私立星蘭学園には、ひとつの暗黙の了解がある。
一ノ瀬冷花に勝てる者はいない。
学業、運動、芸術、そして家事全般。
彼女は、あらゆる分野において完璧だった。
しかし。
「今度こそ、俺が勝つ!」
神崎颯真は、家庭科室の中央で力強く宣言した。
目の前には、卵、小麦粉、牛乳、砂糖、バター、そして新鮮な野菜。
今日の家庭科の授業は、班ごとに料理を作り、その出来栄えを競う特別授業だった。
さらに今回は、希望者による自由参加の料理対決も予定されている。
その対戦相手は、もちろん――。
「一ノ瀬冷花! 今日はお前に勝たせてもらう!」
「料理で、ですか?」
「ああ!」
冷花は調理台に並んだ食材を確認してから、颯真に視線を戻した。
「神崎くんは、料理が得意なのですか?」
「得意だ。少なくとも、昨日までの勝負よりは勝算がある」
「昨日までの勝負とは、数学と持久走のことでしょうか」
「わざわざ確認するな!」
「記録を整理していただけです」
冷花は真顔で答えた。
周囲の生徒たちが、ひそひそと話し始める。
「神崎くん、また挑戦するんだ……」
「今度は料理か。さすがに無謀じゃない?」
「一ノ瀬さん、料理も完璧だものね」
「前に生徒会の集まりで出されたお菓子、プロが作ったみたいだったし」
颯真は聞こえてくる声を無視した。
確かに、冷花の料理の腕が優れていることは知っている。
この前、彼女からもらった手作りクッキーも驚くほどおいしかった。
だが、それはそれだ。
颯真には勝算があった。
彼は家で料理をすることがある。特に、卵料理には自信があった。
ふわふわのオムレツなら、友人たちからも評判がいい。
今日の自由対決では、課題の食材を使って自由に一品を作り、先生たちに審査してもらうことになっている。
冷花が何を作ろうと、自分の得意料理で勝負すればいい。
「先生、俺はオムレツを作ります!」
「では、私は野菜を使ったオムレツにします」
「……え?」
颯真は固まった。
「どうして同じ料理なんだよ!」
「神崎くんがオムレツを作ると聞いたので、比較しやすいかと思いました」
「勝負の相手に合わせるな!」
「別の料理のほうがよかったでしょうか?」
「そういう問題じゃない!」
冷花は少しだけ首をかしげた。
「では、同じ料理で正々堂々と勝負しましょう」
「……望むところだ!」
こうして、料理対決の火ぶたが切って落とされた。
◇
「まずは卵を割って……」
颯真はボウルに卵を割り入れ、牛乳と塩を加えた。
菜箸で手早く混ぜ、熱したフライパンにバターを溶かす。
ジュッ、と小気味よい音が家庭科室に響いた。
卵液を流し入れ、箸で軽くかき混ぜながら形を整えていく。
よし。
悪くない。
火加減も完璧だ。
一方、隣の調理台では冷花が静かに作業を進めていた。
野菜を切る動作に無駄がない。
人参、ほうれん草、玉ねぎを同じくらいの大きさに切り、手際よく炒める。卵を混ぜる手つきも、火加減を調整するタイミングも見事だった。
まるで、何度も同じ料理を作ってきたかのようだ。
「……お前、本当に中学生か?」
「戸籍上も学籍上も、そうですが」
「そういう意味じゃない!」
「では、どういう意味でしょうか」
「もういい!」
颯真は自分のフライパンに集中した。
余計なことを考えるな。
相手がどれだけ器用でも、自分には自分のやり方がある。
卵が固まり始めたところで、颯真はフライパンを傾けた。
卵を手前に寄せ、形を整える。
最後に皿へ移せば――。
「よしっ!」
完成したオムレツは、きれいな楕円形だった。
表面はつややかで、焼き色もちょうどいい。
颯真は満足げにうなずいた。
「これはいける……!」
ところが。
「神崎くん、ひとつ確認してもいいですか?」
冷花の声がした。
「なんだ?」
「フライパンの火を止めるのを忘れています」
「えっ!?」
颯真が慌てて振り返る。
その瞬間、フライパンの上のオムレツがわずかに焦げた。
「あああっ!」
「火加減は最後まで気を抜かないほうがいいですね」
「誰のせいだと思ってるんだ!」
「私が声をかけたことが原因でしょうか。申し訳ありません」
「謝られると怒りにくいんだよ!」
冷花は小さくうなずいた。
「次回から気をつけます」
「次回がある前提なのか……」
颯真は肩を落とした。
それでも、オムレツ自体は十分においしそうだった。
多少の焦げ目くらい、味で挽回できる。
そう自分に言い聞かせていると、冷花が完成した料理を皿に盛りつけた。
彼女のオムレツは、野菜が色鮮やかに散りばめられ、形も美しい。
付け合わせのサラダまで、きれいに盛りつけられていた。
しかも、ドレッシングまで手作りらしい。
「……なんでサラダまで作ってるんだよ」
「野菜を切った際に、余った分を使いました」
「俺は卵で手いっぱいだったぞ」
「卵料理だけでも、十分に評価の対象になります」
冷花はそう言って、颯真の皿を見た。
「とてもきれいな形ですね」
「そ、そうか?」
「はい。手際もよかったです」
不意に褒められ、颯真は調子が狂った。
「ま、まあな! 俺は卵料理が得意だからな!」
「では、試食が楽しみです」
冷花はいつもどおりの落ち着いた口調で答えた。
しかし、その声にはほんの少しだけ、期待するような響きがあった。
颯真は気づかなかった。
◇
「それでは、試食を始めます」
家庭科担当の先生と、補助の先生二人が審査員となった。
まずは颯真のオムレツ。
先生たちは一口食べ、顔を見合わせた。
「うん、おいしいですね。卵がふんわりしています」
「味つけもちょうどいい。家庭でよく作っているのかな?」
「はい。休日に時々」
「なるほど。慣れているのがわかります」
颯真は内心で拳を握った。
よし。
いい評価だ。
これなら、勝負になる。
続いて冷花のオムレツが運ばれた。
先生たちは一口食べる。
そして――。
「……これはすごいですね」
「野菜の甘みがしっかり出ています。卵との相性もいい」
「付け合わせも含めて、全体の完成度が高いですね」
先生たちの表情が明るくなった。
冷花は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
颯真は思わず天井を仰いだ。
わかっていた。
ある程度は、予想していた。
それでも、実際に差を見せつけられると悔しい。
「勝者は、一ノ瀬さんです!」
先生の宣言が、家庭科室に響いた。
周囲から拍手が起こる。
「さすが一ノ瀬さん!」
「料理まで完璧!」
「神崎くんもすごかったけど、相手が悪かったな……」
颯真はうつむいた。
また負けた。
数学でも、持久走でも、料理でも。
どうしてこうも勝てないのか。
「神崎くん」
顔を上げると、冷花がこちらを見ていた。
「……なんだよ」
「よろしければ、あなたのオムレツをもう少しいただいてもいいですか?」
「え?」
「とてもおいしかったので」
颯真は目を丸くした。
「お、おいしいって……」
「はい。卵がふんわりしていて、塩加減もちょうどよかったです。私も、こんなふうに卵の食感を残せるように工夫してみたいと思いました」
冷花は真剣な顔で言った。
お世辞ではない。
少なくとも、颯真にはそう感じられた。
「……そ、そうか。まあ、食べたいなら、いくらでも食べていいぞ!」
「ありがとうございます」
冷花は小さく笑った。
そして、颯真のオムレツを一口食べた。
「やはり、おいしいです」
その瞬間。
颯真の顔が、一気に熱くなった。
いや、待て。
落ち着け。
相手は一ノ瀬冷花だ。
学園の女王だ。
今まで何度も勝負してきた、宿敵だ。
そんな相手に料理を褒められたからといって、浮かれてどうする。
……どうするんだ、本当に。
◇
昼休み。
颯真は友人の佐伯と一緒に弁当を食べていた。
「で、また負けたわけか」
「うるさい」
「数学、持久走、料理。三連敗だな」
「数えるな!」
「でもさ、今回はちょっと違ったんじゃないか?」
「何が?」
佐伯はにやりと笑った。
「一ノ瀬さん、お前のオムレツを気に入ってたじゃん」
「……そうだけど」
「自分の料理が勝ったのに、お前のまで食べてた。あれって、結構すごくない?」
「料理を褒めてくれただけだろ」
「ふーん?」
佐伯は意味ありげに颯真を見た。
「じゃあ、なんで顔が赤いんだ?」
「赤くない!」
「いや、赤いって」
「暑いんだよ!」
「今日は涼しいけどな」
「佐伯!」
颯真が声を上げた、そのとき。
「神崎くん」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、冷花が立っていた。
手には、小さなメモ帳を持っている。
「一ノ瀬……。どうした?」
「先ほどの料理対決について、少し相談したいことがあります」
「相談?」
「はい。神崎くんのオムレツについてです」
佐伯が、ものすごい勢いで颯真の肩をつかんだ。
「おい、颯真! 呼び出しだぞ!」
「痛い! 黙れ!」
冷花は二人のやり取りを不思議そうに見ていた。
「……何か問題がありましたか?」
「いや、何でもない!」
颯真は慌てて立ち上がった。
「それで、相談って?」
「次の料理対決の参考にしたいので、調理方法を教えていただけませんか?」
「……え?」
「特に、卵をふんわり仕上げる方法です。私の料理は、少し火を通しすぎていたかもしれません」
颯真はぽかんと口を開けた。
冷花が、自分に料理を教えてほしいと言っている。
あの、何でも完璧にこなす一ノ瀬冷花が。
「……俺が、教えるのか?」
「はい。神崎くんのほうが優れている点は、素直に学びたいと思っています」
あまりにも真っすぐな言葉だった。
勝負に負けた悔しさが、胸の奥で少しずつ別の感情に変わっていく。
颯真は、思わず笑った。
「いいぜ。教えてやるよ」
「ありがとうございます」
「ただし、次の勝負では絶対に勝つからな!」
「楽しみにしています」
冷花はそう言って、メモ帳に何かを書き込んだ。
その横顔を見ながら、颯真はふと思った。
もしかしたら。
この勝負は、ただ勝ち負けを決めるだけのものではないのかもしれない。
彼女が自分に負けないように努力するのと同じように、自分もまた、彼女の知らない一面を見つけていく。
そう考えると、次の勝負が少しだけ楽しみになった。
「……一ノ瀬」
「はい?」
「今度は、絶対に負けないからな」
冷花はメモ帳を閉じ、いつもの落ち着いた表情で答えた。
「では、私は次も勝てるように準備しておきます」
「だから、そういうところだぞ!」
佐伯の笑い声が、教室に響いた。
◇
その日の放課後。
生徒会室で、冷花は一人、料理対決の記録を整理していた。
審査結果、味つけ、調理時間、改善点。
すべてを書き終えたところで、彼女の手がふと止まる。
メモ帳の最後には、こんな一文が記されていた。
『神崎くんのオムレツは、もう一度食べたい』
「……これは、料理の記録として必要でしょうか」
冷花は首をかしげた。
味の評価としては、必要なのかもしれない。
けれど、どうして自分が、もう一度食べたいと思ったのか。
その理由までは、うまく説明できなかった。
しばらく考えたあと、冷花はその一文を消さずに残した。
「次の勝負も、楽しみですね」
誰もいない生徒会室で、彼女はほんの少しだけ微笑んだ。
その頃、廊下では。
「……一ノ瀬さんが、神崎くんに料理を教わる?」
「どういうこと?」
「もしかして、神崎くんだけは女王の特別な先生なのでは……?」
新たな噂が、ひっそりと広まり始めていた。
学園の女王と挑戦者。
二人の関係は、今日も周囲の想像を超えていく。
一ノ瀬冷花に勝てる者はいない。
学業、運動、芸術、そして家事全般。
彼女は、あらゆる分野において完璧だった。
しかし。
「今度こそ、俺が勝つ!」
神崎颯真は、家庭科室の中央で力強く宣言した。
目の前には、卵、小麦粉、牛乳、砂糖、バター、そして新鮮な野菜。
今日の家庭科の授業は、班ごとに料理を作り、その出来栄えを競う特別授業だった。
さらに今回は、希望者による自由参加の料理対決も予定されている。
その対戦相手は、もちろん――。
「一ノ瀬冷花! 今日はお前に勝たせてもらう!」
「料理で、ですか?」
「ああ!」
冷花は調理台に並んだ食材を確認してから、颯真に視線を戻した。
「神崎くんは、料理が得意なのですか?」
「得意だ。少なくとも、昨日までの勝負よりは勝算がある」
「昨日までの勝負とは、数学と持久走のことでしょうか」
「わざわざ確認するな!」
「記録を整理していただけです」
冷花は真顔で答えた。
周囲の生徒たちが、ひそひそと話し始める。
「神崎くん、また挑戦するんだ……」
「今度は料理か。さすがに無謀じゃない?」
「一ノ瀬さん、料理も完璧だものね」
「前に生徒会の集まりで出されたお菓子、プロが作ったみたいだったし」
颯真は聞こえてくる声を無視した。
確かに、冷花の料理の腕が優れていることは知っている。
この前、彼女からもらった手作りクッキーも驚くほどおいしかった。
だが、それはそれだ。
颯真には勝算があった。
彼は家で料理をすることがある。特に、卵料理には自信があった。
ふわふわのオムレツなら、友人たちからも評判がいい。
今日の自由対決では、課題の食材を使って自由に一品を作り、先生たちに審査してもらうことになっている。
冷花が何を作ろうと、自分の得意料理で勝負すればいい。
「先生、俺はオムレツを作ります!」
「では、私は野菜を使ったオムレツにします」
「……え?」
颯真は固まった。
「どうして同じ料理なんだよ!」
「神崎くんがオムレツを作ると聞いたので、比較しやすいかと思いました」
「勝負の相手に合わせるな!」
「別の料理のほうがよかったでしょうか?」
「そういう問題じゃない!」
冷花は少しだけ首をかしげた。
「では、同じ料理で正々堂々と勝負しましょう」
「……望むところだ!」
こうして、料理対決の火ぶたが切って落とされた。
◇
「まずは卵を割って……」
颯真はボウルに卵を割り入れ、牛乳と塩を加えた。
菜箸で手早く混ぜ、熱したフライパンにバターを溶かす。
ジュッ、と小気味よい音が家庭科室に響いた。
卵液を流し入れ、箸で軽くかき混ぜながら形を整えていく。
よし。
悪くない。
火加減も完璧だ。
一方、隣の調理台では冷花が静かに作業を進めていた。
野菜を切る動作に無駄がない。
人参、ほうれん草、玉ねぎを同じくらいの大きさに切り、手際よく炒める。卵を混ぜる手つきも、火加減を調整するタイミングも見事だった。
まるで、何度も同じ料理を作ってきたかのようだ。
「……お前、本当に中学生か?」
「戸籍上も学籍上も、そうですが」
「そういう意味じゃない!」
「では、どういう意味でしょうか」
「もういい!」
颯真は自分のフライパンに集中した。
余計なことを考えるな。
相手がどれだけ器用でも、自分には自分のやり方がある。
卵が固まり始めたところで、颯真はフライパンを傾けた。
卵を手前に寄せ、形を整える。
最後に皿へ移せば――。
「よしっ!」
完成したオムレツは、きれいな楕円形だった。
表面はつややかで、焼き色もちょうどいい。
颯真は満足げにうなずいた。
「これはいける……!」
ところが。
「神崎くん、ひとつ確認してもいいですか?」
冷花の声がした。
「なんだ?」
「フライパンの火を止めるのを忘れています」
「えっ!?」
颯真が慌てて振り返る。
その瞬間、フライパンの上のオムレツがわずかに焦げた。
「あああっ!」
「火加減は最後まで気を抜かないほうがいいですね」
「誰のせいだと思ってるんだ!」
「私が声をかけたことが原因でしょうか。申し訳ありません」
「謝られると怒りにくいんだよ!」
冷花は小さくうなずいた。
「次回から気をつけます」
「次回がある前提なのか……」
颯真は肩を落とした。
それでも、オムレツ自体は十分においしそうだった。
多少の焦げ目くらい、味で挽回できる。
そう自分に言い聞かせていると、冷花が完成した料理を皿に盛りつけた。
彼女のオムレツは、野菜が色鮮やかに散りばめられ、形も美しい。
付け合わせのサラダまで、きれいに盛りつけられていた。
しかも、ドレッシングまで手作りらしい。
「……なんでサラダまで作ってるんだよ」
「野菜を切った際に、余った分を使いました」
「俺は卵で手いっぱいだったぞ」
「卵料理だけでも、十分に評価の対象になります」
冷花はそう言って、颯真の皿を見た。
「とてもきれいな形ですね」
「そ、そうか?」
「はい。手際もよかったです」
不意に褒められ、颯真は調子が狂った。
「ま、まあな! 俺は卵料理が得意だからな!」
「では、試食が楽しみです」
冷花はいつもどおりの落ち着いた口調で答えた。
しかし、その声にはほんの少しだけ、期待するような響きがあった。
颯真は気づかなかった。
◇
「それでは、試食を始めます」
家庭科担当の先生と、補助の先生二人が審査員となった。
まずは颯真のオムレツ。
先生たちは一口食べ、顔を見合わせた。
「うん、おいしいですね。卵がふんわりしています」
「味つけもちょうどいい。家庭でよく作っているのかな?」
「はい。休日に時々」
「なるほど。慣れているのがわかります」
颯真は内心で拳を握った。
よし。
いい評価だ。
これなら、勝負になる。
続いて冷花のオムレツが運ばれた。
先生たちは一口食べる。
そして――。
「……これはすごいですね」
「野菜の甘みがしっかり出ています。卵との相性もいい」
「付け合わせも含めて、全体の完成度が高いですね」
先生たちの表情が明るくなった。
冷花は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
颯真は思わず天井を仰いだ。
わかっていた。
ある程度は、予想していた。
それでも、実際に差を見せつけられると悔しい。
「勝者は、一ノ瀬さんです!」
先生の宣言が、家庭科室に響いた。
周囲から拍手が起こる。
「さすが一ノ瀬さん!」
「料理まで完璧!」
「神崎くんもすごかったけど、相手が悪かったな……」
颯真はうつむいた。
また負けた。
数学でも、持久走でも、料理でも。
どうしてこうも勝てないのか。
「神崎くん」
顔を上げると、冷花がこちらを見ていた。
「……なんだよ」
「よろしければ、あなたのオムレツをもう少しいただいてもいいですか?」
「え?」
「とてもおいしかったので」
颯真は目を丸くした。
「お、おいしいって……」
「はい。卵がふんわりしていて、塩加減もちょうどよかったです。私も、こんなふうに卵の食感を残せるように工夫してみたいと思いました」
冷花は真剣な顔で言った。
お世辞ではない。
少なくとも、颯真にはそう感じられた。
「……そ、そうか。まあ、食べたいなら、いくらでも食べていいぞ!」
「ありがとうございます」
冷花は小さく笑った。
そして、颯真のオムレツを一口食べた。
「やはり、おいしいです」
その瞬間。
颯真の顔が、一気に熱くなった。
いや、待て。
落ち着け。
相手は一ノ瀬冷花だ。
学園の女王だ。
今まで何度も勝負してきた、宿敵だ。
そんな相手に料理を褒められたからといって、浮かれてどうする。
……どうするんだ、本当に。
◇
昼休み。
颯真は友人の佐伯と一緒に弁当を食べていた。
「で、また負けたわけか」
「うるさい」
「数学、持久走、料理。三連敗だな」
「数えるな!」
「でもさ、今回はちょっと違ったんじゃないか?」
「何が?」
佐伯はにやりと笑った。
「一ノ瀬さん、お前のオムレツを気に入ってたじゃん」
「……そうだけど」
「自分の料理が勝ったのに、お前のまで食べてた。あれって、結構すごくない?」
「料理を褒めてくれただけだろ」
「ふーん?」
佐伯は意味ありげに颯真を見た。
「じゃあ、なんで顔が赤いんだ?」
「赤くない!」
「いや、赤いって」
「暑いんだよ!」
「今日は涼しいけどな」
「佐伯!」
颯真が声を上げた、そのとき。
「神崎くん」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、冷花が立っていた。
手には、小さなメモ帳を持っている。
「一ノ瀬……。どうした?」
「先ほどの料理対決について、少し相談したいことがあります」
「相談?」
「はい。神崎くんのオムレツについてです」
佐伯が、ものすごい勢いで颯真の肩をつかんだ。
「おい、颯真! 呼び出しだぞ!」
「痛い! 黙れ!」
冷花は二人のやり取りを不思議そうに見ていた。
「……何か問題がありましたか?」
「いや、何でもない!」
颯真は慌てて立ち上がった。
「それで、相談って?」
「次の料理対決の参考にしたいので、調理方法を教えていただけませんか?」
「……え?」
「特に、卵をふんわり仕上げる方法です。私の料理は、少し火を通しすぎていたかもしれません」
颯真はぽかんと口を開けた。
冷花が、自分に料理を教えてほしいと言っている。
あの、何でも完璧にこなす一ノ瀬冷花が。
「……俺が、教えるのか?」
「はい。神崎くんのほうが優れている点は、素直に学びたいと思っています」
あまりにも真っすぐな言葉だった。
勝負に負けた悔しさが、胸の奥で少しずつ別の感情に変わっていく。
颯真は、思わず笑った。
「いいぜ。教えてやるよ」
「ありがとうございます」
「ただし、次の勝負では絶対に勝つからな!」
「楽しみにしています」
冷花はそう言って、メモ帳に何かを書き込んだ。
その横顔を見ながら、颯真はふと思った。
もしかしたら。
この勝負は、ただ勝ち負けを決めるだけのものではないのかもしれない。
彼女が自分に負けないように努力するのと同じように、自分もまた、彼女の知らない一面を見つけていく。
そう考えると、次の勝負が少しだけ楽しみになった。
「……一ノ瀬」
「はい?」
「今度は、絶対に負けないからな」
冷花はメモ帳を閉じ、いつもの落ち着いた表情で答えた。
「では、私は次も勝てるように準備しておきます」
「だから、そういうところだぞ!」
佐伯の笑い声が、教室に響いた。
◇
その日の放課後。
生徒会室で、冷花は一人、料理対決の記録を整理していた。
審査結果、味つけ、調理時間、改善点。
すべてを書き終えたところで、彼女の手がふと止まる。
メモ帳の最後には、こんな一文が記されていた。
『神崎くんのオムレツは、もう一度食べたい』
「……これは、料理の記録として必要でしょうか」
冷花は首をかしげた。
味の評価としては、必要なのかもしれない。
けれど、どうして自分が、もう一度食べたいと思ったのか。
その理由までは、うまく説明できなかった。
しばらく考えたあと、冷花はその一文を消さずに残した。
「次の勝負も、楽しみですね」
誰もいない生徒会室で、彼女はほんの少しだけ微笑んだ。
その頃、廊下では。
「……一ノ瀬さんが、神崎くんに料理を教わる?」
「どういうこと?」
「もしかして、神崎くんだけは女王の特別な先生なのでは……?」
新たな噂が、ひっそりと広まり始めていた。
学園の女王と挑戦者。
二人の関係は、今日も周囲の想像を超えていく。



