翌朝、午前七時四十分。
私立星蘭学園の校門をくぐった神崎颯真は、いつになく気合いに満ちていた。
「よし……今日こそ勝つ!」
拳を握りしめ、颯真は校舎を見上げた。
昨日の数学の小テストでは、わずか一点差で敗北した。
いや、正確には一ノ瀬冷花が百点で、自分が九十九点だったのだから、差は一点しかない。
ほとんど勝ったようなものではないか。
……いや、勝負にほとんども何もない。
負けは負けだ。
だからこそ、今日は絶対に勝つ。
幸い、今日の体育は持久走だった。
颯真は運動神経に自信がある。短距離走なら学年でも上位だし、サッカー部からも入部を勧められたことがある。
長距離走だって、決して苦手ではない。
対する冷花は何でもできるが、万能であることと、すべての競技で圧倒的に強いことは違うはずだ。
持久走なら、勝機はある。
「待ってろよ、一ノ瀬……!」
「何を待てばいいのでしょうか?」
「うおっ!?」
突然背後から声をかけられ、颯真は飛び上がった。
振り返ると、そこには噂の本人が立っていた。
長い黒髪を揺らし、紺色の制服をきちんと着こなした少女。
一ノ瀬冷花である。
「お、お前! いつからそこにいたんだよ!」
「今、来たところです」
「そ、そうか……」
「ところで、何か待っているのですか?」
「お前に勝つ瞬間だよ!」
「なるほど。では、体育の授業でお待ちしています」
「だから、そういう冷静な返事をするなって!」
颯真が頭を抱えると、冷花は不思議そうに首を傾げた。
「何か問題がありましたか?」
「……いや、もういい」
どうしてこの女は、いちいち調子を狂わせるのだろう。
颯真は気を取り直し、冷花の隣に並んだ。
「そういえば、お前って毎朝どのくらい走ってるんだ?」
「朝は三キロほどです」
「三キロ!?」
「はい」
「毎日?」
「体調が悪い日を除けば」
颯真は思わず絶句した。
朝から三キロ。
しかも、それを当たり前のように話している。
「……お前、もしかして、持久走が得意なのか?」
「得意というより、習慣になっています」
「そうか……」
嫌な予感がしてきた。
いや、まだだ。
走ることと、持久走で勝つことは別である。
自分だって、それなりに走れる。
勝負はやってみなければわからない。
「今日こそ勝つからな!」
「はい。楽しみにしています」
冷花は、いつもと変わらない表情で答えた。
その言葉を聞いた颯真は、なぜか少しだけ胸を張りたくなった。
自分の挑戦を、彼女は決して拒まない。
それだけは、少しうれしかった。
*
午前十時。
体育の授業。
グラウンドには、二年生の生徒たちが集まっていた。
「今日は男子も女子も、男女別に分かれて校外周回コースを走ってもらう。記録を取るから、最後まで自分のペースを守るように」
体育教師の説明に、生徒たちがそれぞれ準備運動を始める。
颯真は軽く屈伸をしながら、少し離れた場所にいる冷花を見た。
彼女は無駄のない動作で準備運動をしていた。
背筋はまっすぐ。
動きは正確。
何をしていても、どこか隙がない。
「……あいつ、準備運動まで完璧なのかよ」
「神崎、お前また一ノ瀬と勝負するのか?」
隣から声がした。
佐伯だ。
「当たり前だろ」
「懲りないなあ。昨日、数学で負けたばかりだろ?」
「昨日は昨日、今日は今日だ!」
「その理屈、何回聞いたかな……」
佐伯は呆れたように笑った。
「でも、持久走ならいい勝負になるんじゃないか? お前、長距離も速いし」
「だろ?」
「ただし、一ノ瀬が相手じゃなければな」
「おい!」
佐伯は笑いながら、スタート位置へ向かっていった。
颯真もその後に続く。
やがて、全員がスタートラインに並んだ。
教師がストップウォッチを手にする。
「それでは、位置について!」
颯真は大きく息を吸った。
勝負だ。
絶対に勝つ。
「よーい……」
そのときだった。
「神崎くん」
「ん?」
隣から冷花の声がした。
「一つ、助言しておきます」
「な、なんだよ?」
「最初から飛ばしすぎないほうがよいと思います。後半に疲労が出ますから」
「……は?」
颯真の眉がぴくりと動いた。
「お前、それ、俺に言ってるのか?」
「はい」
「俺がペース配分もできないと思ってるのか?」
「そういう意味ではありません。あなたは短距離の加速が得意ですから、つい最初に速度を上げてしまう傾向があります」
「なんでそんなことまで知ってるんだよ!?」
「以前、体育の授業で見ました」
冷花は淡々と答えた。
颯真は言葉に詰まった。
見ていた?
以前から?
いや、そんなことを考えている場合ではない。
「……余計なお世話だ! 今日は最初から最後まで全力で走ってやる!」
「そうですか」
「そうだよ!」
「では、無理のない範囲で頑張ってください」
ピピーッ!
笛の音が鳴り響いた。
生徒たちが一斉に走り出す。
颯真も勢いよく地面を蹴った。
「うおおおおっ!」
スタート直後から、颯真は前へ飛び出した。
持ち前の脚力を生かし、次々と生徒たちを追い抜いていく。
後ろから佐伯の声が飛んできた。
「神崎! 飛ばしすぎだぞ!」
「うるさい! 今日は勝つんだよ!」
颯真は走りながら、ちらりと後ろを振り返った。
冷花は、一定のペースで走っていた。
無理に追い上げようとする様子もない。
その姿を見た颯真は、口元を緩めた。
「よし……! これならいける!」
序盤のリードは十分。
このまま逃げ切れば、自分の勝ちだ。
颯真はさらに足を動かした。
*
周回コースの折り返し地点。
颯真は、額の汗をぬぐいながら走っていた。
「はあっ……はあっ……!」
思った以上に、体力を消耗していた。
それでも、まだ大丈夫だ。
前を走る生徒たちの姿は見える。
後ろから追いつかれる気配もない。
このまま走り切れば――。
「神崎くん」
「……え?」
聞き覚えのある声が、横からした。
颯真は目を見開いた。
冷花が、すぐ隣を走っていた。
しかも。
息が乱れていない。
表情も変わらない。
まるで散歩でもしているかのように、涼しげな顔で走っている。
「な、なんで……!」
「ペースを維持しているだけですが」
「お前、いつ追いついたんだよ!?」
「先ほどです」
「先ほどっていつだよ!」
「あなたが三周目に入ったあたりでしょうか」
「気づかなかった……!」
颯真は歯を食いしばった。
それでも、まだ勝負は終わっていない。
ここからだ。
残りの距離で、もう一度引き離せばいい。
「まだまだぁっ!」
颯真は再び速度を上げた。
冷花は何も言わず、彼の隣を走り続けた。
十秒。
二十秒。
三十秒。
颯真の呼吸が、次第に荒くなっていく。
一方の冷花は、相変わらず一定のペースを崩さない。
そして、ついに。
「……うそだろ」
颯真の視界の先に、ゴールが見えた。
最後の直線。
ここで勝負を決めるしかない。
「うおおおおおっ!」
颯真は最後の力を振り絞った。
冷花も、ほんの少しだけ速度を上げた。
結果は――。
「一位、一ノ瀬冷花! 二位、神崎颯真!」
ゴールした瞬間、颯真はその場にしゃがみ込んだ。
「はあっ……はあっ……。くそ……また、負けた……!」
冷花は少し先で立ち止まり、呼吸を整えていた。
そして、颯真のところへ戻ってきた。
「神崎くん。お疲れさまでした」
「……お前、なんでそんなに平気なんだよ」
「毎朝走っていますから」
「俺だって、運動は得意なんだぞ……!」
「知っています」
「だったら、もう少し……こう、なんか……!」
颯真は言葉を探した。
もっと驚いてほしい。
もっと競ってほしい。
勝負が終わったときくらい、少しは感情を見せてほしい。
けれど、冷花は静かに彼を見つめていた。
「神崎くん」
「……なんだよ」
「最後の直線、とても速かったです」
「……え?」
「あなたの瞬発力は、私より上だと思います」
颯真は目を瞬かせた。
「そ、それって……」
「ただ、今回はペース配分で差がつきました。次はそこを改善すれば、もっとよい記録が出ると思います」
「…………」
「期待しています」
冷花はそう言って、軽く頭を下げた。
颯真はしばらく、何も言えなかった。
負けた。
また負けた。
けれど、彼女は自分の走りを見ていた。
速いところも、悪かったところも、きちんとわかっていた。
ただ勝っただけではない。
ちゃんと自分を見て、評価してくれていたのだ。
「……次は、絶対に勝つからな」
「はい」
颯真は顔を上げた。
「次こそ、お前に勝つ!」
「楽しみにしています」
冷花は相変わらずの無表情だった。
けれど、颯真にはなぜか、その声が少しだけ柔らかく聞こえた。
*
昼休み。
颯真は教室の机に突っ伏していた。
「もう無理……。今日は走りたくない……」
「いや、授業で走ったばかりだろ」
佐伯が笑いながら、隣の席に腰を下ろした。
「それにしても、また一ノ瀬に負けたな」
「言うな……」
「でも、二位だろ? 十分すごいじゃないか」
「一位じゃなきゃ意味がないんだよ……」
「お前、本当に一ノ瀬のことになると必死だよな」
佐伯は呆れたようにため息をついた。
「ま、次も頑張れよ。応援してるから」
「……おう」
颯真は顔を上げた。
そのとき、教室の入口が少し騒がしくなった。
「一ノ瀬会長だ……」
「どうしたんだろう?」
「まさか、誰か何かやらかしたのか?」
教室に入ってきたのは、冷花だった。
彼女は教室内を見渡し、まっすぐ颯真の席へ向かってきた。
「神崎くん」
「……今度はなんだ?」
颯真は身構えた。
まさか、持久走の記録について何か言いに来たのだろうか。
それとも、次の勝負のことか。
あるいは、さっきの走り方について、さらなる改善点でも――。
「こちらをどうぞ」
冷花が差し出したのは、小さな紙袋だった。
「……何これ?」
「昼食後に食べるためのものです」
「いや、だから何が入ってるんだよ?」
「手作りのクッキーです」
「クッキー!?」
颯真の声が裏返った。
周囲の生徒たちも、一斉にざわめいた。
「えっ、一ノ瀬会長が手作り!?」
「神崎くんに!?」
「な、なんで!?」
冷花は周囲の反応を不思議そうに見回した。
「昨日、神崎くんが家庭科の授業で料理を褒められていたので、甘いものも好きなのかと思いました」
「……は?」
「違いましたか?」
「い、いや! 好きだけど!」
「そうですか。では、どうぞ」
冷花は紙袋を机の上に置いた。
颯真は袋と彼女の顔を交互に見た。
「……お前、これ、俺に?」
「はい」
「なんで?」
「持久走の記録が、前回よりよくなっていたからです」
「……え?」
冷花は淡々と説明した。
「神崎くんの前回の記録と比較すると、今日はタイムが縮まっています。結果は私のほうが上でしたが、あなた自身の記録は向上しています」
「…………」
「努力の成果が出ていますね」
颯真は、ぽかんと口を開けた。
周囲は完全に静まり返っていた。
やがて、誰かが小さな声でつぶやいた。
「……会長、神崎くんのこと、好きなんじゃ……」
「ち、違うだろ! これは、その……!」
颯真は慌てて否定しようとした。
しかし、冷花は首を傾げた。
「好き、とは?」
「えっ?」
「神崎くんのことは、嫌いではありませんが」
「…………」
「何か問題がありますか?」
「い、いや、問題とかじゃなくて……!」
颯真は顔を真っ赤にした。
冷花はしばらく彼を見つめた後、静かに言った。
「では、私はこれで失礼します」
そして、何事もなかったかのように教室を出ていった。
扉が閉まる。
数秒間の沈黙。
次の瞬間、教室中が爆発したように騒がしくなった。
「神崎! お前、一ノ瀬会長からクッキーもらったぞ!?」
「しかも手作りだって!」
「どういう関係なんだよ、お前ら!」
「うるせえええええっ!」
颯真の叫びが、教室中に響き渡った。
*
放課後。
冷花は生徒会室で、今日の記録を整理していた。
持久走の結果。
生徒会の活動報告。
明日の予定。
いつもどおりの一日だった。
ただ、一つだけ。
机の端に置かれたクッキーのレシピ帳を見つめ、彼女は少しだけ考え込んでいた。
颯真に渡したクッキーは、今朝、いつもより少し早く起きて焼いたものだった。
なぜ、そんなことをしたのか。
自分でも、はっきりとはわからない。
努力の成果を認めるため。
そう考えれば、説明はつく。
けれど、それだけなら、わざわざ手作りする必要はなかった。
「……不思議ですね」
冷花は小さくつぶやいた。
神崎颯真。
自分に何度負けても、決して諦めない少年。
勝負を挑んできては、悔しがり、怒り、笑い、また挑戦してくる。
ほかの生徒たちのように、自分の顔色をうかがったり、遠慮したりすることもない。
彼と話していると、予想外のことが起こる。
そして、それは――。
「……悪くありません」
冷花は、静かにレシピ帳を閉じた。
そのとき、机の上のスマートフォンが震えた。
生徒会の連絡用グループに、メッセージが届いていた。
送り主は、神崎颯真。
『一ノ瀬! クッキー、うまかった! ありがとな! でも次は絶対に勝つからな!』
冷花は画面を見つめた。
そして、返信を打つ。
『どういたしまして。次回も期待しています』
送信。
すぐに既読がついた。
続けて、颯真からメッセージが届く。
『おう! 覚悟しとけよ!』
冷花は、画面を見つめたまま数秒間、動かなかった。
やがて。
ほんのわずかに、口元が緩んだ。
「……本当に、不思議な人ですね」
その声は、誰もいない生徒会室に静かに溶けていった。
私立星蘭学園の校門をくぐった神崎颯真は、いつになく気合いに満ちていた。
「よし……今日こそ勝つ!」
拳を握りしめ、颯真は校舎を見上げた。
昨日の数学の小テストでは、わずか一点差で敗北した。
いや、正確には一ノ瀬冷花が百点で、自分が九十九点だったのだから、差は一点しかない。
ほとんど勝ったようなものではないか。
……いや、勝負にほとんども何もない。
負けは負けだ。
だからこそ、今日は絶対に勝つ。
幸い、今日の体育は持久走だった。
颯真は運動神経に自信がある。短距離走なら学年でも上位だし、サッカー部からも入部を勧められたことがある。
長距離走だって、決して苦手ではない。
対する冷花は何でもできるが、万能であることと、すべての競技で圧倒的に強いことは違うはずだ。
持久走なら、勝機はある。
「待ってろよ、一ノ瀬……!」
「何を待てばいいのでしょうか?」
「うおっ!?」
突然背後から声をかけられ、颯真は飛び上がった。
振り返ると、そこには噂の本人が立っていた。
長い黒髪を揺らし、紺色の制服をきちんと着こなした少女。
一ノ瀬冷花である。
「お、お前! いつからそこにいたんだよ!」
「今、来たところです」
「そ、そうか……」
「ところで、何か待っているのですか?」
「お前に勝つ瞬間だよ!」
「なるほど。では、体育の授業でお待ちしています」
「だから、そういう冷静な返事をするなって!」
颯真が頭を抱えると、冷花は不思議そうに首を傾げた。
「何か問題がありましたか?」
「……いや、もういい」
どうしてこの女は、いちいち調子を狂わせるのだろう。
颯真は気を取り直し、冷花の隣に並んだ。
「そういえば、お前って毎朝どのくらい走ってるんだ?」
「朝は三キロほどです」
「三キロ!?」
「はい」
「毎日?」
「体調が悪い日を除けば」
颯真は思わず絶句した。
朝から三キロ。
しかも、それを当たり前のように話している。
「……お前、もしかして、持久走が得意なのか?」
「得意というより、習慣になっています」
「そうか……」
嫌な予感がしてきた。
いや、まだだ。
走ることと、持久走で勝つことは別である。
自分だって、それなりに走れる。
勝負はやってみなければわからない。
「今日こそ勝つからな!」
「はい。楽しみにしています」
冷花は、いつもと変わらない表情で答えた。
その言葉を聞いた颯真は、なぜか少しだけ胸を張りたくなった。
自分の挑戦を、彼女は決して拒まない。
それだけは、少しうれしかった。
*
午前十時。
体育の授業。
グラウンドには、二年生の生徒たちが集まっていた。
「今日は男子も女子も、男女別に分かれて校外周回コースを走ってもらう。記録を取るから、最後まで自分のペースを守るように」
体育教師の説明に、生徒たちがそれぞれ準備運動を始める。
颯真は軽く屈伸をしながら、少し離れた場所にいる冷花を見た。
彼女は無駄のない動作で準備運動をしていた。
背筋はまっすぐ。
動きは正確。
何をしていても、どこか隙がない。
「……あいつ、準備運動まで完璧なのかよ」
「神崎、お前また一ノ瀬と勝負するのか?」
隣から声がした。
佐伯だ。
「当たり前だろ」
「懲りないなあ。昨日、数学で負けたばかりだろ?」
「昨日は昨日、今日は今日だ!」
「その理屈、何回聞いたかな……」
佐伯は呆れたように笑った。
「でも、持久走ならいい勝負になるんじゃないか? お前、長距離も速いし」
「だろ?」
「ただし、一ノ瀬が相手じゃなければな」
「おい!」
佐伯は笑いながら、スタート位置へ向かっていった。
颯真もその後に続く。
やがて、全員がスタートラインに並んだ。
教師がストップウォッチを手にする。
「それでは、位置について!」
颯真は大きく息を吸った。
勝負だ。
絶対に勝つ。
「よーい……」
そのときだった。
「神崎くん」
「ん?」
隣から冷花の声がした。
「一つ、助言しておきます」
「な、なんだよ?」
「最初から飛ばしすぎないほうがよいと思います。後半に疲労が出ますから」
「……は?」
颯真の眉がぴくりと動いた。
「お前、それ、俺に言ってるのか?」
「はい」
「俺がペース配分もできないと思ってるのか?」
「そういう意味ではありません。あなたは短距離の加速が得意ですから、つい最初に速度を上げてしまう傾向があります」
「なんでそんなことまで知ってるんだよ!?」
「以前、体育の授業で見ました」
冷花は淡々と答えた。
颯真は言葉に詰まった。
見ていた?
以前から?
いや、そんなことを考えている場合ではない。
「……余計なお世話だ! 今日は最初から最後まで全力で走ってやる!」
「そうですか」
「そうだよ!」
「では、無理のない範囲で頑張ってください」
ピピーッ!
笛の音が鳴り響いた。
生徒たちが一斉に走り出す。
颯真も勢いよく地面を蹴った。
「うおおおおっ!」
スタート直後から、颯真は前へ飛び出した。
持ち前の脚力を生かし、次々と生徒たちを追い抜いていく。
後ろから佐伯の声が飛んできた。
「神崎! 飛ばしすぎだぞ!」
「うるさい! 今日は勝つんだよ!」
颯真は走りながら、ちらりと後ろを振り返った。
冷花は、一定のペースで走っていた。
無理に追い上げようとする様子もない。
その姿を見た颯真は、口元を緩めた。
「よし……! これならいける!」
序盤のリードは十分。
このまま逃げ切れば、自分の勝ちだ。
颯真はさらに足を動かした。
*
周回コースの折り返し地点。
颯真は、額の汗をぬぐいながら走っていた。
「はあっ……はあっ……!」
思った以上に、体力を消耗していた。
それでも、まだ大丈夫だ。
前を走る生徒たちの姿は見える。
後ろから追いつかれる気配もない。
このまま走り切れば――。
「神崎くん」
「……え?」
聞き覚えのある声が、横からした。
颯真は目を見開いた。
冷花が、すぐ隣を走っていた。
しかも。
息が乱れていない。
表情も変わらない。
まるで散歩でもしているかのように、涼しげな顔で走っている。
「な、なんで……!」
「ペースを維持しているだけですが」
「お前、いつ追いついたんだよ!?」
「先ほどです」
「先ほどっていつだよ!」
「あなたが三周目に入ったあたりでしょうか」
「気づかなかった……!」
颯真は歯を食いしばった。
それでも、まだ勝負は終わっていない。
ここからだ。
残りの距離で、もう一度引き離せばいい。
「まだまだぁっ!」
颯真は再び速度を上げた。
冷花は何も言わず、彼の隣を走り続けた。
十秒。
二十秒。
三十秒。
颯真の呼吸が、次第に荒くなっていく。
一方の冷花は、相変わらず一定のペースを崩さない。
そして、ついに。
「……うそだろ」
颯真の視界の先に、ゴールが見えた。
最後の直線。
ここで勝負を決めるしかない。
「うおおおおおっ!」
颯真は最後の力を振り絞った。
冷花も、ほんの少しだけ速度を上げた。
結果は――。
「一位、一ノ瀬冷花! 二位、神崎颯真!」
ゴールした瞬間、颯真はその場にしゃがみ込んだ。
「はあっ……はあっ……。くそ……また、負けた……!」
冷花は少し先で立ち止まり、呼吸を整えていた。
そして、颯真のところへ戻ってきた。
「神崎くん。お疲れさまでした」
「……お前、なんでそんなに平気なんだよ」
「毎朝走っていますから」
「俺だって、運動は得意なんだぞ……!」
「知っています」
「だったら、もう少し……こう、なんか……!」
颯真は言葉を探した。
もっと驚いてほしい。
もっと競ってほしい。
勝負が終わったときくらい、少しは感情を見せてほしい。
けれど、冷花は静かに彼を見つめていた。
「神崎くん」
「……なんだよ」
「最後の直線、とても速かったです」
「……え?」
「あなたの瞬発力は、私より上だと思います」
颯真は目を瞬かせた。
「そ、それって……」
「ただ、今回はペース配分で差がつきました。次はそこを改善すれば、もっとよい記録が出ると思います」
「…………」
「期待しています」
冷花はそう言って、軽く頭を下げた。
颯真はしばらく、何も言えなかった。
負けた。
また負けた。
けれど、彼女は自分の走りを見ていた。
速いところも、悪かったところも、きちんとわかっていた。
ただ勝っただけではない。
ちゃんと自分を見て、評価してくれていたのだ。
「……次は、絶対に勝つからな」
「はい」
颯真は顔を上げた。
「次こそ、お前に勝つ!」
「楽しみにしています」
冷花は相変わらずの無表情だった。
けれど、颯真にはなぜか、その声が少しだけ柔らかく聞こえた。
*
昼休み。
颯真は教室の机に突っ伏していた。
「もう無理……。今日は走りたくない……」
「いや、授業で走ったばかりだろ」
佐伯が笑いながら、隣の席に腰を下ろした。
「それにしても、また一ノ瀬に負けたな」
「言うな……」
「でも、二位だろ? 十分すごいじゃないか」
「一位じゃなきゃ意味がないんだよ……」
「お前、本当に一ノ瀬のことになると必死だよな」
佐伯は呆れたようにため息をついた。
「ま、次も頑張れよ。応援してるから」
「……おう」
颯真は顔を上げた。
そのとき、教室の入口が少し騒がしくなった。
「一ノ瀬会長だ……」
「どうしたんだろう?」
「まさか、誰か何かやらかしたのか?」
教室に入ってきたのは、冷花だった。
彼女は教室内を見渡し、まっすぐ颯真の席へ向かってきた。
「神崎くん」
「……今度はなんだ?」
颯真は身構えた。
まさか、持久走の記録について何か言いに来たのだろうか。
それとも、次の勝負のことか。
あるいは、さっきの走り方について、さらなる改善点でも――。
「こちらをどうぞ」
冷花が差し出したのは、小さな紙袋だった。
「……何これ?」
「昼食後に食べるためのものです」
「いや、だから何が入ってるんだよ?」
「手作りのクッキーです」
「クッキー!?」
颯真の声が裏返った。
周囲の生徒たちも、一斉にざわめいた。
「えっ、一ノ瀬会長が手作り!?」
「神崎くんに!?」
「な、なんで!?」
冷花は周囲の反応を不思議そうに見回した。
「昨日、神崎くんが家庭科の授業で料理を褒められていたので、甘いものも好きなのかと思いました」
「……は?」
「違いましたか?」
「い、いや! 好きだけど!」
「そうですか。では、どうぞ」
冷花は紙袋を机の上に置いた。
颯真は袋と彼女の顔を交互に見た。
「……お前、これ、俺に?」
「はい」
「なんで?」
「持久走の記録が、前回よりよくなっていたからです」
「……え?」
冷花は淡々と説明した。
「神崎くんの前回の記録と比較すると、今日はタイムが縮まっています。結果は私のほうが上でしたが、あなた自身の記録は向上しています」
「…………」
「努力の成果が出ていますね」
颯真は、ぽかんと口を開けた。
周囲は完全に静まり返っていた。
やがて、誰かが小さな声でつぶやいた。
「……会長、神崎くんのこと、好きなんじゃ……」
「ち、違うだろ! これは、その……!」
颯真は慌てて否定しようとした。
しかし、冷花は首を傾げた。
「好き、とは?」
「えっ?」
「神崎くんのことは、嫌いではありませんが」
「…………」
「何か問題がありますか?」
「い、いや、問題とかじゃなくて……!」
颯真は顔を真っ赤にした。
冷花はしばらく彼を見つめた後、静かに言った。
「では、私はこれで失礼します」
そして、何事もなかったかのように教室を出ていった。
扉が閉まる。
数秒間の沈黙。
次の瞬間、教室中が爆発したように騒がしくなった。
「神崎! お前、一ノ瀬会長からクッキーもらったぞ!?」
「しかも手作りだって!」
「どういう関係なんだよ、お前ら!」
「うるせえええええっ!」
颯真の叫びが、教室中に響き渡った。
*
放課後。
冷花は生徒会室で、今日の記録を整理していた。
持久走の結果。
生徒会の活動報告。
明日の予定。
いつもどおりの一日だった。
ただ、一つだけ。
机の端に置かれたクッキーのレシピ帳を見つめ、彼女は少しだけ考え込んでいた。
颯真に渡したクッキーは、今朝、いつもより少し早く起きて焼いたものだった。
なぜ、そんなことをしたのか。
自分でも、はっきりとはわからない。
努力の成果を認めるため。
そう考えれば、説明はつく。
けれど、それだけなら、わざわざ手作りする必要はなかった。
「……不思議ですね」
冷花は小さくつぶやいた。
神崎颯真。
自分に何度負けても、決して諦めない少年。
勝負を挑んできては、悔しがり、怒り、笑い、また挑戦してくる。
ほかの生徒たちのように、自分の顔色をうかがったり、遠慮したりすることもない。
彼と話していると、予想外のことが起こる。
そして、それは――。
「……悪くありません」
冷花は、静かにレシピ帳を閉じた。
そのとき、机の上のスマートフォンが震えた。
生徒会の連絡用グループに、メッセージが届いていた。
送り主は、神崎颯真。
『一ノ瀬! クッキー、うまかった! ありがとな! でも次は絶対に勝つからな!』
冷花は画面を見つめた。
そして、返信を打つ。
『どういたしまして。次回も期待しています』
送信。
すぐに既読がついた。
続けて、颯真からメッセージが届く。
『おう! 覚悟しとけよ!』
冷花は、画面を見つめたまま数秒間、動かなかった。
やがて。
ほんのわずかに、口元が緩んだ。
「……本当に、不思議な人ですね」
その声は、誰もいない生徒会室に静かに溶けていった。



