学園の女王とイケメン王子様

 私立星蘭学園の生徒会室には、ひとつの都市伝説がある。

 生徒会長の一ノ瀬冷花は、どんな仕事でも一人で完璧に片づけてしまうらしい。

 文化祭の予算管理から、学校行事の企画書作成、先生たちとの打ち合わせまで。

 彼女の机には、いつも大量の書類が積まれている。

 しかし、不思議なことに、翌朝にはすべて片づいているのだ。

「……あの人、本当に寝てるのかな?」

「もしかして、夜中に生徒会室で仕事してるんじゃ……」

「怖いこと言うなよ!」

 そんな噂が飛び交う昼休み。

 神崎颯真は、友人の佐伯から一枚の紙を見せられていた。

「これ、文化祭の実行委員募集だってさ」

「文化祭か」

 紙には、文化祭の開催日とともに、各クラスから実行委員を募る旨が書かれていた。

 今年の星蘭学園の文化祭は、例年より規模を拡大するらしい。

 展示、演劇、模擬店、音楽発表会。

 準備することは山ほどある。

「生徒会も忙しくなるだろうな」

「だろうな。一ノ瀬さんが仕切るんだろ?」

 佐伯は、ふと思いついたように颯真を見た。

「お前、手伝いに行けば?」

「は?」

「最近、やたら一ノ瀬さんと話してるじゃん。料理のことも教えるんだろ?」

「それとこれとは関係ないだろ」

「じゃあ、行かないのか?」

「……行く」

「即答かよ!」

 佐伯が吹き出した。

「いや、別にあいつが心配だからとかじゃないぞ。俺だって学園の生徒だし、文化祭を成功させたいと思ってるだけだ」

「はいはい」

「本当だ!」

 颯真は募集用紙を手に取った。

 文化祭の仕事なら、冷花に勝つための競争とは違う。

 自分にも何かできることがあるかもしれない。

 それに――。

 彼女が普段、どんなふうに仕事をしているのか。

 少しだけ、気になっていた。

     ◇

 放課後。

 生徒会室の扉を開けた颯真は、思わず足を止めた。

「……おいおい」

 長机の上には、書類の束がいくつも並んでいた。

 壁には文化祭の予定表。

 黒板には、びっしりと書き込まれた作業項目。

 そして、その中央で冷花が黙々とペンを動かしていた。

「一ノ瀬」

「神崎くん。どうしましたか?」

 冷花は顔を上げた。

 いつもと同じ、落ち着いた表情だ。

「どうしたも何も……これ、全部お前がやってるのか?」

「はい。現時点では、私が担当しています」

「現時点では、って……」

 颯真は机の上の書類を一枚手に取った。

 文化祭の予算案。

 その隣には、各クラスの企画一覧。

 さらにその横には、当日の警備配置と来場者の誘導計画まである。

「こんなに仕事があるなら、ほかの生徒会役員に振ればいいだろ」

「分担はしています。こちらは私が確認する必要のある書類です」

「確認する必要があるって、全部じゃないか!」

「すべてではありません。こちらの三種類は副会長が担当していますし、こちらは会計がまとめています」

 冷花は淡々と説明した。

 颯真は書類の山を見渡した。

「……それでも多すぎるだろ」

「そうでしょうか」

「そうだよ!」

 冷花は少し考えたあと、首をかしげた。

「作業量には問題ありません。予定どおりに進めれば、明後日には終わります」

「明後日!?」

「はい」

「今日、何時までやるつもりだ?」

「すべて終わるまでです」

「それじゃ答えになってない!」

 颯真は額に手を当てた。

 この人は、料理でも勉強でもそうだった。

 自分にできることは、当然のように自分でやろうとする。

 そして、できない人がいることを責めたりはしないが、誰かに頼ることもほとんどない。

「……一ノ瀬」

「はい」

「俺にも手伝わせろ」

 冷花のペンが止まった。

「神崎くんが、ですか?」

「ほかに誰がいるんだよ」

「ですが、神崎くんは生徒会役員ではありません」

「文化祭の実行委員なら、今からでも参加できるだろ?」

「それはそうですが……」

 冷花は少しだけ視線を落とした。

「私の仕事を手伝ってもらう理由がありません」

 颯真は眉をひそめた。

「理由ならある」

「何でしょうか?」

「お前が倒れたら、俺が勝負できなくなるだろ」

「……勝負?」

「そうだ。俺はお前に勝つまで、挑戦をやめるつもりはないからな!」

 冷花は数秒、黙っていた。

 やがて、彼女は小さく息を吐いた。

「神崎くんらしい理由ですね」

「褒めてるのか、それ?」

「はい。少なくとも、わかりやすいです」

 冷花は机の上の書類を整理し始めた。

「では、お願いしてもよろしいでしょうか」

「おう!」

「まず、こちらの企画一覧を確認してください。提出された内容と、必要な備品の数が一致しているか調べてほしいのです」

「わかった!」

「それから、こちらの書類は――」

「待った!」

 颯真は両手を上げた。

「一気に説明されても覚えられない! 一つずつ頼む!」

 冷花は目を瞬かせた。

「……なるほど。説明の仕方にも改善の余地があるのですね」

「そこから学ぶのかよ!」

 生徒会室に、颯真の声が響いた。

     ◇

 それから一時間。

「……終わった!」

 颯真は、確認済みの企画一覧を机に置いた。

 書類の数字を照合し、不足している備品をチェックする。

 地味な作業だったが、思っていたよりも時間がかかった。

「お疲れさまでした」

 冷花が、温かいお茶を差し出した。

「お、ありがとう」

 颯真は湯飲みを受け取った。

 一口飲むと、ほっと息が漏れた。

「ふう……。これ、いつも一人でやってるのか?」

「いいえ。先ほども説明したとおり、役割分担はしています」

「いや、そうじゃなくて。最後の確認とか、細かい調整とかさ」

「必要な部分は私が担当します」

「……疲れないのか?」

 何気なく尋ねた言葉だった。

 しかし、冷花はすぐには答えなかった。

 いつもなら、彼女は何でも即座に答える。

 だからこそ、そのわずかな沈黙が、颯真には気になった。

「疲れないわけではありません」

 やがて、冷花は静かに言った。

「ただ、私がやれば早く終わりますから」

「……それだけか?」

「はい」

 冷花は湯飲みを両手で持った。

「誰かに説明するより、自分で進めたほうが時間を短縮できます。確認を任せて間違いがあれば、結局、修正する必要がありますから」

「なるほどな……」

 理屈はわかる。

 実際、冷花の仕事は正確だ。

 彼女に任せれば、間違いなく高い水準で仕上がるのだろう。

 けれど。

「それじゃ、お前が休めないだろ」

 颯真の言葉に、冷花は顔を上げた。

「休む必要があるほどの仕事量ではありません」

「今日、何時間ここにいる?」

「放課後からです」

「その前は?」

「昼休みに、少しだけ」

「授業中は?」

「授業には集中しています」

「そういう問題じゃない!」

 颯真は思わず声を上げた。

「お前、完璧に仕事をすることばっかり考えてるだろ。もっと周りを頼ってもいいんじゃないか?」

「……周りを、頼る」

 冷花はその言葉を繰り返した。

「はい。神崎くんにも手伝っていただきましたが、確認作業は問題なく終わりました」

「そうだろ?」

「ですが、神崎くんは今回、私を手伝いたいと思って来てくれたのですよね」

「まあ、そうだけど」

「ほかの人が同じように考えてくれるとは限りません」

 颯真は口をつぐんだ。

 冷花の言うことにも、一理ある。

 彼女が人に頼らないのは、単に意地を張っているからではないのかもしれない。

 頼んでも断られる。

 説明する時間が余計にかかる。

 結局、自分でやったほうが確実だ。

 そういう経験を積み重ねてきたのだろうか。

「……なあ、一ノ瀬」

「はい」

「俺は、お前に頼まれたら手伝うぞ」

 冷花の目が、わずかに見開かれた。

「今回だけじゃない。文化祭が終わるまで、必要なら手伝いに来る」

「ですが、神崎くんにも予定があるでしょう」

「あるけど、全部が全部、勝負のことばかりじゃないからな」

「……そうですか」

 冷花は湯飲みを机に置いた。

 それから、ほんの少しだけ表情を和らげた。

「では、明日もお願いしてよろしいでしょうか」

「もちろんだ!」

「ありがとうございます。とても助かります」

 その言葉を聞いた瞬間、颯真の胸が妙に温かくなった。

 いつもなら、冷花は何でも一人で片づけてしまう。

 そんな彼女が、自分に助けを求めてくれた。

 それが、思っていた以上にうれしかった。

「……おう。任せとけ!」

 颯真は照れ隠しに、少し大きな声で答えた。

     ◇

 翌日。

 颯真が生徒会室に向かうと、扉の前に数人の生徒が集まっていた。

「どうしたんだ?」

 声をかけると、三年生らしい男子生徒が振り返った。

「いや、ちょっと……」

「一ノ瀬さんに、書類を届けに来たんだけど」

「入ればいいだろ?」

「それが……」

 男子生徒は困ったように笑った。

「昨日、会長に質問したら、すごく丁寧に説明してくれたんだ。でも、あまりにも正確で、途中から何を聞きに来たのか忘れちゃってさ」

「……は?」

「いや、会長は悪くないんだよ! むしろ、こっちが申し訳なくなるくらい親切で!」

 別の女子生徒も、こくこくとうなずいた。

「私も備品の相談をしたんだけど、解決策を三つも考えてくれて……。どれも正しくて、どれを選べばいいのかわからなくなっちゃった」

「それで、ここに集まってるのか?」

「会長が忙しそうだから、タイミングを見てるんだ」

 颯真は頭を抱えた。

 冷花は決して怖い人ではない。

 むしろ、誰よりも真面目に相手のことを考えている。

 ただ、その完璧さが、周囲を萎縮させてしまうのだ。

「……わかった。俺が先に入って、話を通しておくよ」

「神崎くんが?」

「一ノ瀬とは話ができるから」

 男子生徒たちは、驚いた顔を見合わせた。

「すごいな……」

「神崎くん、さすがだ」

「女王の側近って、本当にいたんだ……」

「誰が側近だ!」

 颯真は抗議したが、三人はすでに深く感心していた。

     ◇

「一ノ瀬、ちょっといいか?」

 生徒会室に入ると、冷花はすぐに顔を上げた。

「神崎くん。おはようございます」

「おはよう。それより、扉の前に生徒が何人か来てるぞ」

「はい。先ほどから気配は感じていました」

「気配って……」

「ですが、皆さん、なかなか入ってこないので」

「それは、お前に話しかけるのを緊張してるんだよ」

 冷花は不思議そうに首をかしげた。

「私に、ですか?」

「そうだ。お前は親切なんだけど、説明が完璧すぎるんだよ。相手が何を知りたいのか、先に聞いてやったほうがいい」

「……質問の意図を確認する、ということでしょうか」

「そうそう。あと、全部を一度に説明しなくてもいい」

「必要な情報を省略するのは、効率が悪いのでは?」

「だから、そうじゃなくて!」

 颯真は深呼吸した。

 落ち着け。

 相手は一ノ瀬冷花だ。

 数学でも料理でも、何でも完璧な女王だ。

 だからこそ、説明の仕方を考えなければならない。

「たとえば、相手が備品の相談に来たとするだろ?」

「はい」

「そのときは、まず何に困ってるのか聞くんだ」

「なるほど」

「それで、相手が知りたいことだけを説明する」

「……それでは、必要な情報を伝えきれない可能性があります」

「そのときは、相手が質問してきたら答えればいいだろ!」

 冷花は黙り込んだ。

 そして、机の端に置いてあったメモ帳を手に取る。

「質問を先にする。説明は必要な範囲に絞る。相手が質問した場合は追加で回答する……」

「おい、全部メモするのか?」

「はい。重要な改善点ですから」

「いや、まあ、いいけど……」

 冷花は真剣な表情で書き終えた。

 それから颯真を見つめる。

「神崎くんは、よく周囲を見ていますね」

「え?」

「私が気づいていないことを、よく指摘してくれます。数学のときも、料理のときも、今回も」

「……そりゃ、お前と違って、俺は完璧じゃないからな」

 颯真は苦笑した。

「だから、できないことがあるのも、失敗するのも普通だと思ってる。誰かに頼ったっていいし、うまくいかなかったらやり直せばいい」

 冷花は、じっと彼を見ていた。

「……そういう考え方も、あるのですね」

「あるだろ。少なくとも、俺はそう思ってる」

 しばらくして、冷花は小さくうなずいた。

「ありがとうございます。神崎くん」

 その声は、いつもより柔らかかった。

 颯真は思わず視線をそらした。

「べ、別に。俺は思ったことを言っただけだ」

「はい。だからこそ、参考になります」

 冷花は立ち上がり、扉へ向かった。

 そして、外で待っていた生徒たちに向かって、静かに声をかけた。

「お待たせして、申し訳ありません。ご相談でしょうか?」

 生徒たちは一斉に背筋を伸ばした。

「は、はい!」

「どのようなことで困っていますか? まずは、お話を聞かせてください」

 冷花は、いつもと同じ落ち着いた表情で微笑んだ。

 しかし、今回は違った。

 すぐに答えを提示するのではなく、相手の話を最後まで聞いている。

 生徒が言葉に詰まれば、少し待つ。

 わからないところがあれば、質問を返す。

 決して完璧な会話ではなかった。

 それでも、相手の表情は少しずつ和らいでいった。

「……ありがとうございました、一ノ瀬さん!」

「お役に立てたなら、よかったです」

 生徒たちが帰ったあと、冷花は颯真のほうを振り返った。

「神崎くん。先ほどの助言は、効果があったようです」

「そうだな」

「今後も、私の話し方について気づいたことがあれば、教えていただけますか?」

「……ああ。もちろんだ」

「よろしくお願いします」

 冷花は丁寧に頭を下げた。

 颯真は、そんな彼女を見て笑った。

「お前、そういうところは本当に素直だよな」

「改善できる点があるなら、改善したいと思っていますので」

「そういう意味じゃないんだけどな……」

 颯真は小さくつぶやいた。

 完璧な学園の女王。

 けれど、その内側には、まだ知らないことがたくさんある。

 そして、自分の言葉を聞いて、少しずつ変わろうとしてくれている。

 それが、どうしようもなくうれしかった。

     ◇

 夕方。

 文化祭の書類を整理し終えた二人は、並んで生徒会室を出た。

「今日はありがとうございました、神崎くん」

「いや、俺もいい経験になったよ」

「そうですか?」

「ああ。お前がどれだけ仕事してるかもわかったしな」

 冷花は少しだけ考えてから言った。

「……明日も、手伝っていただけますか?」

「もちろん」

「では、明日は備品の確認をお願いします」

「任せろ!」

 颯真が胸を張ると、冷花はふっと笑った。

 その笑顔を見て、颯真の足が止まった。

「……え?」

「どうしましたか?」

「いや、今……」

「何かありましたか?」

「……いや、何でもない」

 颯真は慌てて歩き出した。

 今の笑顔は、いつもの完璧な微笑みとは少し違っていた。

 誰かに見せるためのものではなく、自然にこぼれたような笑顔。

 そんな表情を、自分は初めて見た気がした。

 冷花は、颯真の横を歩きながら、そっと彼を見上げた。

「神崎くん」

「ん?」

「あなたが来てくれて、よかったです」

 颯真は、今度こそ完全に足を止めた。

「……っ!」

「神崎くん?」

「な、なんでもない! 急にそういうことを言うな!」

「そういうこと、とは?」

「だから……!」

 冷花は不思議そうに首をかしげた。

 そして、少し考えたあと、真面目な顔で言った。

「では、次回からは、事前に伝えるようにします」

「そういう問題じゃないんだよ!」

 廊下に、颯真の声が響いた。

 その日の夜。

 颯真のスマートフォンに、一件のメッセージが届いた。

『今日はありがとうございました。おかげで、仕事が予定より早く終わりました』

 送り主は、一ノ瀬冷花だった。

 続けて、もう一通。

『また明日も、よろしくお願いします』

 颯真は画面を見つめ、しばらく動けなかった。

 そして、ゆっくりと返信を打つ。

『おう! 明日も任せろ!』

 送信したあと、彼はベッドに倒れ込んだ。

「……くそ。なんなんだよ、あいつ」

 勝負では、まだ一度も勝てていない。

 なのに。

 最近は、彼女と話すだけで、調子が狂ってしまう。

 颯真はスマートフォンを枕元に置き、天井を見上げた。

「……次は絶対、勝つからな」

 そうつぶやいた声は、いつもより少しだけ優しかった。