学園の女王とイケメン王子様

 翌朝、午前七時四十分。

 私立星蘭学園の校門をくぐった神崎颯真は、いつになく気合いに満ちていた。

「よし……今日こそ勝つ!」

 拳を握りしめ、颯真は校舎を見上げた。

 昨日の数学の小テストでは、わずか一点差で敗北した。

 いや、正確には一ノ瀬冷花が百点で、自分が九十九点だったのだから、差は一点しかない。

 ほとんど勝ったようなものではないか。

 ……いや、勝負にほとんども何もない。

 負けは負けだ。

 だからこそ、今日は絶対に勝つ。

 幸い、今日の体育は持久走だった。

 颯真は運動神経に自信がある。短距離走なら学年でも上位だし、サッカー部からも入部を勧められたことがある。

 長距離走だって、決して苦手ではない。

 対する冷花は何でもできるが、万能であることと、すべての競技で圧倒的に強いことは違うはずだ。

 持久走なら、勝機はある。

「待ってろよ、一ノ瀬……!」

「何を待てばいいのでしょうか?」

「うおっ!?」

 突然背後から声をかけられ、颯真は飛び上がった。

 振り返ると、そこには噂の本人が立っていた。

 長い黒髪を揺らし、紺色の制服をきちんと着こなした少女。

 一ノ瀬冷花である。

「お、お前! いつからそこにいたんだよ!」

「今、来たところです」

「そ、そうか……」

「ところで、何か待っているのですか?」

「お前に勝つ瞬間だよ!」

「なるほど。では、体育の授業でお待ちしています」

「だから、そういう冷静な返事をするなって!」

 颯真が頭を抱えると、冷花は不思議そうに首を傾げた。

「何か問題がありましたか?」

「……いや、もういい」

 どうしてこの女は、いちいち調子を狂わせるのだろう。

 颯真は気を取り直し、冷花の隣に並んだ。

「そういえば、お前って毎朝どのくらい走ってるんだ?」

「朝は三キロほどです」

「三キロ!?」

「はい」

「毎日?」

「体調が悪い日を除けば」

 颯真は思わず絶句した。

 朝から三キロ。

 しかも、それを当たり前のように話している。

「……お前、もしかして、持久走が得意なのか?」

「得意というより、習慣になっています」

「そうか……」

 嫌な予感がしてきた。

 いや、まだだ。

 走ることと、持久走で勝つことは別である。

 自分だって、それなりに走れる。

 勝負はやってみなければわからない。

「今日こそ勝つからな!」

「はい。楽しみにしています」

 冷花は、いつもと変わらない表情で答えた。

 その言葉を聞いた颯真は、なぜか少しだけ胸を張りたくなった。

 自分の挑戦を、彼女は決して拒まない。

 それだけは、少しうれしかった。

     *

 午前十時。

 体育の授業。

 グラウンドには、二年生の生徒たちが集まっていた。

「今日は男子も女子も、男女別に分かれて校外周回コースを走ってもらう。記録を取るから、最後まで自分のペースを守るように」

 体育教師の説明に、生徒たちがそれぞれ準備運動を始める。

 颯真は軽く屈伸をしながら、少し離れた場所にいる冷花を見た。

 彼女は無駄のない動作で準備運動をしていた。

 背筋はまっすぐ。

 動きは正確。

 何をしていても、どこか隙がない。

「……あいつ、準備運動まで完璧なのかよ」

「神崎、お前また一ノ瀬と勝負するのか?」

 隣から声がした。

 佐伯だ。

「当たり前だろ」

「懲りないなあ。昨日、数学で負けたばかりだろ?」

「昨日は昨日、今日は今日だ!」

「その理屈、何回聞いたかな……」

 佐伯は呆れたように笑った。

「でも、持久走ならいい勝負になるんじゃないか? お前、長距離も速いし」

「だろ?」

「ただし、一ノ瀬が相手じゃなければな」

「おい!」

 佐伯は笑いながら、スタート位置へ向かっていった。

 颯真もその後に続く。

 やがて、全員がスタートラインに並んだ。

 教師がストップウォッチを手にする。

「それでは、位置について!」

 颯真は大きく息を吸った。

 勝負だ。

 絶対に勝つ。

「よーい……」

 そのときだった。

「神崎くん」

「ん?」

 隣から冷花の声がした。

「一つ、助言しておきます」

「な、なんだよ?」

「最初から飛ばしすぎないほうがよいと思います。後半に疲労が出ますから」

「……は?」

 颯真の眉がぴくりと動いた。

「お前、それ、俺に言ってるのか?」

「はい」

「俺がペース配分もできないと思ってるのか?」

「そういう意味ではありません。あなたは短距離の加速が得意ですから、つい最初に速度を上げてしまう傾向があります」

「なんでそんなことまで知ってるんだよ!?」

「以前、体育の授業で見ました」

 冷花は淡々と答えた。

 颯真は言葉に詰まった。

 見ていた?

 以前から?

 いや、そんなことを考えている場合ではない。

「……余計なお世話だ! 今日は最初から最後まで全力で走ってやる!」

「そうですか」

「そうだよ!」

「では、無理のない範囲で頑張ってください」

 ピピーッ!

 笛の音が鳴り響いた。

 生徒たちが一斉に走り出す。

 颯真も勢いよく地面を蹴った。

「うおおおおっ!」

 スタート直後から、颯真は前へ飛び出した。

 持ち前の脚力を生かし、次々と生徒たちを追い抜いていく。

 後ろから佐伯の声が飛んできた。

「神崎! 飛ばしすぎだぞ!」

「うるさい! 今日は勝つんだよ!」

 颯真は走りながら、ちらりと後ろを振り返った。

 冷花は、一定のペースで走っていた。

 無理に追い上げようとする様子もない。

 その姿を見た颯真は、口元を緩めた。

「よし……! これならいける!」

 序盤のリードは十分。

 このまま逃げ切れば、自分の勝ちだ。

 颯真はさらに足を動かした。

     *

 周回コースの折り返し地点。

 颯真は、額の汗をぬぐいながら走っていた。

「はあっ……はあっ……!」

 思った以上に、体力を消耗していた。

 それでも、まだ大丈夫だ。

 前を走る生徒たちの姿は見える。

 後ろから追いつかれる気配もない。

 このまま走り切れば――。

「神崎くん」

「……え?」

 聞き覚えのある声が、横からした。

 颯真は目を見開いた。

 冷花が、すぐ隣を走っていた。

 しかも。

 息が乱れていない。

 表情も変わらない。

 まるで散歩でもしているかのように、涼しげな顔で走っている。

「な、なんで……!」

「ペースを維持しているだけですが」

「お前、いつ追いついたんだよ!?」

「先ほどです」

「先ほどっていつだよ!」

「あなたが三周目に入ったあたりでしょうか」

「気づかなかった……!」

 颯真は歯を食いしばった。

 それでも、まだ勝負は終わっていない。

 ここからだ。

 残りの距離で、もう一度引き離せばいい。

「まだまだぁっ!」

 颯真は再び速度を上げた。

 冷花は何も言わず、彼の隣を走り続けた。

 十秒。

 二十秒。

 三十秒。

 颯真の呼吸が、次第に荒くなっていく。

 一方の冷花は、相変わらず一定のペースを崩さない。

 そして、ついに。

「……うそだろ」

 颯真の視界の先に、ゴールが見えた。

 最後の直線。

 ここで勝負を決めるしかない。

「うおおおおおっ!」

 颯真は最後の力を振り絞った。

 冷花も、ほんの少しだけ速度を上げた。

 結果は――。

「一位、一ノ瀬冷花! 二位、神崎颯真!」

 ゴールした瞬間、颯真はその場にしゃがみ込んだ。

「はあっ……はあっ……。くそ……また、負けた……!」

 冷花は少し先で立ち止まり、呼吸を整えていた。

 そして、颯真のところへ戻ってきた。

「神崎くん。お疲れさまでした」

「……お前、なんでそんなに平気なんだよ」

「毎朝走っていますから」

「俺だって、運動は得意なんだぞ……!」

「知っています」

「だったら、もう少し……こう、なんか……!」

 颯真は言葉を探した。

 もっと驚いてほしい。

 もっと競ってほしい。

 勝負が終わったときくらい、少しは感情を見せてほしい。

 けれど、冷花は静かに彼を見つめていた。

「神崎くん」

「……なんだよ」

「最後の直線、とても速かったです」

「……え?」

「あなたの瞬発力は、私より上だと思います」

 颯真は目を瞬かせた。

「そ、それって……」

「ただ、今回はペース配分で差がつきました。次はそこを改善すれば、もっとよい記録が出ると思います」

「…………」

「期待しています」

 冷花はそう言って、軽く頭を下げた。

 颯真はしばらく、何も言えなかった。

 負けた。

 また負けた。

 けれど、彼女は自分の走りを見ていた。

 速いところも、悪かったところも、きちんとわかっていた。

 ただ勝っただけではない。

 ちゃんと自分を見て、評価してくれていたのだ。

「……次は、絶対に勝つからな」

「はい」

 颯真は顔を上げた。

「次こそ、お前に勝つ!」

「楽しみにしています」

 冷花は相変わらずの無表情だった。

 けれど、颯真にはなぜか、その声が少しだけ柔らかく聞こえた。

     *

 昼休み。

 颯真は教室の机に突っ伏していた。

「もう無理……。今日は走りたくない……」

「いや、授業で走ったばかりだろ」

 佐伯が笑いながら、隣の席に腰を下ろした。

「それにしても、また一ノ瀬に負けたな」

「言うな……」

「でも、二位だろ? 十分すごいじゃないか」

「一位じゃなきゃ意味がないんだよ……」

「お前、本当に一ノ瀬のことになると必死だよな」

 佐伯は呆れたようにため息をついた。

「ま、次も頑張れよ。応援してるから」

「……おう」

 颯真は顔を上げた。

 そのとき、教室の入口が少し騒がしくなった。

「一ノ瀬会長だ……」

「どうしたんだろう?」

「まさか、誰か何かやらかしたのか?」

 教室に入ってきたのは、冷花だった。

 彼女は教室内を見渡し、まっすぐ颯真の席へ向かってきた。

「神崎くん」

「……今度はなんだ?」

 颯真は身構えた。

 まさか、持久走の記録について何か言いに来たのだろうか。

 それとも、次の勝負のことか。

 あるいは、さっきの走り方について、さらなる改善点でも――。

「こちらをどうぞ」

 冷花が差し出したのは、小さな紙袋だった。

「……何これ?」

「昼食後に食べるためのものです」

「いや、だから何が入ってるんだよ?」

「手作りのクッキーです」

「クッキー!?」

 颯真の声が裏返った。

 周囲の生徒たちも、一斉にざわめいた。

「えっ、一ノ瀬会長が手作り!?」

「神崎くんに!?」

「な、なんで!?」

 冷花は周囲の反応を不思議そうに見回した。

「昨日、神崎くんが家庭科の授業で料理を褒められていたので、甘いものも好きなのかと思いました」

「……は?」

「違いましたか?」

「い、いや! 好きだけど!」

「そうですか。では、どうぞ」

 冷花は紙袋を机の上に置いた。

 颯真は袋と彼女の顔を交互に見た。

「……お前、これ、俺に?」

「はい」

「なんで?」

「持久走の記録が、前回よりよくなっていたからです」

「……え?」

 冷花は淡々と説明した。

「神崎くんの前回の記録と比較すると、今日はタイムが縮まっています。結果は私のほうが上でしたが、あなた自身の記録は向上しています」

「…………」

「努力の成果が出ていますね」

 颯真は、ぽかんと口を開けた。

 周囲は完全に静まり返っていた。

 やがて、誰かが小さな声でつぶやいた。

「……会長、神崎くんのこと、好きなんじゃ……」

「ち、違うだろ! これは、その……!」

 颯真は慌てて否定しようとした。

 しかし、冷花は首を傾げた。

「好き、とは?」

「えっ?」

「神崎くんのことは、嫌いではありませんが」

「…………」

「何か問題がありますか?」

「い、いや、問題とかじゃなくて……!」

 颯真は顔を真っ赤にした。

 冷花はしばらく彼を見つめた後、静かに言った。

「では、私はこれで失礼します」

 そして、何事もなかったかのように教室を出ていった。

 扉が閉まる。

 数秒間の沈黙。

 次の瞬間、教室中が爆発したように騒がしくなった。

「神崎! お前、一ノ瀬会長からクッキーもらったぞ!?」

「しかも手作りだって!」

「どういう関係なんだよ、お前ら!」

「うるせえええええっ!」

 颯真の叫びが、教室中に響き渡った。

     *

 放課後。

 冷花は生徒会室で、今日の記録を整理していた。

 持久走の結果。

 生徒会の活動報告。

 明日の予定。

 いつもどおりの一日だった。

 ただ、一つだけ。

 机の端に置かれたクッキーのレシピ帳を見つめ、彼女は少しだけ考え込んでいた。

 颯真に渡したクッキーは、今朝、いつもより少し早く起きて焼いたものだった。

 なぜ、そんなことをしたのか。

 自分でも、はっきりとはわからない。

 努力の成果を認めるため。

 そう考えれば、説明はつく。

 けれど、それだけなら、わざわざ手作りする必要はなかった。

「……不思議ですね」

 冷花は小さくつぶやいた。

 神崎颯真。

 自分に何度負けても、決して諦めない少年。

 勝負を挑んできては、悔しがり、怒り、笑い、また挑戦してくる。

 ほかの生徒たちのように、自分の顔色をうかがったり、遠慮したりすることもない。

 彼と話していると、予想外のことが起こる。

 そして、それは――。

「……悪くありません」

 冷花は、静かにレシピ帳を閉じた。

 そのとき、机の上のスマートフォンが震えた。

 生徒会の連絡用グループに、メッセージが届いていた。

 送り主は、神崎颯真。

『一ノ瀬! クッキー、うまかった! ありがとな! でも次は絶対に勝つからな!』

 冷花は画面を見つめた。

 そして、返信を打つ。

『どういたしまして。次回も期待しています』

 送信。

 すぐに既読がついた。

 続けて、颯真からメッセージが届く。

『おう! 覚悟しとけよ!』

 冷花は、画面を見つめたまま数秒間、動かなかった。

 やがて。

 ほんのわずかに、口元が緩んだ。

「……本当に、不思議な人ですね」

 その声は、誰もいない生徒会室に静かに溶けていった。