」
颯真は頭を抱えた。
冷花は決して怖い人ではない。
むしろ、誰よりも真面目に相手のことを考えている。
ただ、その完璧さが、周囲を萎縮させてしまうのだ。
「……わかった。俺が先に入って、話を通しておくよ」
「神崎くんが?」
「一ノ瀬とは話ができるから」
男子生徒たちは、驚いた顔を見合わせた。
「すごいな……」
「神崎くん、さすがだ」
「女王の側近って、本当にいたんだ……」
「誰が側近だ!」
颯真は抗議したが、三人はすでに深く感心していた。
◇
「一ノ瀬、ちょっといいか?」
生徒会室に入ると、冷花はすぐに顔を上げた。
「神崎くん。おはようございます」
「おはよう。それより、扉の前に生徒が何人か来てるぞ」
「はい。先ほどから気配は感じていました」
「気配って……」
「ですが、皆さん、なかなか入ってこないので」
「それは、お前に話しかけるのを緊張してるんだよ」
冷花は不思議そうに首をかしげた。
「私に、ですか?」
「そうだ。お前は親切なんだけど、説明が完璧すぎるんだよ。相手が何を知りたいのか、先に聞いてやったほうがいい」
「……質問の意図を確認する、ということでしょうか」
「そうそう。あと、全部を一度に説明しなくてもいい」
「必要な情報を省略するのは、効率が悪いのでは?」
「だから、そうじゃなくて!」
颯真は深呼吸した。
落ち着け。
相手は一ノ瀬冷花だ。
数学でも料理でも、何でも完璧な女王だ。
だからこそ、説明の仕方を考えなければならない。
「たとえば、相手が備品の相談に来たとするだろ?」
「はい」
「そのときは、まず何に困ってるのか聞くんだ」
「なるほど」
「それで、相手が知りたいことだけを説明する」
「……それでは、必要な情報を伝えきれない可能性があります」
「そのときは、相手が質問してきたら答えればいいだろ!」
冷花は黙り込んだ。
そして、机の端に置いてあったメモ帳を手に取る。
「質問を先にする。説明は必要な範囲に絞る。相手が質問した場合は追加で回答する……」
「おい、全部メモするのか?」
「はい。重要な改善点ですから」
「いや、まあ、いいけど……」
冷花は真剣な表情で書き終えた。
それから颯真を見つめる。
「神崎くんは、よく周囲を見ていますね」
「え?」
「私が気づいていないことを、よく指摘してくれます。数学のときも、料理のときも、今回も」
「……そりゃ、お前と違って、俺は完璧じゃないからな」
颯真は苦笑した。
「だから、できないことがあるのも、失敗するのも普通だと思ってる。誰かに頼ったっていいし、うまくいかなかったらやり直せばいい」
冷花は、じっと彼を見ていた。
「……そういう考え方も、あるのですね」
「あるだろ。少なくとも、俺はそう思ってる」
しばらくして、冷花は小さくうなずいた。
「ありがとうございます。神崎くん」
その声は、いつもより柔らかかった。
颯真は思わず視線をそらした。
「べ、別に。俺は思ったことを言っただけだ」
「はい。だからこそ、参考になります」
冷花は立ち上がり、扉へ向かった。
そして、外で待っていた生徒たちに向かって、静かに声をかけた。
「お待たせして、申し訳ありません。ご相談でしょうか?」
生徒たちは一斉に背筋を伸ばした。
「は、はい!」
「どのようなことで困っていますか? まずは、お話を聞かせてください」
冷花は、いつもと同じ落ち着いた表情で微笑んだ。
しかし、今回は違った。
すぐに答えを提示するのではなく、相手の話を最後まで聞いている。
生徒が言葉に詰まれば、少し待つ。
わからないところがあれば、質問を返す。
決して完璧な会話ではなかった。
それでも、相手の表情は少しずつ和らいでいった。
「……ありがとうございました、一ノ瀬さん!」
「お役に立てたなら、よかったです」
生徒たちが帰ったあと、冷花は颯真のほうを振り返った。
「神崎くん。先ほどの助言は、効果があったようです」
「そうだな」
「今後も、私の話し方について気づいたことがあれば、教えていただけますか?」
「……ああ。もちろんだ」
「よろしくお願いします」
冷花は丁寧に頭を下げた。
颯真は、そんな彼女を見て笑った。
「お前、そういうところは本当に素直だよな」
「改善できる点があるなら、改善したいと思っていますので」
「そういう意味じゃないんだけどな……」
颯真は小さくつぶやいた。
完璧な学園の女王。
けれど、その内側には、まだ知らないことがたくさんある。
そして、自分の言葉を聞いて、少しずつ変わろうとしてくれている。
それが、どうしようもなくうれしかった。
◇
夕方。
文化祭の書類を整理し終えた二人は、並んで生徒会室を出た。
「今日はありがとうございました、神崎くん」
「いや、俺もいい経験になったよ」
「そうですか?」
「ああ。お前がどれだけ仕事してるかもわかったしな」
冷花は少しだけ考えてから言った。
「……明日も、手伝っていただけますか?」
「もちろん」
「では、明日は備品の確認をお願いします」
「任せろ!」
颯真が胸を張ると、冷花はふっと笑った。
その笑顔を見て、颯真の足が止まった。
「……え?」
「どうしましたか?」
「いや、今……」
「何かありましたか?」
「……いや、何でもない」
颯真は慌てて歩き出した。
今の笑顔は、いつもの完璧な微笑みとは少し違っていた。
誰かに見せるためのものではなく、自然にこぼれたような笑顔。
そんな表情を、自分は初めて見た気がした。
冷花は、颯真の横を歩きながら、そっと彼を見上げた。
「神崎くん」
「ん?」
「あなたが来てくれて、よかったです」
颯真は、今度こそ完全に足を止めた。
「……っ!」
「神崎くん?」
「な、なんでもない! 急にそういうことを言うな!」
「そういうこと、とは?」
「だから……!」
冷花は不思議そうに首をかしげた。
そして、少し考えたあと、真面目な顔で言った。
「では、次回からは、事前に伝えるようにします」
「そういう問題じゃないんだよ!」
廊下に、颯真の声が響いた。
その日の夜。
颯真のスマートフォンに、一件のメッセージが届いた。
『今日はありがとうございました。おかげで、仕事が予定より早く終わりました』
送り主は、一ノ瀬冷花だった。
続けて、もう一通。
『また明日も、よろしくお願いします』
颯真は画面を見つめ、しばらく動けなかった。
そして、ゆっくりと返信を打つ。
『おう! 明日も任せろ!』
送信したあと、彼はベッドに倒れ込んだ。
「……くそ。なんなんだよ、あいつ」
勝負では、まだ一度も勝てていない。
なのに。
最近は、彼女と話すだけで、調子が狂ってしまう。
颯真はスマートフォンを枕元に置き、天井を見上げた。
「……次は絶対、勝つからな」
そうつぶやいた声は、いつもより少しだけ優しかった。



