星蘭学園、中等部。
午前八時二十分。
「……聞いた?」
「聞いたって、何を?」
「一ノ瀬会長の話よ」
登校してきた女子生徒たちが、廊下の隅で声をひそめていた。
「昨日、会長が一年生に微笑みかけたらしいの」
「えっ……?」
「しかも、わざわざ足を止めて声をかけたんですって」
「そ、それって……!」
二人は顔を見合わせた。
星蘭学園において、一ノ瀬冷花が誰かに微笑みかけるというのは、めったにない出来事だった。
もちろん、彼女が笑わないわけではない。
ただ、喜怒哀楽が表情に出にくいだけである。
それでも、彼女が微笑んだとなれば話は別だった。
「何か、大変なことが起こるんじゃ……」
「もしかして、あの一年生、何かやらかしたのかな?」
「まさか、生徒会から呼び出し……?」
噂は、瞬く間に学園中へ広がっていった。
そして、その噂の中心にいる少女はというと――。
*
「おはようございます」
冷花は、いつもどおり登校していた。
廊下を歩くと、生徒たちが一斉に道を空ける。
いつもと同じ光景だ。
しかし、今日は少し違った。
「お、おはようございます、会長!」
「おはようございます」
「し、失礼します!」
挨拶をした生徒が、なぜか逃げるように立ち去っていく。
冷花は足を止めた。
「……?」
何か、いつもと違うことがあっただろうか。
制服に乱れはない。
生徒会長の腕章も、きちんと身につけている。
昨日の生徒会活動にも、特に問題はなかったはずだ。
「不思議ですね」
冷花は小さくつぶやき、再び歩き始めた。
そのとき。
「おーい、一ノ瀬!」
聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、颯真がこちらへ駆け寄ってくる。
「おはようございます、神崎くん」
「おう! ……って、なんか今日、妙じゃないか?」
「妙、とは?」
「いや、ほら。みんな、お前を見ると逃げていくじゃん」
「いつものことではありませんか?」
「いや、いつもよりひどいだろ!」
颯真は周囲を見回した。
確かに、冷花の姿を見た生徒たちは、必要以上に緊張しているようだった。
しかも、こちらを見ながら何やらひそひそと話している。
「……なあ、一ノ瀬。お前、昨日何かしたか?」
「特に思い当たることはありません」
「本当に?」
「はい」
冷花は、きっぱりと答えた。
颯真は腕を組んで考え込む。
昨日の冷花は、放課後に生徒会の仕事をしていたはずだ。
少なくとも、自分が知る限り、誰かを怒らせるようなことはしていない。
となると――。
「……あっ!」
颯真は、何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば昨日、クッキーをもらったときに、お前が言ってたよな」
「何をでしょうか?」
「俺のこと、嫌いじゃないって!」
「はい。そう申し上げました」
「いや、そこは普通に否定しろよ!」
「なぜですか?」
「……もういい」
颯真は頭を抱えた。
この女と話していると、時々、自分の常識が間違っているような気がしてくる。
しかし、今日の噂とは関係なさそうだ。
颯真が考え込んでいると、冷花がふと口を開いた。
「神崎くん」
「ん?」
「昨日、私が一年生に微笑みかけたという話を聞きましたか?」
「……は?」
颯真は目を丸くした。
「いや、聞いてないけど。なんだそれ?」
「今朝から、そのような視線を向けられることが増えています」
「ああ、だから妙な雰囲気なのか……」
颯真は納得した。
しかし、次の瞬間。
「でも、お前が一年生に微笑んだって?」
「はい。昨日、廊下で困っていた生徒に声をかけました」
「……それだけ?」
「はい」
颯真は数秒間、冷花を見つめた。
それから、深いため息をついた。
「……あー、なるほど」
「何かわかったのですか?」
「いや、たぶん、みんなが勝手に勘違いしてるだけだ」
「勘違い?」
「そう。お前が誰かに笑いかけるなんて珍しいから、何か裏があるんじゃないかって思ってるんだろ」
「……笑顔に、そのような意味があるのでしょうか?」
「普通はないんだよ!」
颯真の声が廊下に響いた。
周囲の生徒たちがびくりと肩を震わせる。
「か、神崎くんが会長に怒鳴った……!」
「お、終わった……!」
「神崎家と一ノ瀬家の間で何かが……!」
「いや、なんでそうなるんだよ!」
颯真は思わず叫んだ。
冷花は、そんな彼をじっと見つめていた。
「神崎くん」
「……なんだよ」
「あなたは、よく声が通りますね」
「今、そこを褒めるところじゃないだろ!」
*
午前九時。
中等部一年生の教室では、ある少女が机に突っ伏していた。
名前は、白石美咲。
昨日、廊下で冷花に声をかけられた一年生である。
「はあ……どうしよう……」
美咲は頭を抱えていた。
昨日の放課後。
彼女は生徒会室へ提出する書類を運んでいた。
ところが、廊下で書類を落としてしまったのだ。
慌てて拾おうとしたところ、通りかかった冷花が足を止めた。
『大丈夫ですか?』
そう言って、冷花は一緒に書類を拾ってくれた。
そして、最後に。
『困ったときは、遠慮せずに周囲の人に助けを求めてくださいね』
そう言って、微笑んでくれたのである。
美咲にとって、それはとても優しい出来事だった。
学園に入学してから、冷花はずっと遠い存在だった。
何でもできて、誰からも一目置かれている。
自分とは住む世界が違う人。
そう思っていた。
だからこそ、あの微笑みがうれしかった。
ところが、今朝になって事態は一変した。
「白石さん!」
「は、はいっ!?」
クラスメイトが駆け寄ってきた。
「昨日、一ノ瀬会長に呼び止められたって本当?」
「えっ? あ、うん……」
「何を言われたの?」
「何って……書類を拾ってもらっただけだけど」
「それだけ?」
「うん。あと、困ったときは周りに助けを求めていいって……」
その瞬間、クラスメイトの表情が変わった。
「……やっぱり」
「え?」
「会長、白石さんに何か期待してるんじゃない?」
「そ、そんなわけないよ!」
「でも、わざわざ微笑みかけたんでしょ?」
「ええっ!?」
美咲は顔を真っ赤にした。
「ち、違うよ! 会長は普通に親切にしてくれただけで……!」
しかし、彼女の言葉は誰にも届かなかった。
その日の午前中、白石美咲は「一ノ瀬会長に見いだされた期待の一年生」という、本人も知らない肩書きを与えられることになった。
*
昼休み。
颯真は、購買で買ったパンを片手に、冷花を探していた。
今朝から広がっている噂を何とかしなければならない。
放っておけば、無関係な一年生まで巻き込まれてしまう。
それに何より――。
「……あいつ、絶対に自分が何をしたのかわかってないよな」
颯真はため息をついた。
冷花に悪意がないことは知っている。
だが、彼女の何気ない行動が、周囲にどれほど大きな影響を与えるのか。
それを、本人はほとんど理解していない。
ようやく生徒会室の前にたどり着くと、扉の向こうから声が聞こえてきた。
「一ノ瀬会長。こちらの書類について、確認をお願いします」
「わかりました」
颯真はノックをした。
「入るぞー!」
「どうぞ」
扉を開けると、冷花が机に向かっていた。
その向かいには、生徒会役員の女子生徒が一人座っている。
「神崎くん。どうしましたか?」
「どうしたもこうしたもない! お前、今の噂を何とかしろ!」
「噂、ですか?」
「そうだよ! お前が一年生に微笑みかけたってだけで、学園中が大騒ぎなんだぞ!」
冷花は少し考えた。
「……そうですか」
「そうですか、じゃない!」
「しかし、私は特に問題のある行動をしたつもりはありません」
「だから、それはわかってるって!」
颯真は深呼吸した。
怒っても仕方がない。
冷花は本当に、何が問題なのかわかっていないのだ。
「いいか、一ノ瀬。お前が悪いわけじゃない。でも、周りのやつらは、お前のことを怖がってるんだ」
「それは、以前から承知しています」
「だったら!」
「ですが、私が誰かに親切にすることまで、控える必要があるのでしょうか?」
颯真は言葉を失った。
冷花の声は、いつもどおり落ち着いていた。
けれど、その言葉には、はっきりとした意思があった。
「私は、生徒会長として、困っている生徒を助けるべきだと考えています。それに、相手が一年生であろうと、三年生であろうと、対応を変えるつもりはありません」
「……一ノ瀬」
「笑顔が誤解されるからといって、笑わないようにするのは、適切ではないと思います」
颯真は、しばらく黙っていた。
彼女は周囲から恐れられている。
それを知っていて、気にしていないように見えた。
しかし、本当は違ったのかもしれない。
周囲の反応を気にしていないのではない。
周囲にどう思われようと、自分が正しいと思うことを変えないだけなのだ。
颯真は、ふっと笑った。
「……そうだな」
「はい?」
「いや、お前が笑うのをやめる必要なんてないよ」
冷花は目を瞬かせた。
「ただ、誤解されたままなのは困るだろ。だから、俺が説明してくる」
「神崎くんが?」
「おう。お前が一年生を脅したわけじゃないって、ちゃんと説明すればいいんだろ?」
「脅したつもりはありませんが」
「わかってるよ!」
颯真は勢いよく生徒会室を出ていこうとした。
しかし、扉の前で足を止める。
「……あ、そうだ」
「何でしょうか?」
「お前、今度から一年生に声をかけるとき、もうちょっと柔らかい言い方をしたらどうだ?」
「柔らかい言い方、ですか?」
「そう! 例えば、『大丈夫ですか?』って聞くときも、ちょっと笑顔を見せるとか……」
「昨日も笑顔で声をかけましたが」
「……ああ、そうだった」
颯真は頭を抱えた。
「くそっ……! 難しいな、お前!」
「申し訳ありません。私も、改善方法を考えてみます」
「いや、謝らなくていいんだよ!」
冷花は真剣な表情でうなずいた。
「わかりました。では、神崎くん」
「ん?」
「今後、私が誰かと話すとき、あなたに確認をお願いしてもよいでしょうか?」
「……は?」
「私の言葉や表情が、相手にどのような印象を与えるのか。あなたなら、率直に教えてくれると思います」
颯真は、ぽかんとした。
それはつまり。
冷花が、自分を頼ってくれたということなのだろうか。
「……お、おう。まあ、俺でよければ」
「ありがとうございます」
冷花は、静かに頭を下げた。
その姿を見た颯真は、なぜか胸の奥がむずむずした。
勝負に勝ったわけでもない。
褒められたわけでもない。
なのに、妙にうれしかった。
「……ま、任せとけ! 俺がお前を、普通の女の子にしてやる!」
「……普通の女の子?」
「いや、今のは忘れろ!」
颯真は顔を赤くしながら、慌てて生徒会室を飛び出した。
冷花は、閉じた扉をしばらく見つめていた。
「……普通の女の子、ですか」
彼女は小さく首を傾げた。
*
放課後。
颯真は、白石美咲のクラスを訪ねていた。
「えっと……白石さん、いる?」
「は、はいっ!」
声をかけられた美咲は、椅子から飛び上がった。
目の前にいるのは、学園一のイケメンと呼ばれる神崎颯真。
そんな彼に突然話しかけられれば、誰だって驚く。
「ちょっと、話があるんだけど」
「わ、私にですか!?」
「うん。昨日、一ノ瀬に会ったんだって?」
「は、はい……!」
美咲は緊張で背筋を伸ばした。
まさか、あの噂について何か聞かれるのだろうか。
もしかして、自分が会長に何か失礼なことをしてしまったのか。
不安が膨らんでいく。
颯真は、そんな美咲の様子を見て慌てて手を振った。
「いや、別に怒ってるわけじゃないから! むしろ逆!」
「……逆?」
「一ノ瀬は、君が困ってたから助けただけなんだ。別に、何かを命令したり、処分したりするつもりなんてない」
「……え?」
美咲は、ぽかんとした。
「それに、あいつは……一ノ瀬は、思ってるほど怖い人じゃないんだ」
颯真は少し考えてから、続けた。
「確かに、無表情だし、言い方も淡々としてるけどさ。でも、困ってるやつを放っておくような人じゃない。だから、あんまり気にしなくていいよ」
美咲は、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
「よし。じゃあ、噂のことは気にしないで、普通に学校生活を送ってくれ」
「わかりました。ありがとうございます、神崎先輩!」
「先輩って……同じ二年生じゃないぞ、俺」
「あっ! す、すみません!」
「ははっ。いいよ、気にすんな」
颯真は笑って手を振った。
その笑顔を見た美咲は、ふと思った。
神崎先輩は、一ノ瀬会長のことをよく知っている。
きっと、誰よりも彼女のことを理解しているのだろう。
「……あの、神崎先輩」
「ん?」
「神崎先輩は、一ノ瀬会長のことが好きなんですか?」
「…………は?」
颯真の顔が固まった。
美咲は、慌てて両手を振った。
「す、すみません! 変なこと聞いて!」
「い、いや! 違うから! 俺は、あいつに勝ちたいだけだから!」
「……勝ちたい?」
「そう! 何をやっても勝てないから、勝ちたいんだよ!」
颯真は力説した。
美咲はしばらく考え込んでから、にっこりと笑った。
「そうなんですね。頑張ってください!」
「お、おう……」
颯真は、なぜか釈然としない気持ちになった。
どうして、会う人会う人に同じことを聞かれるのだろう。
自分はただ、冷花に勝ちたいだけなのに。
……本当に、それだけなのだろうか。
颯真は、ふと考えた。
昨日、冷花からクッキーをもらったとき。
今日、彼女が自分を頼ってくれたとき。
どちらも、思っていた以上にうれしかった。
「…………」
いや、違う。
これは、あくまで勝負の相手として認められたからだ。
そうに決まっている。
「よし!」
颯真は気合いを入れ直した。
次の勝負こそ、絶対に勝つ。
そのためにも、もっと冷花のことを知らなければならない。
……そう考えることにした。
*
翌朝。
星蘭学園の廊下では、昨日までの噂が少しずつ落ち着き始めていた。
白石美咲が「会長は親切にしてくれただけ」と周囲に説明したこともあり、生徒たちもようやく冷静になってきたのだ。
もっとも、冷花に対する畏怖がなくなったわけではない。
彼女が廊下を歩けば、相変わらず生徒たちは道を空ける。
しかし、その日の朝。
冷花は、廊下で一年生の少女とすれ違った。
少女は緊張した様子で立ち止まり、ぺこりと頭を下げた。
「お、おはようございます、会長!」
「おはようございます」
冷花は足を止めた。
そして、颯真に教わったことを思い出す。
相手がどう受け取るか。
自分の表情が、どんな印象を与えるか。
ほんの少しだけ、口元を緩めてみる。
「今日も、頑張ってくださいね」
「…………っ!」
少女は目を見開いた。
そして、顔を真っ赤にしながら、勢いよく走り去っていった。
「……?」
冷花は首を傾げた。
今度は、何か問題があったのだろうか。
その様子を、少し離れた場所から見ていた颯真が頭を抱えた。
「おいおい……!」
どうやら、まだまだ先は長そうだ。
冷花が周囲と普通に接することができるようになるまで。
そして、自分が彼女の特別な存在になるまで。
颯真の挑戦は、これからも続いていく。
ただ一つ、冷花が微笑みかけた少女が、教室に戻るなりこう叫んだことだけは、彼は知らなかった。
「みんな聞いて! 一ノ瀬会長が、私に『今日も頑張って』って言ってくれたの!」
「「「えええええっ!?」」」
――女王の微笑みは、今日も学園を揺るがしていた。
午前八時二十分。
「……聞いた?」
「聞いたって、何を?」
「一ノ瀬会長の話よ」
登校してきた女子生徒たちが、廊下の隅で声をひそめていた。
「昨日、会長が一年生に微笑みかけたらしいの」
「えっ……?」
「しかも、わざわざ足を止めて声をかけたんですって」
「そ、それって……!」
二人は顔を見合わせた。
星蘭学園において、一ノ瀬冷花が誰かに微笑みかけるというのは、めったにない出来事だった。
もちろん、彼女が笑わないわけではない。
ただ、喜怒哀楽が表情に出にくいだけである。
それでも、彼女が微笑んだとなれば話は別だった。
「何か、大変なことが起こるんじゃ……」
「もしかして、あの一年生、何かやらかしたのかな?」
「まさか、生徒会から呼び出し……?」
噂は、瞬く間に学園中へ広がっていった。
そして、その噂の中心にいる少女はというと――。
*
「おはようございます」
冷花は、いつもどおり登校していた。
廊下を歩くと、生徒たちが一斉に道を空ける。
いつもと同じ光景だ。
しかし、今日は少し違った。
「お、おはようございます、会長!」
「おはようございます」
「し、失礼します!」
挨拶をした生徒が、なぜか逃げるように立ち去っていく。
冷花は足を止めた。
「……?」
何か、いつもと違うことがあっただろうか。
制服に乱れはない。
生徒会長の腕章も、きちんと身につけている。
昨日の生徒会活動にも、特に問題はなかったはずだ。
「不思議ですね」
冷花は小さくつぶやき、再び歩き始めた。
そのとき。
「おーい、一ノ瀬!」
聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、颯真がこちらへ駆け寄ってくる。
「おはようございます、神崎くん」
「おう! ……って、なんか今日、妙じゃないか?」
「妙、とは?」
「いや、ほら。みんな、お前を見ると逃げていくじゃん」
「いつものことではありませんか?」
「いや、いつもよりひどいだろ!」
颯真は周囲を見回した。
確かに、冷花の姿を見た生徒たちは、必要以上に緊張しているようだった。
しかも、こちらを見ながら何やらひそひそと話している。
「……なあ、一ノ瀬。お前、昨日何かしたか?」
「特に思い当たることはありません」
「本当に?」
「はい」
冷花は、きっぱりと答えた。
颯真は腕を組んで考え込む。
昨日の冷花は、放課後に生徒会の仕事をしていたはずだ。
少なくとも、自分が知る限り、誰かを怒らせるようなことはしていない。
となると――。
「……あっ!」
颯真は、何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば昨日、クッキーをもらったときに、お前が言ってたよな」
「何をでしょうか?」
「俺のこと、嫌いじゃないって!」
「はい。そう申し上げました」
「いや、そこは普通に否定しろよ!」
「なぜですか?」
「……もういい」
颯真は頭を抱えた。
この女と話していると、時々、自分の常識が間違っているような気がしてくる。
しかし、今日の噂とは関係なさそうだ。
颯真が考え込んでいると、冷花がふと口を開いた。
「神崎くん」
「ん?」
「昨日、私が一年生に微笑みかけたという話を聞きましたか?」
「……は?」
颯真は目を丸くした。
「いや、聞いてないけど。なんだそれ?」
「今朝から、そのような視線を向けられることが増えています」
「ああ、だから妙な雰囲気なのか……」
颯真は納得した。
しかし、次の瞬間。
「でも、お前が一年生に微笑んだって?」
「はい。昨日、廊下で困っていた生徒に声をかけました」
「……それだけ?」
「はい」
颯真は数秒間、冷花を見つめた。
それから、深いため息をついた。
「……あー、なるほど」
「何かわかったのですか?」
「いや、たぶん、みんなが勝手に勘違いしてるだけだ」
「勘違い?」
「そう。お前が誰かに笑いかけるなんて珍しいから、何か裏があるんじゃないかって思ってるんだろ」
「……笑顔に、そのような意味があるのでしょうか?」
「普通はないんだよ!」
颯真の声が廊下に響いた。
周囲の生徒たちがびくりと肩を震わせる。
「か、神崎くんが会長に怒鳴った……!」
「お、終わった……!」
「神崎家と一ノ瀬家の間で何かが……!」
「いや、なんでそうなるんだよ!」
颯真は思わず叫んだ。
冷花は、そんな彼をじっと見つめていた。
「神崎くん」
「……なんだよ」
「あなたは、よく声が通りますね」
「今、そこを褒めるところじゃないだろ!」
*
午前九時。
中等部一年生の教室では、ある少女が机に突っ伏していた。
名前は、白石美咲。
昨日、廊下で冷花に声をかけられた一年生である。
「はあ……どうしよう……」
美咲は頭を抱えていた。
昨日の放課後。
彼女は生徒会室へ提出する書類を運んでいた。
ところが、廊下で書類を落としてしまったのだ。
慌てて拾おうとしたところ、通りかかった冷花が足を止めた。
『大丈夫ですか?』
そう言って、冷花は一緒に書類を拾ってくれた。
そして、最後に。
『困ったときは、遠慮せずに周囲の人に助けを求めてくださいね』
そう言って、微笑んでくれたのである。
美咲にとって、それはとても優しい出来事だった。
学園に入学してから、冷花はずっと遠い存在だった。
何でもできて、誰からも一目置かれている。
自分とは住む世界が違う人。
そう思っていた。
だからこそ、あの微笑みがうれしかった。
ところが、今朝になって事態は一変した。
「白石さん!」
「は、はいっ!?」
クラスメイトが駆け寄ってきた。
「昨日、一ノ瀬会長に呼び止められたって本当?」
「えっ? あ、うん……」
「何を言われたの?」
「何って……書類を拾ってもらっただけだけど」
「それだけ?」
「うん。あと、困ったときは周りに助けを求めていいって……」
その瞬間、クラスメイトの表情が変わった。
「……やっぱり」
「え?」
「会長、白石さんに何か期待してるんじゃない?」
「そ、そんなわけないよ!」
「でも、わざわざ微笑みかけたんでしょ?」
「ええっ!?」
美咲は顔を真っ赤にした。
「ち、違うよ! 会長は普通に親切にしてくれただけで……!」
しかし、彼女の言葉は誰にも届かなかった。
その日の午前中、白石美咲は「一ノ瀬会長に見いだされた期待の一年生」という、本人も知らない肩書きを与えられることになった。
*
昼休み。
颯真は、購買で買ったパンを片手に、冷花を探していた。
今朝から広がっている噂を何とかしなければならない。
放っておけば、無関係な一年生まで巻き込まれてしまう。
それに何より――。
「……あいつ、絶対に自分が何をしたのかわかってないよな」
颯真はため息をついた。
冷花に悪意がないことは知っている。
だが、彼女の何気ない行動が、周囲にどれほど大きな影響を与えるのか。
それを、本人はほとんど理解していない。
ようやく生徒会室の前にたどり着くと、扉の向こうから声が聞こえてきた。
「一ノ瀬会長。こちらの書類について、確認をお願いします」
「わかりました」
颯真はノックをした。
「入るぞー!」
「どうぞ」
扉を開けると、冷花が机に向かっていた。
その向かいには、生徒会役員の女子生徒が一人座っている。
「神崎くん。どうしましたか?」
「どうしたもこうしたもない! お前、今の噂を何とかしろ!」
「噂、ですか?」
「そうだよ! お前が一年生に微笑みかけたってだけで、学園中が大騒ぎなんだぞ!」
冷花は少し考えた。
「……そうですか」
「そうですか、じゃない!」
「しかし、私は特に問題のある行動をしたつもりはありません」
「だから、それはわかってるって!」
颯真は深呼吸した。
怒っても仕方がない。
冷花は本当に、何が問題なのかわかっていないのだ。
「いいか、一ノ瀬。お前が悪いわけじゃない。でも、周りのやつらは、お前のことを怖がってるんだ」
「それは、以前から承知しています」
「だったら!」
「ですが、私が誰かに親切にすることまで、控える必要があるのでしょうか?」
颯真は言葉を失った。
冷花の声は、いつもどおり落ち着いていた。
けれど、その言葉には、はっきりとした意思があった。
「私は、生徒会長として、困っている生徒を助けるべきだと考えています。それに、相手が一年生であろうと、三年生であろうと、対応を変えるつもりはありません」
「……一ノ瀬」
「笑顔が誤解されるからといって、笑わないようにするのは、適切ではないと思います」
颯真は、しばらく黙っていた。
彼女は周囲から恐れられている。
それを知っていて、気にしていないように見えた。
しかし、本当は違ったのかもしれない。
周囲の反応を気にしていないのではない。
周囲にどう思われようと、自分が正しいと思うことを変えないだけなのだ。
颯真は、ふっと笑った。
「……そうだな」
「はい?」
「いや、お前が笑うのをやめる必要なんてないよ」
冷花は目を瞬かせた。
「ただ、誤解されたままなのは困るだろ。だから、俺が説明してくる」
「神崎くんが?」
「おう。お前が一年生を脅したわけじゃないって、ちゃんと説明すればいいんだろ?」
「脅したつもりはありませんが」
「わかってるよ!」
颯真は勢いよく生徒会室を出ていこうとした。
しかし、扉の前で足を止める。
「……あ、そうだ」
「何でしょうか?」
「お前、今度から一年生に声をかけるとき、もうちょっと柔らかい言い方をしたらどうだ?」
「柔らかい言い方、ですか?」
「そう! 例えば、『大丈夫ですか?』って聞くときも、ちょっと笑顔を見せるとか……」
「昨日も笑顔で声をかけましたが」
「……ああ、そうだった」
颯真は頭を抱えた。
「くそっ……! 難しいな、お前!」
「申し訳ありません。私も、改善方法を考えてみます」
「いや、謝らなくていいんだよ!」
冷花は真剣な表情でうなずいた。
「わかりました。では、神崎くん」
「ん?」
「今後、私が誰かと話すとき、あなたに確認をお願いしてもよいでしょうか?」
「……は?」
「私の言葉や表情が、相手にどのような印象を与えるのか。あなたなら、率直に教えてくれると思います」
颯真は、ぽかんとした。
それはつまり。
冷花が、自分を頼ってくれたということなのだろうか。
「……お、おう。まあ、俺でよければ」
「ありがとうございます」
冷花は、静かに頭を下げた。
その姿を見た颯真は、なぜか胸の奥がむずむずした。
勝負に勝ったわけでもない。
褒められたわけでもない。
なのに、妙にうれしかった。
「……ま、任せとけ! 俺がお前を、普通の女の子にしてやる!」
「……普通の女の子?」
「いや、今のは忘れろ!」
颯真は顔を赤くしながら、慌てて生徒会室を飛び出した。
冷花は、閉じた扉をしばらく見つめていた。
「……普通の女の子、ですか」
彼女は小さく首を傾げた。
*
放課後。
颯真は、白石美咲のクラスを訪ねていた。
「えっと……白石さん、いる?」
「は、はいっ!」
声をかけられた美咲は、椅子から飛び上がった。
目の前にいるのは、学園一のイケメンと呼ばれる神崎颯真。
そんな彼に突然話しかけられれば、誰だって驚く。
「ちょっと、話があるんだけど」
「わ、私にですか!?」
「うん。昨日、一ノ瀬に会ったんだって?」
「は、はい……!」
美咲は緊張で背筋を伸ばした。
まさか、あの噂について何か聞かれるのだろうか。
もしかして、自分が会長に何か失礼なことをしてしまったのか。
不安が膨らんでいく。
颯真は、そんな美咲の様子を見て慌てて手を振った。
「いや、別に怒ってるわけじゃないから! むしろ逆!」
「……逆?」
「一ノ瀬は、君が困ってたから助けただけなんだ。別に、何かを命令したり、処分したりするつもりなんてない」
「……え?」
美咲は、ぽかんとした。
「それに、あいつは……一ノ瀬は、思ってるほど怖い人じゃないんだ」
颯真は少し考えてから、続けた。
「確かに、無表情だし、言い方も淡々としてるけどさ。でも、困ってるやつを放っておくような人じゃない。だから、あんまり気にしなくていいよ」
美咲は、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
「よし。じゃあ、噂のことは気にしないで、普通に学校生活を送ってくれ」
「わかりました。ありがとうございます、神崎先輩!」
「先輩って……同じ二年生じゃないぞ、俺」
「あっ! す、すみません!」
「ははっ。いいよ、気にすんな」
颯真は笑って手を振った。
その笑顔を見た美咲は、ふと思った。
神崎先輩は、一ノ瀬会長のことをよく知っている。
きっと、誰よりも彼女のことを理解しているのだろう。
「……あの、神崎先輩」
「ん?」
「神崎先輩は、一ノ瀬会長のことが好きなんですか?」
「…………は?」
颯真の顔が固まった。
美咲は、慌てて両手を振った。
「す、すみません! 変なこと聞いて!」
「い、いや! 違うから! 俺は、あいつに勝ちたいだけだから!」
「……勝ちたい?」
「そう! 何をやっても勝てないから、勝ちたいんだよ!」
颯真は力説した。
美咲はしばらく考え込んでから、にっこりと笑った。
「そうなんですね。頑張ってください!」
「お、おう……」
颯真は、なぜか釈然としない気持ちになった。
どうして、会う人会う人に同じことを聞かれるのだろう。
自分はただ、冷花に勝ちたいだけなのに。
……本当に、それだけなのだろうか。
颯真は、ふと考えた。
昨日、冷花からクッキーをもらったとき。
今日、彼女が自分を頼ってくれたとき。
どちらも、思っていた以上にうれしかった。
「…………」
いや、違う。
これは、あくまで勝負の相手として認められたからだ。
そうに決まっている。
「よし!」
颯真は気合いを入れ直した。
次の勝負こそ、絶対に勝つ。
そのためにも、もっと冷花のことを知らなければならない。
……そう考えることにした。
*
翌朝。
星蘭学園の廊下では、昨日までの噂が少しずつ落ち着き始めていた。
白石美咲が「会長は親切にしてくれただけ」と周囲に説明したこともあり、生徒たちもようやく冷静になってきたのだ。
もっとも、冷花に対する畏怖がなくなったわけではない。
彼女が廊下を歩けば、相変わらず生徒たちは道を空ける。
しかし、その日の朝。
冷花は、廊下で一年生の少女とすれ違った。
少女は緊張した様子で立ち止まり、ぺこりと頭を下げた。
「お、おはようございます、会長!」
「おはようございます」
冷花は足を止めた。
そして、颯真に教わったことを思い出す。
相手がどう受け取るか。
自分の表情が、どんな印象を与えるか。
ほんの少しだけ、口元を緩めてみる。
「今日も、頑張ってくださいね」
「…………っ!」
少女は目を見開いた。
そして、顔を真っ赤にしながら、勢いよく走り去っていった。
「……?」
冷花は首を傾げた。
今度は、何か問題があったのだろうか。
その様子を、少し離れた場所から見ていた颯真が頭を抱えた。
「おいおい……!」
どうやら、まだまだ先は長そうだ。
冷花が周囲と普通に接することができるようになるまで。
そして、自分が彼女の特別な存在になるまで。
颯真の挑戦は、これからも続いていく。
ただ一つ、冷花が微笑みかけた少女が、教室に戻るなりこう叫んだことだけは、彼は知らなかった。
「みんな聞いて! 一ノ瀬会長が、私に『今日も頑張って』って言ってくれたの!」
「「「えええええっ!?」」」
――女王の微笑みは、今日も学園を揺るがしていた。



