学園の女王とイケメン王子様

 星蘭学園、中等部。

 午前八時二十分。

「……聞いた?」

「聞いたって、何を?」

「一ノ瀬会長の話よ」

 登校してきた女子生徒たちが、廊下の隅で声をひそめていた。

「昨日、会長が一年生に微笑みかけたらしいの」

「えっ……?」

「しかも、わざわざ足を止めて声をかけたんですって」

「そ、それって……!」

 二人は顔を見合わせた。

 星蘭学園において、一ノ瀬冷花が誰かに微笑みかけるというのは、めったにない出来事だった。

 もちろん、彼女が笑わないわけではない。

 ただ、喜怒哀楽が表情に出にくいだけである。

 それでも、彼女が微笑んだとなれば話は別だった。

「何か、大変なことが起こるんじゃ……」

「もしかして、あの一年生、何かやらかしたのかな?」

「まさか、生徒会から呼び出し……?」

 噂は、瞬く間に学園中へ広がっていった。

 そして、その噂の中心にいる少女はというと――。

     *

「おはようございます」

 冷花は、いつもどおり登校していた。

 廊下を歩くと、生徒たちが一斉に道を空ける。

 いつもと同じ光景だ。

 しかし、今日は少し違った。

「お、おはようございます、会長!」

「おはようございます」

「し、失礼します!」

 挨拶をした生徒が、なぜか逃げるように立ち去っていく。

 冷花は足を止めた。

「……?」

 何か、いつもと違うことがあっただろうか。

 制服に乱れはない。

 生徒会長の腕章も、きちんと身につけている。

 昨日の生徒会活動にも、特に問題はなかったはずだ。

「不思議ですね」

 冷花は小さくつぶやき、再び歩き始めた。

 そのとき。

「おーい、一ノ瀬!」

 聞き慣れた声が響いた。

 振り返ると、颯真がこちらへ駆け寄ってくる。

「おはようございます、神崎くん」

「おう! ……って、なんか今日、妙じゃないか?」

「妙、とは?」

「いや、ほら。みんな、お前を見ると逃げていくじゃん」

「いつものことではありませんか?」

「いや、いつもよりひどいだろ!」

 颯真は周囲を見回した。

 確かに、冷花の姿を見た生徒たちは、必要以上に緊張しているようだった。

 しかも、こちらを見ながら何やらひそひそと話している。

「……なあ、一ノ瀬。お前、昨日何かしたか?」

「特に思い当たることはありません」

「本当に?」

「はい」

 冷花は、きっぱりと答えた。

 颯真は腕を組んで考え込む。

 昨日の冷花は、放課後に生徒会の仕事をしていたはずだ。

 少なくとも、自分が知る限り、誰かを怒らせるようなことはしていない。

 となると――。

「……あっ!」

 颯真は、何かを思い出したように顔を上げた。

「そういえば昨日、クッキーをもらったときに、お前が言ってたよな」

「何をでしょうか?」

「俺のこと、嫌いじゃないって!」

「はい。そう申し上げました」

「いや、そこは普通に否定しろよ!」

「なぜですか?」

「……もういい」

 颯真は頭を抱えた。

 この女と話していると、時々、自分の常識が間違っているような気がしてくる。

 しかし、今日の噂とは関係なさそうだ。

 颯真が考え込んでいると、冷花がふと口を開いた。

「神崎くん」

「ん?」

「昨日、私が一年生に微笑みかけたという話を聞きましたか?」

「……は?」

 颯真は目を丸くした。

「いや、聞いてないけど。なんだそれ?」

「今朝から、そのような視線を向けられることが増えています」

「ああ、だから妙な雰囲気なのか……」

 颯真は納得した。

 しかし、次の瞬間。

「でも、お前が一年生に微笑んだって?」

「はい。昨日、廊下で困っていた生徒に声をかけました」

「……それだけ?」

「はい」

 颯真は数秒間、冷花を見つめた。

 それから、深いため息をついた。

「……あー、なるほど」

「何かわかったのですか?」

「いや、たぶん、みんなが勝手に勘違いしてるだけだ」

「勘違い?」

「そう。お前が誰かに笑いかけるなんて珍しいから、何か裏があるんじゃないかって思ってるんだろ」

「……笑顔に、そのような意味があるのでしょうか?」

「普通はないんだよ!」

 颯真の声が廊下に響いた。

 周囲の生徒たちがびくりと肩を震わせる。

「か、神崎くんが会長に怒鳴った……!」

「お、終わった……!」

「神崎家と一ノ瀬家の間で何かが……!」

「いや、なんでそうなるんだよ!」

 颯真は思わず叫んだ。

 冷花は、そんな彼をじっと見つめていた。

「神崎くん」

「……なんだよ」

「あなたは、よく声が通りますね」

「今、そこを褒めるところじゃないだろ!」

     *

 午前九時。

 中等部一年生の教室では、ある少女が机に突っ伏していた。

 名前は、白石美咲。

 昨日、廊下で冷花に声をかけられた一年生である。

「はあ……どうしよう……」

 美咲は頭を抱えていた。

 昨日の放課後。

 彼女は生徒会室へ提出する書類を運んでいた。

 ところが、廊下で書類を落としてしまったのだ。

 慌てて拾おうとしたところ、通りかかった冷花が足を止めた。

『大丈夫ですか?』

 そう言って、冷花は一緒に書類を拾ってくれた。

 そして、最後に。

『困ったときは、遠慮せずに周囲の人に助けを求めてくださいね』

 そう言って、微笑んでくれたのである。

 美咲にとって、それはとても優しい出来事だった。

 学園に入学してから、冷花はずっと遠い存在だった。

 何でもできて、誰からも一目置かれている。

 自分とは住む世界が違う人。

 そう思っていた。

 だからこそ、あの微笑みがうれしかった。

 ところが、今朝になって事態は一変した。

「白石さん!」

「は、はいっ!?」

 クラスメイトが駆け寄ってきた。

「昨日、一ノ瀬会長に呼び止められたって本当?」

「えっ? あ、うん……」

「何を言われたの?」

「何って……書類を拾ってもらっただけだけど」

「それだけ?」

「うん。あと、困ったときは周りに助けを求めていいって……」

 その瞬間、クラスメイトの表情が変わった。

「……やっぱり」

「え?」

「会長、白石さんに何か期待してるんじゃない?」

「そ、そんなわけないよ!」

「でも、わざわざ微笑みかけたんでしょ?」

「ええっ!?」

 美咲は顔を真っ赤にした。

「ち、違うよ! 会長は普通に親切にしてくれただけで……!」

 しかし、彼女の言葉は誰にも届かなかった。

 その日の午前中、白石美咲は「一ノ瀬会長に見いだされた期待の一年生」という、本人も知らない肩書きを与えられることになった。

     *

 昼休み。

 颯真は、購買で買ったパンを片手に、冷花を探していた。

 今朝から広がっている噂を何とかしなければならない。

 放っておけば、無関係な一年生まで巻き込まれてしまう。

 それに何より――。

「……あいつ、絶対に自分が何をしたのかわかってないよな」

 颯真はため息をついた。

 冷花に悪意がないことは知っている。

 だが、彼女の何気ない行動が、周囲にどれほど大きな影響を与えるのか。

 それを、本人はほとんど理解していない。

 ようやく生徒会室の前にたどり着くと、扉の向こうから声が聞こえてきた。

「一ノ瀬会長。こちらの書類について、確認をお願いします」

「わかりました」

 颯真はノックをした。

「入るぞー!」

「どうぞ」

 扉を開けると、冷花が机に向かっていた。

 その向かいには、生徒会役員の女子生徒が一人座っている。

「神崎くん。どうしましたか?」

「どうしたもこうしたもない! お前、今の噂を何とかしろ!」

「噂、ですか?」

「そうだよ! お前が一年生に微笑みかけたってだけで、学園中が大騒ぎなんだぞ!」

 冷花は少し考えた。

「……そうですか」

「そうですか、じゃない!」

「しかし、私は特に問題のある行動をしたつもりはありません」

「だから、それはわかってるって!」

 颯真は深呼吸した。

 怒っても仕方がない。

 冷花は本当に、何が問題なのかわかっていないのだ。

「いいか、一ノ瀬。お前が悪いわけじゃない。でも、周りのやつらは、お前のことを怖がってるんだ」

「それは、以前から承知しています」

「だったら!」

「ですが、私が誰かに親切にすることまで、控える必要があるのでしょうか?」

 颯真は言葉を失った。

 冷花の声は、いつもどおり落ち着いていた。

 けれど、その言葉には、はっきりとした意思があった。

「私は、生徒会長として、困っている生徒を助けるべきだと考えています。それに、相手が一年生であろうと、三年生であろうと、対応を変えるつもりはありません」

「……一ノ瀬」

「笑顔が誤解されるからといって、笑わないようにするのは、適切ではないと思います」

 颯真は、しばらく黙っていた。

 彼女は周囲から恐れられている。

 それを知っていて、気にしていないように見えた。

 しかし、本当は違ったのかもしれない。

 周囲の反応を気にしていないのではない。

 周囲にどう思われようと、自分が正しいと思うことを変えないだけなのだ。

 颯真は、ふっと笑った。

「……そうだな」

「はい?」

「いや、お前が笑うのをやめる必要なんてないよ」

 冷花は目を瞬かせた。

「ただ、誤解されたままなのは困るだろ。だから、俺が説明してくる」

「神崎くんが?」

「おう。お前が一年生を脅したわけじゃないって、ちゃんと説明すればいいんだろ?」

「脅したつもりはありませんが」

「わかってるよ!」

 颯真は勢いよく生徒会室を出ていこうとした。

 しかし、扉の前で足を止める。

「……あ、そうだ」

「何でしょうか?」

「お前、今度から一年生に声をかけるとき、もうちょっと柔らかい言い方をしたらどうだ?」

「柔らかい言い方、ですか?」

「そう! 例えば、『大丈夫ですか?』って聞くときも、ちょっと笑顔を見せるとか……」

「昨日も笑顔で声をかけましたが」

「……ああ、そうだった」

 颯真は頭を抱えた。

「くそっ……! 難しいな、お前!」

「申し訳ありません。私も、改善方法を考えてみます」

「いや、謝らなくていいんだよ!」

 冷花は真剣な表情でうなずいた。

「わかりました。では、神崎くん」

「ん?」

「今後、私が誰かと話すとき、あなたに確認をお願いしてもよいでしょうか?」

「……は?」

「私の言葉や表情が、相手にどのような印象を与えるのか。あなたなら、率直に教えてくれると思います」

 颯真は、ぽかんとした。

 それはつまり。

 冷花が、自分を頼ってくれたということなのだろうか。

「……お、おう。まあ、俺でよければ」

「ありがとうございます」

 冷花は、静かに頭を下げた。

 その姿を見た颯真は、なぜか胸の奥がむずむずした。

 勝負に勝ったわけでもない。

 褒められたわけでもない。

 なのに、妙にうれしかった。

「……ま、任せとけ! 俺がお前を、普通の女の子にしてやる!」

「……普通の女の子?」

「いや、今のは忘れろ!」

 颯真は顔を赤くしながら、慌てて生徒会室を飛び出した。

 冷花は、閉じた扉をしばらく見つめていた。

「……普通の女の子、ですか」

 彼女は小さく首を傾げた。

     *

 放課後。

 颯真は、白石美咲のクラスを訪ねていた。

「えっと……白石さん、いる?」

「は、はいっ!」

 声をかけられた美咲は、椅子から飛び上がった。

 目の前にいるのは、学園一のイケメンと呼ばれる神崎颯真。

 そんな彼に突然話しかけられれば、誰だって驚く。

「ちょっと、話があるんだけど」

「わ、私にですか!?」

「うん。昨日、一ノ瀬に会ったんだって?」

「は、はい……!」

 美咲は緊張で背筋を伸ばした。

 まさか、あの噂について何か聞かれるのだろうか。

 もしかして、自分が会長に何か失礼なことをしてしまったのか。

 不安が膨らんでいく。

 颯真は、そんな美咲の様子を見て慌てて手を振った。

「いや、別に怒ってるわけじゃないから! むしろ逆!」

「……逆?」

「一ノ瀬は、君が困ってたから助けただけなんだ。別に、何かを命令したり、処分したりするつもりなんてない」

「……え?」

 美咲は、ぽかんとした。

「それに、あいつは……一ノ瀬は、思ってるほど怖い人じゃないんだ」

 颯真は少し考えてから、続けた。

「確かに、無表情だし、言い方も淡々としてるけどさ。でも、困ってるやつを放っておくような人じゃない。だから、あんまり気にしなくていいよ」

 美咲は、ゆっくりとうなずいた。

「……はい」

「よし。じゃあ、噂のことは気にしないで、普通に学校生活を送ってくれ」

「わかりました。ありがとうございます、神崎先輩!」

「先輩って……同じ二年生じゃないぞ、俺」

「あっ! す、すみません!」

「ははっ。いいよ、気にすんな」

 颯真は笑って手を振った。

 その笑顔を見た美咲は、ふと思った。

 神崎先輩は、一ノ瀬会長のことをよく知っている。

 きっと、誰よりも彼女のことを理解しているのだろう。

「……あの、神崎先輩」

「ん?」

「神崎先輩は、一ノ瀬会長のことが好きなんですか?」

「…………は?」

 颯真の顔が固まった。

 美咲は、慌てて両手を振った。

「す、すみません! 変なこと聞いて!」

「い、いや! 違うから! 俺は、あいつに勝ちたいだけだから!」

「……勝ちたい?」

「そう! 何をやっても勝てないから、勝ちたいんだよ!」

 颯真は力説した。

 美咲はしばらく考え込んでから、にっこりと笑った。

「そうなんですね。頑張ってください!」

「お、おう……」

 颯真は、なぜか釈然としない気持ちになった。

 どうして、会う人会う人に同じことを聞かれるのだろう。

 自分はただ、冷花に勝ちたいだけなのに。

 ……本当に、それだけなのだろうか。

 颯真は、ふと考えた。

 昨日、冷花からクッキーをもらったとき。

 今日、彼女が自分を頼ってくれたとき。

 どちらも、思っていた以上にうれしかった。

「…………」

 いや、違う。

 これは、あくまで勝負の相手として認められたからだ。

 そうに決まっている。

「よし!」

 颯真は気合いを入れ直した。

 次の勝負こそ、絶対に勝つ。

 そのためにも、もっと冷花のことを知らなければならない。

 ……そう考えることにした。

     *

 翌朝。

 星蘭学園の廊下では、昨日までの噂が少しずつ落ち着き始めていた。

 白石美咲が「会長は親切にしてくれただけ」と周囲に説明したこともあり、生徒たちもようやく冷静になってきたのだ。

 もっとも、冷花に対する畏怖がなくなったわけではない。

 彼女が廊下を歩けば、相変わらず生徒たちは道を空ける。

 しかし、その日の朝。

 冷花は、廊下で一年生の少女とすれ違った。

 少女は緊張した様子で立ち止まり、ぺこりと頭を下げた。

「お、おはようございます、会長!」

「おはようございます」

 冷花は足を止めた。

 そして、颯真に教わったことを思い出す。

 相手がどう受け取るか。

 自分の表情が、どんな印象を与えるか。

 ほんの少しだけ、口元を緩めてみる。

「今日も、頑張ってくださいね」

「…………っ!」

 少女は目を見開いた。

 そして、顔を真っ赤にしながら、勢いよく走り去っていった。

「……?」

 冷花は首を傾げた。

 今度は、何か問題があったのだろうか。

 その様子を、少し離れた場所から見ていた颯真が頭を抱えた。

「おいおい……!」

 どうやら、まだまだ先は長そうだ。

 冷花が周囲と普通に接することができるようになるまで。

 そして、自分が彼女の特別な存在になるまで。

 颯真の挑戦は、これからも続いていく。

 ただ一つ、冷花が微笑みかけた少女が、教室に戻るなりこう叫んだことだけは、彼は知らなかった。

「みんな聞いて! 一ノ瀬会長が、私に『今日も頑張って』って言ってくれたの!」

「「「えええええっ!?」」」

 ――女王の微笑みは、今日も学園を揺るがしていた。